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<注> 原稿は旧字と旧かなづかいで書かれていますが、旧字だけは新字に変換し、かなづかいはそのままにしています。

神工震災記念号目次

■ 巻頭ノ辞………秋山学校長

■ 大震災と学校………高橋 暢

■ 震災実記………同窓会員

   同…………神工会員

■ 第10回同窓会総会だより(略)

■ 同窓会員震災被害調(略)

■ 同窓会員の移動(略)

■ 会務報告(略)

  矢島敬太郎君を悼む

  鳴呼夢の如く逝ける三君を悼ひ

口絵  本校震災状況写真5枚

倒壊した正門

玄関の大亀裂

全壊した生徒食堂

波打った廊下

巻頭の辞 会長秋山岩吉

大正12年9月1日に於ける大震災の惨虐は今更言を新にする要なく物質的にも精神的にも其受けし打撃の甚大々る到底計り知る可らざる所なり。此間にありて本校が比較的其被害の軽微なりしは天佑とも云ふ可く、殊に職員中1名の死傷者なく600名の生徒中只僅に1名の犠牲者を出したるに過ぎさりしは是を他の学校に於ける被害の程度に比して殆ど奇蹟とも云ふ可きなり。従つて其復旧も案外に早く、10月初句より略完全に授業を開始するに至りしは実に不幸中の幸福とする所にして、就中卒業期を控へたる最上級生に取つては一層其感を深くせざるを得ざりしなり。

校舎工場等建築物の頽破(たいは)状況に至つては誠に惨々たるものにて、今日こそ応急修繕により稍(やや)見直すことを得るに至りしも、嘗(かつ)て輪奐(りんかん)の美を誇り震前当時に想到すれば転(ころげ)た憾慨の情に勝へざるなり。然(さ)れとも物質的の損害は経費と時期とさへ得れば回復は左のみ難事にも非ず。本校舎の如き両3年の後には復興的色彩を発揮し大に面目を一新するに至るべきを信ず。唯永久に回復し得べからざる最も悲惨なる痛恨事は実に前途有為の士を空しく失ひたることなり。然(し)かも同窓会員中3名を数ふるに至りしは返す返すも遺憾の極と謂はざる可らず。是等の諸君は卒業後孰(いずれ)も其所を得て前途に大々る希望を抱きながら活動中なりしを突嗟の間に此災厄に罹りて逝けり。実に哀悼に勝へざるなり。

今や震災後十余月を経過し復興気分は益横溢(おういつ)し着々として其実現を観んとす。而して物質的復興の総べては所謂る工業の力に俟(ま)たざる可らざるや素より論を俟たざる所なり。此時に当り工業技術者の手腕と活躍を要するや自明の理にして而も又技術者の重大々る責任と謂ふを得べく、諸君の前途や実に多望にして又多幸と謂はざる可らず。幸に諸君の自重と健闘とを切望して止まず。

大震災と学校 高橋 暢

「これはただのゆれ方じゃないぞ」と思い私は机の下に頭を突込だ。その日11時58分帰へろうとして上衣を持つとぐらぐらと来た。窓際の中山氏がパツト身を躍らして窓から飛び出たのに続て本郷氏も丸くなつてころがり出た。その様子があんな大きな事になろうなどとは夢にも思はなかつたしまあ云はばたかをくくつていた私にはたまらなく滑稽に見えたので思ひきり無遠慮にアツハツハアツハハとやつていると見るみる猛烈なゆれ方となつて来て窓ガラスの破れる昔が物凄い有様となつたので咄嗟に机の下に頭を突込んだのであつた。 

突然グワンガラガラ本箱と薬品戸棚が一かたまりになつて一尺と離れた所へぶちまけられた。

「こいつはいかん冗談ぢやない」私はいつか真青になつた。今度は誰よりもつと早い足取りで窓枠に手をかけて10間位一飛のつもりで逃げ出した。屋根から何が落ち様とその時家がつぶれ様とそんな事を考へる余裕もなくそのくせ足が地につくや否やわけもなく払はれて2、3度は転つたがとも角も運動場ヘと駈つけた。職員も生徒も大分かたまつていたが誰も誰も皆てんでんに何かしらにしがみついていた。

私は漸くテニスコートの柱につかまると同時にゆれ返しが来た。恰度(ちょうど)コートを中にして直経にしたら5間ほどにもなろうか円形に地面が裂けてそこ丈けが一かたまりとなつて余震の度毎に大きな渦を巻く様に烈しくゆれる。建築科の標本室は周囲が一面の出水で地響毎に海に漂ふ小舟の如く浮き沈みする。 

早くも隣接リンネツト工場からはメラメラと紅連(ぐれん)が舌を出し始めた。そこここから火が上る。火事!火事!といふ声が右往左往する人々のうちに食堂が危険!生徒が!といふ声がする。ハツトして駈けつけると「ヤ、」あの大きな食堂は一たまりもなくピヒャンコになつている。然も生徒は14、5人も下敷だといふ。「とび口を持て来い」と誰やらが走り乍ら叫んでいる4、5人がかけつけたがひどい砂けむりの中に立てどうする事も出来ない。 

幸ひに1人の負傷者もなく這ひ出してきた。そうこうするうちに「それ物理室から出火だ」と云ふ声で又一しきり気がひつくり返て駈け出す正に大事に至らんとして之れも消止めた。折から各所に起きた災の黒煙は満天墨を流した様極度の恐怖と不安のために世は全くの修羅場と化し終た。 

これは此大地変の突発してから僅(きん)々2、30分間内の然も運動場を中心として目撃した出末事であつた。

◆校舎の被害状況◆

敷地が昔泥田であつたせいであらう水道管の破裂もあらうが地震と同時に校舎周囲至る所に泥水が噴出した。地盤が盛土であつたにも拘らず、倒壊校舎の少かつた事は一つの奇跡とも云ひ度い。然し之は校舎の位置即ち建ち具合並び具合がよかつたのだと思ふ。 

今度の地震では大体に於て南面に置かれたもの建てられたものの方が倒れたり潰れたりした様に思はれるが幸ひに校舎は東西に長いので比較的に悲惨な倒壊丈けは少部分ですんだのであろう。スワ地震といふ間もなく瞬間に全く倒壊したのは生徒食堂である。あの壮麗清楚な食堂の倒壊振りは写真について承知せられたい。 

図案部及中の教室2棟は使用に堪えね迄の大破損で外観は土豪から上が一間ほども東南に辷(すべ)つた丈けで写真で見ては左程の事もなさそうであるが中に一歩入つた時はあまりの無惨さに誰しも唖然たらざるを得なかつただろう。廊下はそこここに小山ほどの突起が出来て弓の様にそり返へり教室といふ教室はことごとくはゆがみ間仕切は離れ天井はおちかかりとても平気で歩けぬほどの大破損であつた。 

本館も随分ひどい事務部当直室玄関第一教室にかけては最もひどい。今一歩でこれも土塁から辷りおちる所てあつた。玄関のセメントポーチには巾5、6寸もあらう大亀が2、3すぢ出来この辺の地盤が低下したらしく階段は地中にのめり込だ形に崩れひさしの柱は4、5寸も宙に浮き上がつている有様。あの長い廊下は大蛇ののた打ち廻るに似て紆余曲折し教室とは一尺以上も裂切れて弓なりに垂れ下り窓全部は一帯に内側に2、30度ほど倒れ所どころ天井のおちかかつたのが発條の様にしなふ廊下と共に通るものをしてゾツトせしめた。 

職員室事務室その他の書棚机大方はうち倒されて書類書籍の所きらはず散乱するのも物凄かつた。それに余震の度毎に窓ガラスがビリビリ破れておちるのが外に居てさへも身の毛がよだつ程であつた。正門の柱は1本は見毎に転倒していた。敷地をめぐる下水がことごとく埋て湧き出た水が道路一面膝を浸する迄洪水の様に沈滞していた。 

講堂は流石にしつかりしていたが全体としてはヤゝ東に傾いで土塁廻りに亀裂を生じた所が出来た内部の壁ことごとく落ち去り壁間の石膏の一つ二つ丈けおち残つたのが悲惨を語り顔であつた。

新館は新築3、4ヶ月であつたので壁は可成り落ちたけれども被害としては僅少であらう。

◆各科工場方面◆ 

工場関係の方面では何としても機械科が一番目に見えた被害があつた。 

仕上工場……幸ひにして機械類の破損は一つもないが工場全体地盤の低下の為め機械の基礎は3、4寸落ち込んだものが多い柱は孰(いず)れも皆2、3寸は梁から抜け出していた。

鍛工々場……火床の煉瓦積ことごとく振り落され蒸汽鎚の蒸汽管は捻ぢ切られ鋳造工場との間仕切に大穴が空いた。

鋳造工場……屋外のキューポラ開校以来工場の装飾然として浮世離れのしたあの長大なる体躯それが美事に足払ひの苦手で建築科との渡り廊下の屋根を打破つてもんどり打つた所大英雄の臨終の如く何んとなく見るものとして感銘を与へる如き感があつた。

真鍮炉のコンクリートの煙突も屋根を破つて15度ほどに傾き壁に対した大きな木型戸棚も転倒したのがあつたが中央の起重機丈け超然として立た儘(まま)びくともしなかつたので不思議と思つたが矢張り8、9分道り危険状態であつたのであろう。1月15日2寸の振幅にわけもなくねこそぎ倒れ終つた。 

原型工場は損害もつとも少く研場の破損位ですんで次が汽缶である。建物としては周囲の張り煉瓦が5、6分通り振り落され内部ではボイラーの煉瓦積がほどんど全部バラバラとなり赤肌になつた。2、4本のチューブがすすけた横腹を見せているのが涙をさそふ程いたましい。 

隣接タンクは根元から傾斜し蓋は二間あまり付近に飛んでいた。煙突はその時尖端が4、5尺も左右に振れていたといふ事であるがひび一つ入れない蓋(けだ)し耐震建築の最上であると門外漢でも感心させられた。 

建築電気家具の諸工場では機械など大きなものがない為めに建物以外に非常な損害はなかつた様である。標本室は各科とも大小数へ切れむほど破損したものが多い。が考へるに工場としてはその被害は比較僅少であつたろうと思はれる。

◆警備◆ 

私はここで寄宿寮生徒を主として当時の警戒振りを紹介したい。 

戒厳令布かれ軍隊到着のあつた4、5日迄の寮生の活動振りは実に目覚しきものであつた。 

変事突発と同時に寮生60余名夫れそれ手分けして急救薬品携帯学校付近住人一帯の慰問に努め之れが救護に当たり不逞(ふてい)鮮人襲来の報一度伝はるや直ちに武装して徹宵校舎内外の警備に寝食を忘れて尽した。1日2日の徹宵はさほど苦痛もないが4日5日とつづくと日夜の警戒如何に非常時とは言へなかなかに堪へ得るものではない。然も遠く親兄弟の安否にどの位か心を痛めつつあつたろうに…。 

世は真に戦国時代と化し終た。折柄半弦の月光青く焼土を照す中を長刀、槍、根棒とあらゆる武器武装に身を固めて山川の合言葉に更けゆく大道を破歩する青年団員在郷軍人の血なまぐさい談し声について起る呼る笛と喊声実に人触るれば人を切り馬触るれば馬を切るの慨があるその中に綿の如く疲れ切つた五体を以て銃創の光物凄く歩哨線を張つて立つた寮生!「歩哨」と呼んで廻れば「オー」と答へる緊張したあの警戒振り誰か涙なしに見たであらう。

5、6日目に陸続と軍隊到着し本校は炊事班の駐屯する所となり2個少隊の警備隊が配置せられて付近一帯の警戒に当たりついて甲府其他の連隊区より召集を受けた在郷軍人数百名寄宿舎を始め教室工場に宿泊して焼跡の整理に奔走してくれたのであつたが10日頃寮生は漸く家族に会ふべく帰省した。 

私は寮生の献身的な働き振りに対し限りなき感謝を表したい。そして本校が天佑に依り隣接地からの出火をも免れ社会的にあらゆる方面に有形無形に尽す所多かつた事を諸君と共に喜び度いのである。