神奈川工業会ホームページ > 会報復刻版 > 震災特集号

<注> 原稿は旧字と旧かなづかいで書かれていますが、旧字だけは新字に変換し、かなづかいはそのままにしています。

はらからの土 機五 田端武次

天罰てふ大篩によつて、地下の君等も生き残つた僕等も共々に振はれるのであつた。僕等はただ恐怖に駆られ此のつまらない、生を続けようと、逃げる所はないか、かくれる所はないかと、右往左往にうろたへ、あせるのであつた。そうしてやつと安らかなる地帯に避難し得た時、あゝ!、君等は其の時紅蓮の焔と戦ひ濛々とわき起る煙と戦ひ、其他あらゆる大困難と戦ひ同じはらからの一人なりとも逃げ出る様な様々の手段を尽して呉れる、さうだとんな事も思ひ出される。

『さあ!もう大丈夫だ。お前は早く逃げい俺は之から妹をさがしに行くんだ『早く早く』何にをぐづぐづしているんだ』『前通りまで来たんだぞ、逃げ去り行く弟の後姿を見て一先づ安心、己は再び火焔の下を潜つて、○○子や○○子やと煙の中で叫びながら駆けまはつた。

火焔を全身から吐き出してぬつと立つていた太い電信柱がメリメリと音を立てながら恐ろしい勢と共に電線を引破り、轟ツと大地に打ち当つて火花をパツと散らした、途端『ウーン残念だ』と一語聞えたかと思ふと再び○○子や○○子やと呼で声は聞えなくなつてしまつた……天は此の様な恩人等を逃げまどふ僕等と誤解したのであらうか、死といふ宣告を与へてしまつた。然し君等はこれでも此の僕等を見すてはしなかつた。『早く逃げろ』『此の俺はどうでもよい』、『早く早く』、おゝ、其の声も次第次第に消えてゆく。

朝に夕に身に食ひ込むやうな空気につき、骨もとろかすやうな残暑につき、思ひ出さるゝは君等だ、あゝ何もかこつまい。

君等が死を与へられる時の冷たさは、火に焼かるゝ時の熱さは、しても僕等は経験する事は出来ないのだ、たヾ僕等は心から感謝する感泣する、どうしてこの大恩に報いようか、そうだそれは此の市の復興に力を合せるのだ。

再び東洋一を誇る横浜港にしたい、いやしたいのではない、するのだ。そして君等の御魂に対して丁重なる感謝の式を挙げるのだ。その時こそ天も君等の徳を称へ、永遠の楽園なる天国に招待して天自ら君等の労をねぎらふであらう。

おゝ、さらば、我が同胞よ!

「声に」宛てた通信 機五 関根 清

9月3日の朝、空を覆ふ黄濁の煙をついて一台の飛行機が私たちの避難している所の上空をさして来るのを見た、1日以来一切の通信機関が断絶してしまつたので、地方のありさまを知る事が出来ない。僅(わずか)に電柱にはつた通信で、江の島が陥没したの、房州に新島が出現したとか、飛行機にて通信を取りつつありなど見たが、大かたこの飛行機によつて横浜の惨状をお前の方へも伝へられる事と思ふ。

何しても私にちが無事であり、家もつぶれもせず火災もまぬかれ、大した被害を受けずに済んだことをお前に知らせたいと思つてい乍ら、かんじんの郵送があこなはれていなかつたのでつい遅くなつてしまつた。

近所に住むお前の友達は皆無事だ、石川の伯父さんところはつぶれて焼けたが人は無事であつた。みせも森の家もつぶれる。みせの家ではお祖母さんがなくなられる。長島町のお勝さんは、梁の下敷にされ、北村さんとおみよちやんはやつと出て、お勝さんを助けやうとした時には、もう見るもすさまじい火の旋風が2、3軒さきに起つていた。ごうとなる魔風にぱつと立つ火の団は、2人のまはりに降つていた、ぐずぐずしていると2人の身があぶなくなる。

北村さんはついにお勝さんを助ける事を断念せねばならなかつた。『あゝゆるして呉れ』と言つてにげて来た北村さんは『お勝を殺してしまつた』とぽろぽろ涙をおとした、ボロボロになつた浴衣姿は目もあてられなかつた。3日目焼後へ行つたら綺麗に骨になつていたと。小さなおみよちやん可愛想だ。

あゝそれから隣の政ちやんは3日の晩海水着を着ていた為、鮮人と間違へられて太股を竹槍でつたれる。それは大変なさわぎだつたよ。この外見たりきいたりして知つているだけでも、川の中に身を沈めで一晩中火焔をふせいだ者、煉瓦に足をはさまれるだけで死んだ人とんな話はいくらあるか知れない。

下町の家と云ふ家は一つものこらず灰に化り、水道は破壊され、電気は消え、電車、自動車も休止して多くは、線路や道路上に醜い姿を留めている。其時から2週間ばかりはまつたくの昔にかへつてしまつた。夜はうすぐらい糸心蝋燭で暗をてらし、どこへ行くにも玄米の握飯を(お前はまだ玄米の味は知らないだらうが)腰に、水筒を肩に、暑い日中あるくより手段はないんだから。本牧の端から蒔田へかけて見渡すかぎり、煉瓦やコンクリートの残骸や、立木のやけたのはあるが、一面の焼野原を見ては唯天の暴虐をうらむばかりだ。実際5日6日までは到る所に焼死体が横たはつていたのだよ。僅か1日2日でこの横浜の大部があれはてた焼野原にならうとは?

私は不思議に、夢とより外思へない、10日の夕方使の帰途牛坂を通つた時広くまつくろな焼跡の2、3個所で赤い青味を帯びた火がまつすぐに空に発つているのを見た。何とも云へない悲しさが起つた。それは市内で亡くなられる人々を焼く煙なのだ。 朝から今日は曇つて冷い風が焼原の上を吹いている。公園や焼跡の仮小屋に単衣1枚で住ひ人々はどんなに心細いことだらう。

『どーん』と底力のあるダイナマイトのやけあとに打たれのこつた家を爆破させる音が障子にびりびりとひびく。

『横浜はもうあきらめた』と勲は11日田舎の唯平さんにつれられて行つた、1日以来震災に火災にそれらをやつと逃れてもやけのこつた山の手は、強盗放火などの噂で、大人も子供も一様に魂を脅かされるんだから、小さな奴が父母の下をはなれても田舎へ行くと云ふのも無理もないね。私も兄も夜警やら慰問品其他の配給品やらで休みない日を送つている。

此を書てしいる内にもいく度か、地震に見舞はれて筆をおいたことか、昨日から市内へも電報や葉書やらが来るやうになつた。今日きた中にも8月の末に出したのが一月半もかかつてきたのがある。お前の手紙を手に取つで見るのも間のないことだろう。おひおひ寒くなる身体を丈夫にしてこつちの方は心配せず一心に勉強しなさい。

震災所感 機五 中村広三

大正12年9月1日

すでに秋風吹始める時節であるのに例年にない暑さ、空も快情であつた。親鳥小鳥楽しく語り合ひ太陽の恵みの光穏に下界を照して居る。人々は今日一日安かれと天に所りつゝ役所へ、或は銀行へ、或は工場へ急いだ。かくまで平穏なる此日噫誰か思つたであらう。彼の大事変を大惨事を。其日も半頃となつた。学校のひける頃役所のひける頃、即午前11時58分食事中の者もあつたであらう、帰宅せんと靴をはきつゝあつた者もあつならう。

其時に当り突然小さきゆれがあつた、此が大地震大火災の前駆であつたのか、地震国の吾々例の地震がと高をくゝつていると轟々と地唸がしたかと思ふと、壁は落ち床は裂け、柱は折れ人は倒れ地は割れ、車上の人は投出され、大層高楼は一瞬にして崩れ落ちありとあらゆる物はその位置に止る事は出来なかつた。余震又余震に崩れ又倒れ人々の助を求ひる声、うめく声、近親を一呼ぶ声、全く此世乍らの地獄と化した。たちまち火の手は八方に揚り、傷ける者倒れし者、避難する者、又吾々先祖の肉と骨より成るあらゆる文明は今は塵の如く小時にして焼つぶされてしまつた。

科学が何だ。人智が何だ。噫小なり人間の力。然れども我々はあくまで自然と戦はねばならぬ。やがては人間の前に自然の降服する時が来るであらう。

震災に関しての予の感想 機五 大塚芳松

実に空前絶後の大震災であつた。

忘れんとしても忘る事の出来ぬ9月1日、時は正午であつた。一瞬。身に大動揺を覚へしと見る間にいぶせきあばらやも、大層高楼も、びしやびしやと潰れ、同時に四方より猛火起こり、幾多の我が貴き同胞の生命は焼野原に消え失せたのである。而も其の死たるや実に無残の至り惨鼻の極なりと云うべきである。

次いで鮮人の暴行到るに及び、人々全く生色無たつた。戒厳令の敷かれるるも亦此時。食ふに物なく働くに職なく高官高職の人も、無官鼠輩のやからも一様になり実に腕一本脛一本の姿であつた。

こゝに於て予の泌々と感ぜしは体育其物である。身体さへ健全ならば如何なる辛苦も之を排しのけ、他日世に立つ事も出来るが平常より身体の鍛綠に重きを置かず美衣美食に慣れ日頃何等なす事なくして徒らに日を過せし不心得者は一朝此の如き大震災に逢ふや忽ち恐怖心に捕はれ只あわて騒ぐのみにて路頭に迷い日頃の不心得より少しの動勢にも耐へ得ず機につけ込ひ病魔の為め遂に路傍に倒れるとか警察の御厄介になるどか、将た此の如くならずとも奮然起つて職を求め、此の大きな風波を乗切つて他日の成功を期するなど、到底不可能の問題である。

これ日頃鍛練に重きを置かず、体育などと度外硯したる、できめんの天罰ではないか。

よし此の如き事なくとも、日常健康の必要なるは今更此所に這べる必要もあるまい。

吉人日く。「健康は富に勝れり。」と。然り健康之れ

金銭にて購ひ能はざるものである。

大震災に付いて 機五 小泉辰雄

二百十日を翌日に控へた9月1日は大厄日であつた。朝から激しく降つて居た雨も、やがては快晴となつた。穏かな真昼、恰も午鈴が将に鳴り始めんとした時、俄然大地震が起り、家屋は倒潰し、地は割れ、さしも交化の中心地たりし大都市も忽ち阿鼻叫喚の修羅場と化した。それに続いて火の手は八方より上つて、横浜市の中心地の大部分は僅に一昼夜にて焦土と化してしまつた。

尚も激しく続く除震に、人心恟々として、仕事も手に付かず、繁栄を極めた横浜市は何時復興するやらとのまゝ一寒村に帰してしまはうかと思はれる。然し日がたつにつれ、人々の震災気分も何時した、復興の気分に変じ、市中到る所、復興の気分で満ち満ちて来た。

之れるらは華美虚礼を尊んだ時代は、地震なる天罰に依つて一掃され質素簡潔なる時代となつた。即ち質素簡潔に依つて復興に努力せねばならぬ。

刹那 機五 日吉菊男

ハツと思つて逸早く外に飛び出た。其の刹郡激震が来た。さながら千鳥足にて地を這ふ如くしてとある樹木に辿り着いた。小学校の壁土は煙の如く瓦四方に飛散する。

「オオ地が割れる割れる」。と誰かがのどより絞り出す様な声で叫んだ。片手に靴をぶら下げて出たものもある。心臓は早鐘を打ち始め暗い暗いたになつた。どの友人を見ても顔色蒼白生きた色もなくしばし沈黙の体。蹌(そう)々として地上に横つた校門を後にした。極度の恐怖に怯えた眼をして血みどろになつた人が走り来た。

雲か煙か黒焔見る見る渦を巻いて起り、祈からの烈風に煽られて、或は右に、或は左に移る。余震連続して起り高楼の倒壊する音轟然四境を驚かす。大陽は忽ち暗く光を失ひ、病める様に煙の中に包まれて了つた。何となく凶事を想はす空の色だ。火焔めらめらと天に渦巻き、地を砥め奔放の限りを尽して居る、黒く、赤く、淡く、数ケ所から上る煙を風になびかせて居る。悪魔の如き紅蓮は遂に切迫した。「あゝ此所も危い」「「こゝも駄目だ」と悲惨の声は発せられる。

「逆行せよ、逆行せよ」と心の何所かで叫んだ。

なき弟の霊に捧ぐ 機五 石田菊一

如何して本当と思へやう!お前の死を!お前は本当に死んだのかしら、本当に!

朝!昨日の朝お前は生きていた。生きていて――私の学校に行くのを笑ひ乍ら見送つた筈だ。それなのに、どうして本当と考へ得ることが出来よう。お前は生きて居るに相違ない。

さうしてお前は眠つているのだ。きつと――私は少くとも、さう信じたいのだよ、――

  ×     ×     ×     ×

12時2分前にあの大地震が来て家が殆んど潰れる時、私や、母やお前の直ぐの兄で私の弟に当るKとりわけて弟のKはお前の姿が見えないので如何に探し廻つた事だらう。俺達は心配ながらも汽車の線路道へ逃げた。俺達はその汽車道で、前のにも劣らない程な大きい余震に幾度となく揺られるばかりで無く大きなく火の渦巻に出合つたのだ。弟よ。母はそこへ逃げ乍らも、絶えずお前の名を呼ぴ続けて居たのだよ。お前の名を!。

弟よ、その内にお前の姿を見出す事が出来なかつた。其の内にあゝ横浜は火の海となつてしまつたのだよ。さうだ俺達の家も、弟よ、俺達わけてもお前の真実の親は焼けて行く家の方を見ては、どんなにお前の事を語り暮したであらう。俺達の両眼からは熱い涙がとめどもなく流れていた。さう!お前の為に。死んだであらうと想はれる所のお前の為に。

  ×     ×     ×     ×

さうだ、お前の姿を見出したのは、その夜明け方焼跡の煙が未だ空に消えて行かない頃であつた。俺と父が母達を残して焼跡の家の方へ出て行つて、そこでお前の姿を見ることが出来たのだよ。――お前の死んだ姿を――。

弟よ、その時父はお前では無いと言つた。

俺でさへその時になつても、お前は生きて居ると信じて居たのだもの。

  ×     ×     ×     ×

弟よ、俺も父とが其の焼けただれて、人の形をしているばかりの骨と灰とが、お前であると知つた時の心持は如何であつたか知るこどは出来まい。

──死の苦しみをも終へたお前にもう到底知る事は出来ないに違ひない。──俺達の涙さへも──。

弟よ、お前は苦しくは無たつたか、あの大きなものが、お前の体を打ち付けてお前の血を、さうしてお前の命をもしぼり取られる時お前は、呼びはしなかつたか?俺達肉親の名を──。

あゝ弟よ、俺はその時のお前の心の内、その幼い魂が、如何な事を考へ如何なる地であつたか?と想ふと、本当に人間がいやにになつて来る。たヾその事だけかこの数幾年経つても俺の心をえぐる、恐しい様な鋭いメスだ。

だが弟よ、お前は最後のこの事をお前に話して話したらお前はきつと、良い所へ行けるに相違ないそれがせめてもお前への俺達がする一番良い供養であらうと想ふ。弟よ「あの幾千人死んだか解らない焼後の中でお前の屍に対して、本当の心からの涙を濺(そそ)いて呉れるのは、お前の真実の親兄弟ばかりで無たつた。――道行く人までもと云ふことを――。

此の際 機五 齋藤幸之助

哀れ帝都は昔の武蔵の野原に帰つた。然し今は漸く人心の動揺気分も薄ぎ復興気分も益々濃厚となつて来た。此の貴重なる気分を善導して、今後の方針を誤りなからしむるは、為政者の最も重大なる責務であらぬばならぬ。

然るに現在思想界の風潮は帰する所なく、例へば此所に隣保共助の精神を発して『此の際はお互に助け合ひませう』の高徳家あると思へば、黄金万能主義を振り廻し『此の際義理も何もあるものか』の破廉恥漢もある。此の際を善用して向上発展の途を開くものもあれば、又此の際を看板に暴利を食るものもある。その抱く所の思想、千差万別其の向ふ所十人十色である。故に、此の混沌たる世態を善導して『此の際』を善処する所なくては、国家の前途誠に憂ふるに堪へざる次第である。

此の際にあたり質素倹約勤勉力行の精神を涵養せねばならぬ。然し消極的に流れてはならぬ。此の際を政治的経済的方面から見るも教育的方面より論ずるも、為政者は此の際国民の思想を善導し、其の向ふ所を知らしめねばならぬ。又此の際を為政者にばかり負はせ置くべからず。宜しく吾等、有為の青年たるものは、此の日本の国家的基礎を考へ、我が光輝ある歴史を益々発揮せねばならぬ。

此の際吾等の禍福の分岐点を誤るが如きは、日本の青年否世界一等国としての我が帝国の誇りを一挙にして失ふことあらば、世界列強の物笑ひとなるであらう。

宜しく協調一致を旨とし以て国家的精神を養はねばならぬ。

震災について 機五 田中重吉

なんと大きい地震だつたでせう。ほんとにほんとに筆には表されない地震でした。富める人貧しい人も皆一様に新しい生涯に入つてしまひました。其の日私は学校に居りました。当時私はなんとも思つて居りませんでした、しかし却々鎮まりませんでした。鎮まつてから東神奈川駅へ駆け込みました。すると火の手が神奈川駅の方に上りました。

流言は流言を生んで「大江橋が焼け落ちた」「関内では人が正金の前で死んでる」「津浪が来た」。容易に家の方へ帰れさうもありません。到頭一夜を東神奈川で明しました。やくやく3日になつて家の方へ帰りました、なんと悲惨なる光景でせう。朝迄空高く聳えて居た大層高楼も哀れ灰土と化してしまつたではありませんか、共の所には人が死んで居たのです。いくら本町通りを通つてみましても、容易に焼後が見つたりません。そこには懐しい家も親しい御友達の家も皆同じ様に塵となつて居ました。

やうやく立退の字が見つたつた時は非常に嬉しくてつたれる足を引きずりながら棒を下げて立退先へと出かけました。途中何人焼死した人を見たでせう。あゝなんと人生は短いはかないものでせう。家人と逢つた時涙が出て容易に口を開く事が出来ませんでした。「妹は」。「焼け死んだよ」。「はつ」と姉は泣き入つてしまひました。妹が死ぬと知つていたら、もつと生前に可愛がつてやれば良たつた。丁度其の時家は昼飯でした。妹は近所の御友達の家へ遊びに行つて居ました。

「グラグラ、」同時に家の中へ駆け込んで来たのでした。其の瞬間家は倒れてしまひました。そして火の手は早くも燃え上つて居ました。父が来てやうやく母と老母を助け出しました。火の手は助ける人助けらるゝ人の袖にも焼け付くのです。とうとう妹を助け出す事は出来なくなつてしまひました。あゝなんと哀れな短い一生をしたことよ。

大正12年9月1日午前11時58分を忘るな。永久に忘るな。さあ我々は新生涯に入り此の大横浜市を復活させねばならぬ。

働け働け其所には復光の語が待つて居る。市民よ

働け、大に奮はなければならぬ。

大自然の暴虐に対する人類の抵杭 電五 池田 猛

一朝にして安泰の夢は破られる。そは9月1日午前11時58分の安政大地震以来の強震の為だ。東京横浜を始めとして付近一帯の人々は突然の事にをのゝき慄えざるを得なかつたであらう。続いて起る火焔は此の大都会をして一夜にして焦土と化してしまつた。昨日迄は栄華の極を尽していた都人は一朝にして着るに衣なく、眠るに家なく、喰ふに食なく、身を喪ふ者よ、肉親を喪ふ者、身を傷つくるもの其数を知らず。

此の凶報内外に伝はるや弔辞が四海より集り各国の同情は甚大なものであつた、殊に米国の如きは巨額な金円と病院及衣類を多数に寄付したのである。

内地に於ても各地方の同情金は夥しく地方の小学見童の可憐な慰問状並びに教科書の寄付には何人も涙せこぼさずには居られまい。

此の震災と同時に戒厳令が布かれ東京、神奈川、千葉、埼玉の1府3県に亘つて軍隊が警戒の任に常つた。又航空隊では偵察、逓送に従事したのであら。工兵隊は焼跡の残骸其の他諸々の橋梁を修繕し軍用電信の架設とした。海軍では無線電信によつて諸地方へ関東震災の情報を打電した。

之が為各所よりの救護船続々関東に急航し避難民の輸送に従事した、大阪の在庫官米も多最に運ばれる。

此の混乱中にも陸海軍人は自然に抵抗して各罹災民其の他震災区域以内の人々に対して慰安の念を与へたのである。之が為人心次第に安定になり9月下旬には殆ど全く安定に帰して了つた。

仮屋は各所に建設される。東海道線、中央線も全通し震災区域以外の繁華な関西よりは貨物もどしどし輸送される、東京、横浜の市内電車其他も全通に垂んとしている有様ているとれぞ自然に対して艱難に艱難を重ねた賜であると云はねばならぬ。かくして進捗せば大都会の復興も近き将来に見る事が出来よう。

無蓋貨車に乗りて 電五 森川清信

9月1日の魔の手にチヨイとひつかけられる吾家!

昔ならば堂々と下るべこき東海道も、今は淋しくトボトボと10里離れる片田舎へ乗込んだ、此に幾日か、軍隊の力、人々の働により此に鉄道が通ふに至つた、噫、多年住みなれる横浜恋しの念禁じがたく鉄道通ふて3日目に姉と共に、横浜行を志した。壊れる茅ケ崎、馬入川の鉄道復旧ぜず、為に東京行列車の乗り場は此所からだ。地震で曲つた儘整へた線路、恰も長蛇の蜿?(えんてい)たる如くである。木切れに腰をかけて汽車を待つていた。

「アゝ来た来たなんだあの汽車は」と叫んだ者があつた。人々の目は一様に西方を見張つた。汽車は無蓋機関車の後につき居るも奇妙である、シユーガタンと音高く汽車は止る。ワーと上つた閧の声、キャーと叫ぶ女の悲命、「いタい」「危い」「押スナ」「押スナ」の声は乱発、やがて貨車は人で満されて、頭に手を上げれば上げたなり下せず横を向けば再び戻せね程一杯ビリビリポーと汽笛一声ホームを離れガタガタ震動してぐすりぐすりと動きだした。

「愈々だぞ」と予か言ふ。列卓は程ケ谷を後に横浜さして進行中「どうだい」驚異の声を発したものがあつた。同時に今まで地震で逃げ火に追はれ、つぶれる、焼けた話で夢中であつた。人々の声もハタと止んで「よく焼きました」と驚歎の声と化した。一面焼野原と化した。我が横浜今は赤と黒の色に彩どられその様や唯「あ!」の言葉のみで形容すべき言さヘ矢つた。焼け果てた横浜駅見る影さへなかつた。常なれば「横浜々々」と呼ぶ駅夫の声と共に下りた。今は押され押されて危き中に下りた。

幾日か過ぎて後には早や再びかゝる列車に荷物の如くに乗ることは出来ぬ!噫!一生を通じかかる詩的な列車には乗れぬであらうと黒煙濛々として走り行く列車の後を名残惜しくも睇視した。

灰になつた都を去るに及んで 電五 塚原 実

可憐なコスモスの花が咲きかけようとする頃、私は故郷へ帰らぬばならなかつた。破れる靴をはき、どろどろによごれる夏服を着、そして生ぬるい水の入つたビール瓶をさげた私の姿よ。地の怒りにふれる私達は余りにみじめであつた。日の光は無限の恵を孕んで居た。

然し私の影はやつぱりびさしたつた。私はしらずしらずの間に貨車に乗つた。否積み込まれるのだ。汽笛が此のさへぎる何物もない焼野原の中に一きはさびしげに鳴つた。

嗚呼もう誰とも別れねばならない。

さよなら灰になつた私の家よ。

さよならほろびたる市街よ。

友を懐ふ 電五 前田興道

奪はれる……奪はれる……遂に奪はれる。我が慕はしい我が懐しいたつた一人の我が友は。何といふ呪はしい地震だらう………何といふ憎らしい悪魔であらう。此の広い世の中でたつた一人、真に自分を理解して呉れる友……竹馬の友、再び得能はざる友………

おゝ!我が眼には友の幻が浮ぶ………バツチリとした眼、キリツと一文字に結んだ口、邪念なき平和な明い顔……あゝ!!幻よ、幻よ消ゆるな、消えてはならぬ。

あゝ……もう自分は一人で語らう友も無く、独りで……たつた一人で風荒び悪魔彷徨する人生の広野を彷徨つて行かねばならないのか?知己なき者は野中の一本杉、日影の草の如しとか……淋しい悲しい語だ。過去が懐しい、幾重かの薄絹で包まれて。今は朧と成つた逝きし日が懐しい。胸の扉を開けば思出深く秘められし事々よ……。

南風の薫る露台でまばたく星を眺めながら話上手な彼のお伽話を聞いた時が………樽の七郎、鉄の王子などの……『僕は後に××に成る』など将来を語合ひつ成功の暁を夢見た時が……其の時誰が今日を予期したらう。あゝけれど何と云ふ憎い悪魔だらう。何と云ふ恨めしい地震だらう、火災だらう……友は必とあの猛火渦巻く地獄で……被服廠で……玉の緒の奪ひ去られる最後の瞬間迄私の事を考へ私の幸を訴つたに違ひない。……あゝ友よ。

あまり体が健康の方ではなかつた友は時々冗談の様に談つたつけ……ねえ君……若し僕が死んだら君は僕の分と二人分偉くなつて下さいね……むゝ!それは本当となつた、事実となつた。友は……友の魂は私を護る、私は奮はればならぬ、我が友の為……二人分偉くなる許りでは無い、友の仇を討つ快刀を作ねばならぬ。おゝ!!私は鍛へよう悪魔斬る快刀を科学の力で。友の為にも同じくして奪はれる幾万の同胞の為にも。

臥薪嘗胆――石を噛つても

今に見ろ!!憎さも憎き悪魔よ地震よ、回祿よ、

─大正12、12、1―我が親友の被服廠にて横死せるを聞て

恐怖の一夜 電五 田邊新太郎

『ビリビリビリ』と云ふ呼子の音に『ワーツ』と云ふ喊声が夜の澄つた空気を伝つて響いて来る。

又彼所此所に其度毎に抜身を提げた人々が声する方に走つて行く。『気をつけろ』『朝鮮人が警察を襲繋したぞ』『朝鮮人が押寄せて来たぞ。』既に大震災に脅かされていた人心は更に此の一句一句に戦々恟々としていた。同じ此の境内に避難していた十幾組かの家庭は親子兄妹相抱いて恐しさにふるへている『山』『川』『松』『竹』鉄砲を持つた人、丸太を提げに人等行合ふ毎に相言葉をかはして行く。『此の畜生め』『叩つ殺してしまへ』此の様な罵言をあびながら、頑固さうな休の大男が後手に縛られて行く。 

自分には彼等の惨しい姿がまざまざと目に映る。肩から胸に赤い液体で色どられ口からは赤黒い血を吐いて胸に大きく波打せて苦しむ様が浮ぶ。自分等がもしや彼等と同一の運命になりはせぬかと思つた『ビリビリビリ』ハツと思ふと数町先の彼方に笛が鳴る。続いて2、3人の人が駆けて来た。『灯を消せ』『朝鮮人が三千人余り鶴見方面から押寄せたぞ』『男は皆出ろ』……自分は思はず竹槍を握りしめた。『何くそどうせ死ぬなら敵の一人や二人は』……と自分は心の中でさけんだ。『ビリビリ』『パチパチパチ』又停車場方面に笛の音と共に豆をいる様なぴすとるの音が聞える。月明りに槍のほがとぶ。刄の光がやみにかけつて行く。

焦土の夕 電五 上野喜久雄

霜に打たれる栗の葉が焼け残されて臆病らしくそよいでいる。と見上げる空に一弁散る。散りながらクルリと振り向く、やがて地に達しさうになる。と又一弁離れる。それは月に向つて輝き日に背いて陰りながら風の無い月が散つている。其の向ふには葉も実もない無果花が枝を高く天にさしのべて淋しく離れて立つている。

突然途切途切の啼声を立てゝ百舌鳥が飛んで行つた。後を烏が語を長く引きながら未だ何物かを来めている、裏山にはいつも晴れる夕暮にあるやうな雲が夕日を照り返して到底カンパスにも表はす事の出来ない紅と藍との、色階を彩つたが須曳くして紅のなだれは藍のなだれに消されて行く。そして真紅に爛れる日が裏山に没し終ると雲は急に死色を呈して動揺し始める。瞬く中に一片の影も止めずに濃い一色の空気の中に吸ひ取られでしまふ。

もう何所を見ても雲はない。大空はたヾ透明に碧い。その時四方の山々或は高く或は低く私が眺め廻す地平線にシンプルな変化を与へる、私はその暗みに佇立しているのだ、それから私は凹凸のある道を歩いた。

バラツクの町は目を遮るものも無い。時々低い煙突が透いた窓に立つて見える。電光が寝惚けたやうな色をしをしている。

やがて死の沈黙の中に水の音を聞いた。はや家の前である。

入らうとして、天を仰ぐと、大空一面、星が忙はしい瞬をしている、窓蛸子は張りきつて刄のやうに見える。恐怖――思はず戸に手を触れる。電光がタワツと眼を射つた。

軈(やが)て甦る 電五 霜島光男

おゝ9月1日。

初秋の雨霽(は)れて、
陽炎昇りて、鳥歌ふ、
天高く、陽は白し。
互ひに比べん、
三十齢日錬へし腕を、黒鉄の面を、
楽しき学舎に。
おゝ嬉しき一日。

おゝ、9月1日。
吉か!凶か?
神は与へた、
半ばエデンを、半ば修羅の巷を。
呪ひのタイム、11時58分、
我正に、一椀を執らんとす、
たちまち住家、浪の小舟と変じ。
おゝ、恐ろしき一日。

あゝ、悲なり、惨なり。
猛火家を砥め、尚飽き足らで人をも包み、
唯灰塵にする。

親、子を訪ね、
子、親を探す。
妻、傷を負ひ、夫、妻を助け、
夫、骨を挫き、妻、夫を負ふ。
あゝ、非なり、惨なり。

あゝ、惨なり、酷なり。
否悲の極、
母愛しき子を抱き、ぞが上に重なり共に死す。
我見ぬを欲して、見ざるを得ず。
異郷の土と変る鮮人、
流言の犠牲なるか、自滅の人。
尼港の惨劇かくあるか。
あゝ惨なり、醍なり、而も悲の極

おゝ、夢!
たヾ、忘れんか、
希望を高く、天におき。
真をめざし、進み行かん。
今新らしき土を固めつゝ、
不滅の家を建て。
世界に誇る街たてん。
おゝ、復び興さん。過ぎしに優る美なる都を。

米屋にて 電五 谷口常雄

9月1日の震災にて火災にあつた人々は続々焼残りへと帰つて来た。私もその一人だ。私は焼残りの東京の米屋に手伝ひに行つた。兄の家では早くも玄米を白米に無料で取り替へますと店頭に真赤な大きい宇を書いて掲けた。すると何しろ他では取替へないので見る見る間に人で黒山を造つた『どうか助けると思つて取収替へて下さい』と立派な神士が皆乞食の如くになつて願つて居る。こつちは大名の様な気がして一升二升……○升ですね『ハイ』こゝへ取り替へて上げましたと出すと命びろひをした如くに喜び、決して御恩は忘れませんと云つて居るから面白くてたまらない。

さうして居る内に5、6日は経つて玄米を取り替へた家へ行つて『中村屋ですが米の御用はないでせうか。』と云ふと2、3人の女中が出で来て『何だつて中村屋なんて米屋は知らないよ、家ではちやんと米があるから。』と感ばつた物だ、私は其の時余程『地震の事を忘れるか』と言つてやりたかつた。世には恩知らずもあるなとつくづくと思つた。

不安の夜 電五 小林武文

明い光の波打つ都会の生活も、さながら水の面に浮ぶ幻影の様に、今見たかと思ふと、もうすぐ遠く流れ去つてしまつた。人々は食ふに食なく、着るに衣なく住むに家なく、唯、昼は僅かの高等乞食を唯一の業とし、夜は地神、火神の魔の手からのがれる身を護つて、此の惨酢たる光景を目の前にして、幾多の酸鼻な事実を包蔵した大きな絵巻物を繰り広げて行くやうな、突詰めた脅威を覚えながら、刻一刻と過ごすのであつた。日はとつぷりと沈んでしまつた。

夕雲の影も漸々と寂しい灰色に変じて。色々な雲の姿は亡びて行く様に、果敢なく消え去つた、家の中は黒闇々として、女子供皆不安の影を宿して心ばかりの寝に就いている。何時も何所からともなく火のつくやうに聞える赤子の声すら今夜はしない。夜は次第くに更け静まつて来た。思ひ出すは、父が在ましゝ世の有難さ、斯る時父若し在さは如何にと……。夜もすがら軒端に来りて啜り泣く風の音は其の悲しみを一層深くした。東の梢には唯一つの蒼ざめた大きな星が、深い深い暗示的な光を閃かしてさながら人生に向つて投げられる永遠の謎語の様に寂しい秋の闇を守つていた。

愛弟 建五 齋藤慶次郎

死!死!あゝ此の一語は丁度呪の悪魔のささやきの様な響をそして人生の最大な悲哀とを伝へる、自分は今亡弟の新しい白木の位牌を前にしてペンを走らせて居る消さいとしても消えない彼の幻影を浮べつゝ。

巨人にむしりつまれる野辺の小草の様に恐しい病魔の手に幼い彼の生命を奪はれるのは師走半ばの15日であつた。

思へば自然の災厄によりて巣居的な風通しよい荒屋に軽い風邪にかゝつて居た弟は師走14日の夕方から急に容態が一変して刻々に危険状態に陥つた

そこで早速かけつけて下さつたY医学士もH医学もあまりの急な変化に如何ともすべき方法のない事を目をそろへて言明される。併し空しく腕共いて居る場合でないからともかく出来るだけの事をしやうと酸素吸入カンフル注射食塩注射と最後の手段をすべて尽される。病勢は進むともおとろへないそして不安の中に一夜は明けた。

白衣の看護婦父母に取りかこまれて彼は昏々と眠つて居る。時々何物かにおびたえた様に体をふるはす。10時頃医師が家診して遂に最後の宣告は与へられるのであつた。『もう方法もありません、おあきらめ下さい』あゝ此の上は天命のなすがまゝにするより外はない。死を待つ間!あゝそれは1分も長く此の世界に置さたい願と一面に於てはどうせ無い命ならこんな苦しみから逃れさせて一刻も早く死の国へ送るつてやりたいと思ふ心からの希望との衝突の幾時間であつた。午後2時15分彼は天国のものとなつたのであつた。

予期していた事ではあるがどうして悲しまないで居られよう。私は彼の死に代りたかつた。

死は空想の社会に於てこそ清い純なものであるが実牡会に於ては如何に残酷で悲しいものであらうか

愛する弟を失つて痛切に『死はむごいもの』と感じた私の眼からは徒らに涙のみ流れ出た。

永別の悲しみ!死を眼前に見せつけられるをののき!と涙の中につぶやいた。

嗚呼かの地震さへ無たつたならば……

地震より受けた教訓 建五 宮崎一昌

僅か一ゆり二ゆりの強震に交化の恵沢に心行く歓楽をつくして居る都市がかくも無残な最後を遂げようとは誰が予想し得たであらう。唯此の蕭條(じょうじょう)たる廃虚に対しては殆んど言ふ可き言葉を知らぬ。

或る建築家の話に「今次の大震災に於て震倒潰裂した建築物は或は地盤の軟弱なるが為或は設計の不完全なるが為め、或は施設の不完全なるが為め或は老朽の為めであつて共の損害の大部分は人にあつて天にあらず』と。試みに毀焼せられる建築を見れば天は虚偽、瞞着、糊塗を容さぬ事を示して居る。

地震によりより隠されるごまかしが遺憾なぐ暴露せられるのである。で有るから今後は此の災厄が教へた各種の事実を徴底的に科学的根拠の上に立つて攻究しよく自然に順応して而も自然を征服するものでありたい。己の努力の足らざるを顧みず徒らに天譴(てんけん)なりと言ふは愚である。我等に下されるよい試練であるのだ。誠に努力研究の為し栄があこのだ。寧(むし)ろ天の恩寵だ。吾人が粉骨砕心最善の努力をすれば天のそれに応ずるは必然の事である。

馴れぬ旅 建五 安藤常雄

ふと眼がさめた。僕は今迄客舎の夢を結んでいた不逞鮮人の噂を聞きながらいつかねむりに就いたのは昨夜であつた。此の客食といふは大磯の警察で造つた、それは1日の災厄に遇ふて遠い放に立つた避難民をとめる仮小屋である。僕も其客舎にとまる丈の資格のある一人であつた。それで初めのHは此の客舎で夜を明すことにしたのだ。

暁に目が覚めた、昨夜の雨は止みて仰げば明星がぼんやりと馴れぬ旅路にか弱い光を投げて居た。足元ははつきりしない、歩き出したものの又眼は次第に細くなつて来た。農家の戸の隙よりもれ出づる灯を頼みとして歩まねばならなかつた。しらしらとしていた坂は長い。松原の街道をとぼとぼ歩いて行く。一時晴れる天候は益々険悪になつて遂に強い雨は黒い肌をうつた。雨滴は垢のある肌に落ちては直ぐ消えた。

やがて太陽は顔を出した。疲努と空腹は此のあはれな身体を襲つた。渇してむ飲べき一滴の水も無かつた。数町行くうちにとある腰掛茶屋に休んだ婆さんに水を貰ふ事を哀願すると渋々漸く一杯の水をくれる。やうく生き返つた様な気持になつた。馴れぬ食事もそこそこにすました。

此の様にしてさびしい馴れぬ辛らい旅はつヾいた人より人に伝はる風説はか弱い僕の心を苦しめた。初秋の風は肌恋くそよそよと吹いた頃は日の影も薄れて海上には人影は見えなくなつた。

行方はまだ遙かである。

大震災の所感 建五 服部勝治

それは全く吾動の総ゆる意想を超越することの余りに甚だしい一大異変であつた。 大正12年9月1日は午前11時58分、突然として起つた関東方面の大激震は筆舌に絶えたる残酷、残害を呈しうした。地震よと思ふ間もあらせず忽ち起る家の倒潰、海?(かいしょう=津波)、山崩れに吾等の驚異や全く此の世の終局にやあらんと恐怖の高潮に達した。をりから起る各所の火災は見る見る焦熱地獄の惨は眼前に展開し一瞬以前の繁華と股賑は幻夢の如く消え去つた。嗚呼此の如き戦慄すべき悽愴なる光景を彷彿するに何を持つてしてよき乎。

一家の全く死滅せる者、身を喪ふもの、骨肉を喪ふ者、身に傷害を受くるもの数知れす。眠るに家なく、喰ふに食無く、着るに衣なき喪家喪神の人々の痛恨や傷心や如何ばかりであらう。東方覇国の華と呼ばれるる都市、燦然たる交化の中心であり貿易の中心なる、又生活の豊かに謳歌されるる過去を思ヘば何ぞ自然の呪ひの甚大なるや。さはれこれ天の一大警策たりとは云へど、此の暴虐に対して人間にはそれ以上の対杭力がある。

見よ斯る非常時には人間は己れ以上の強固さを以て一大集団を作り、勇敢に彼と戦ひを挑み、大乱麻の只中より直ちに秩序を回復し壊滅より復興ヘ─―建設への若き芽生をつちかふことを忘却せね力を特つて居るさればこそ一度び挫折せられるる精神も、最早動揺が静まりて大震災の破壊せられし日より月日は僅か2、3ケ月しか経ぬ間に『復興の唄』と共に心身の緊張奮発により強き反発を以て今後の各地の復興に及高度の腕力を揮ひ、更に真摯なる生活、熾烈なる意気とに依る人間の真実境に入る機会なりと確信し『今後いつ何時たりとも、天よ怒れ、我等は怖れずかヘつて意気を鼓舞する試錬のみ──』と新しき世界に誇る都市となさんと建設へ建設へと奮然として最後の月柱冠を得んと進み行くのを見られる。

(復活しつゝある横浜を眺めて)

震災所感 家五 鈴木彦三郎

現今世の中に生存しいている者の忘れ様としても忘れる事の出来ないのは、今思ひ出してち身の毛もよだつ彼の9月1日の大震災である。丁度私は始業式を終へて帰途に就くべく神奈川終点近く迄行つた時突如として起つた大地震『アツ地震かな』と思ふ間も無く帰りの家と云ふ家は言ふに不及、路面までも幾筋にか割れで仕舞つた。其刹那私は是れは大震だなと考へると同時に家の事、母を始め一家の事共が電の如くに頭に浮んだ。

そして無我夢中で裸足で出掛けたが2、3歩駈けては倒され、2、3歩駈けては倒されて漸く桜木町駅の所迄逃延びた。然るに思ひ掛けなく尾上町方面や野毛方面、本町方面は一面の猛火で最早如何にするも絶体絶命の場合になつて仕舞つた。辺を見れば煙に巻かれて倒れて居る人。半死半生の人、既に死せる人等殆んど数へるに遑(いとま)ない程で、我身も末には同じ運命に成るのではないかと生きた心も無たつた。そして共に逃げて来た深山、瀬口、石田三君と共に互に火の中で抱き合つて死なば諸共と覚悟して居た。今になつて考へると学友と一所であつた為に勇気も落ちず一生を拾ぴ得たものと熟々思ふ。

其の中猛火は尾上町を甜め尽し、あれ程の空地ある桜木町駅に飛火して来たので其の暑さと云つたら何に喩へんものなく、思はず安全地帯に伏して化舞つた、其中幾時間過ぎたか知らぬが、さしもの猛火も漸く勢衰へて、不図側を見ると電車が三台あつたので思はずそれに乗り込むと偶然も偶然、羽衣町の親類の人一家がその電車の中に非難して居られるのに出遭つた。何と云ふ縁であらうと私は思つた。然しその喜びも束の間で一大悲報を耳にした。他でもない、それは17年間慈愛の下に我等を養育せられるる慈母の我家にて圧死せられるとの事を聞いた事である。

然し心はやたけに早れども、夜分ではあり一大火の海の為帰宅する事が出来す。その儘その場で夜を明した。その間渇を覚えたので、サイダー等を夢中に友と共に飲み凌いた。

夜明けると共に急ぎ帰途に就いたが、道々目に止まるものは空しく残骸を留めた正金、川崎両銀行、市役所、野澤又は目もあてられぬ水死体や焼死体のみである。やうやう7時頃家に着けば実家は全潰して昔日の面影もなく思はず知らず惘然として居た所へ、兄、妹、姪が来し互ひに手を取り合つて泣きに泣いた。既に死せし者の如何に歎けばして帰るべき術もなければ兄を慰めて野宿の用意に取り掛つた。

その夜(2日)から連夜鮮人騒ぎで碌々寝られず実に閉口した、が間もなく戒厳令が布かれて始めて人々が落ち付く様になつた。その後新聞紙の報ずる所に依れば神奈川県下に依て、全潰全焼失埋没戸数総計116万7749戸、死者2万86179名、負傷者5万6976名、行方不明3571名、横浜市内にて全焼5万89188戸、半焼68戸、全潰7992戸、半潰1万6115戸、流失650戸、死者2万3440人、傷者4万2053人、行方不明3183名と云ふ大多数で震災前の人口の約1割5分は死んだわけである。以て如何に大震災被害の各地共に甚大であつたかが想像される。

あー恐いしき大震災よ!!

大震災記事 家五 井上邦雄

大正12年9月1日!!此の日は、数日来の天気続で多少の風はありしものの空は綺麗に晴れ渡つて居ました。そして入馬の往来はおだやかに泰平の響を立てて居た、午前11時58分、突如として戦慄すべき大地震が来襲したのであります。考へても、不気味な異様な音と共に、大地がゆらゆらとゆれはじめました。

そして一瞬間毎に、ゆれ嵩んでゆきました。あつ…大地震…と、叫ぶ間もあらばこそ。路上の人馬は転倒する。華美を極めた大層高楼が凄ましい晋響と共に倒壊する、大地が亀裂する、屋根瓦は雨の如く落る、石垣や塀が崩れる、そして其等の土埃濠々たる中を逃げまどふ老幼男女の悲鳴、石垣の下敷になつて脆くも圧死する者、瓦の雨に打たれで鮮血に染まる者、傷付きなからも親を探す者、子を探す者など忽ちにして、阿鼻叫喚の巷と化してしまひました。

大陽輝く白日の下に、さらけだされる大悲惨は地震のみにとどまりませんでしれ、5分経つたたたぬうちに、市内の八方から火焔があがつて来たのです。炎炎たる黒煙は、天を掩(おゝ)ふて昼なほ暗く、素破一大事と消防隊が出動しましたが、遺城にも水が断れて施す術がありません。そのうちに火勢に件つて、風力が刻々と増してきて、さすが名のある横浜市の大半が火の海と化してしまひました。おお、何たる惨しい事でせう、地震をのがれる市民は更に火にのがれなければなりません。市内の広場と云ふ広場、大道路、空地、などは辛くも身を以で逃れる人で埋められました。其して其等の人人は刻一刻と増して行く不安の念に、皆顔色を失つて居ます。

帝都の猛火は夜に至つて、盆々暴威を恣(ほしいまま)にしました、さしもに広い帝都及び横浜の大半を広漠たる野原としてしまひました、共の間、電信電話汽車電車等の交通機関は全く断絶し、瓦斯電燈等も消てて暗中一点の灯もなく、それと同時に警察行政の機関も殆んど行き渡らず、引いては、食糧の欠乏を告げ、人民はいやが上にも、疲労困憊して、生ながらの焦熱地獄を現出したのであります。

今回の震災は古来未曾有会の激震で、其の惨状を古老に聞くと安政の大地震よりも甚だしく、東京横浜を始めとして小田原、横須賀、鎌倉等も全部火の海と化し、流石に繁華を極めた大都会も忽ち焦土となりました。父母を裂へる者、兄弟を喪へる者、聞くものの傷心の種ならざるはありません。僅かに一命を完うした者が、仕合せの人間である。と云ふのは何と云ふ悲惨な事でありませう。私はここに死者に対して、限なき哀悼の意を捧げ。負傷者、その他の罹災者に対して、深甚なる同情を表します。

震災当時の思出 図五 神野雄次耶

僕はアノ大地震に学校で逢つた。一且校庭に避難したが其夜は久保山に野宿して、不安と恐怖との中に夜を明して五時頃家の焼跡に行つて見たが、誰一人として居るでは無く、唯恨み深き残火がチラチラと見ゆる計りであつた。母は何所に居るであらうか妹は何うしをであらうか、心配で心配で堪らなくなつたが、然し見渡す限り一面の焼野原と成つて居るので、見当が付かず見度も無くあちらこちらを探し歩いて行つたが、其中に日はカンカンと照り始めて来るし、不安の中に夜を明したので体は疲れて居るし、日はドンヨリとして、喉はクツツキさうに乾いて来るし、水も食物も勿論有るでは無く実に其時の苦しさ計りは一生涯忘れる事は出来ない。

フト途中で知人に会ひ何より先に持つて居た氷のかけらをもらつて、あわてゝ口の中に放りこんでやつと一息付く事が出来た。其時の氷の一片は山海の珍味にも勝つで居た。皆の安否を問ひ合せたが分らない、そして又母や妹の行方を探したが見当らなかつた。共途中空腹に堪へ切れず食物をあさる人々を押分けバナナの焼残りを拾つて食べたり罐詰を拾つて食べたり、まるで動物に等しい真似をした。

斯くて其日の夕方やつと母にも妹にも会ひ、又品川から駆せ付けで来た父にも会ふ事が出来た。其時の嬉しさは実に言語では尽し切れぬ程であつた。段々親戚の人々にも会ひ、皆無事であつた事を喜び、其夜を明して3日に父母と僕と妹と4人で品川の父の家に帰りやつと落付いた。其後10日位親戚の許へ食料を運搬した当時の事を今更思出すも実に恐しい気がする。此事実は全く後世への語草である。

地震から家につく迄 図五 岩本亀三郎

『地が割れる』『地が割れる』と云ふ声に始めて現実にかへつた私には、どうしてもあの大地震が、悪夢だとした思はれなかつた、八百屋の前を通りながら店頭に並んだ美しい果物に心を引かれて『どうだ良い静物がならんでいるぢやあないか』などと友に話したけた…………其の次の瞬間には殆ど衝動的に。そばの広場へ飛び込んで難をさけていたのだつた、そしてやゝ静まるまでに2分か3分、其の間に何千と云ふ尊い人の命が奪ひ去られようとは、夢又夢である。

けれど東神奈川を過ぎて神奈川の旧東海道にかゝつた頃には、どうしても現実にこれを肯定しない譚(はなし)には行かなかつた………

つぶれるりゆがんだりした家を背景に全身血で彩られる男がつゝ立つている…其の前を青い木像のやうに無表情な顔をして死に近づいた人がはこばれて行く、そここゝに群り集つた人々は皆極度の恐怖と緊張とに顔を引つつらせていた……

これらの有様を見た私の頭には、つぶされて呻つている兄弟の姿と、嬉の涙をうかべながら自分に手をさし出して呉れる無事な兄弟の姿とが、入り乱れて浮んで来た。

この交錯した心持は、私が家に帰りついたときに始めて一掃される。

私は無事だつた兄弟と手を取り合つて、後に無限の不安をひかへながら、それでも心の軽くなるのをおぼえた。