神奈川工業会ホームページ > 会報復刻版 > 震災特集号

<注> 原稿は旧字と旧かなづかいで書かれていますが、旧字だけは新字に変換し、かなづかいはそのままにしています。

その日 機四 神谷孝治

9月朔日、恐ろしきその日、何万何十万の生宙を奪ひ、東京横浜の殆んど全部を潰滅せしめたその日、――然しその一瞬時前、その瞬間迄我々は殆んど想像は勿論夢にさへ知らなかつたのである。只一月余の暑中休暇を終へて久し振りに色の黒きを誇り、楽しき旅行談に花を咲かせて居つた新学期気分その儘であつたのだ。それが─鳴呼。然し比較的無難であつた私は、書くべき、語るべき多くの材料を持ち合はせない。

×    ×    ×    ×

その日、突然昇降口の腰の下に当つて異様な形容すべからざる響さがした。思はず見合した皆の顔にさつと恐怖の色が流れる。瞬時を経ねに足下は動き出した。『地震だ、』と叫ぶや否や我々はもう前の砂利道に飛び出していだ、大波に弄ばれる小船の様に大地のあらゆるもは激しく揺れる。一斉に飛び出した私達は皆、誰と言はず、何所と言はず互に捕へ合ふそして我々のつながれる体は前後左右に動揺する。

自分の体が何に支へられ何に引かれているのか知らない、ど、ど、どゝゝやがて私達は芝生に転がされる。突然、足下の地が大さな亀裂を生ずる。つたまつた木が細い体を大きく揺つている。

やがてさしもの大揺れも静まつた。そして『自已の存在』と言ふ事を意識し始めた時、見廻した顔には生気と言ふものは見出し得られなかつた。労い顔に眼が異様な光を放つている許りである、しばらくして落ち付きの出来た時皆は洋傘やらはきかけの靴やらを昇降口に取りに行つた。3つの大きな靴箱は皆前にのめつて数分前自分が座つて靴をはいていた台の上に横たはつている、その間から見通した控所の壁はきたなくはがれ落されて細い木に打ち付けられるだい糸が垂れ下つてその下の床は白い土が重なつている。

『揺り帰しが来るぞ』と四年の誰やらが言ふ、再び元の道へ出る、図案科の先生が走つて行かれる──間もなく、再び先刻のすさまじい空気味の悪いうなりがした。はつと一斉に木の根元にしがみ付く。又大地は揺れる。濁つた水が前の亀裂からふき出す。間もなくその揺れも静まつた。

『――』『――』、友の名を呼ぶ声もする。いつも一緒にかへる友と一緒になつた私は兎角一刻も早く帰宅を急ぐ事にした。

『家が心配だ』『子供が大勢いるから心配でならない。と家を案ずる声が洩れる。『何大丈夫さ。』と自分を慰める様な又それを望んでいた様な声が聞える。をれ程自分等はもう落ち付きが出来たのだ。

何と言ふ惨なのだう。酷だらう。

赤錬瓦の校門はその大きなからだを覆されている

一度足を街路に踏み出せば又想像以上の有様に驚かざるを得なかつた。髪を振り乱した素足の女が眼に血を染めて走つて行く、はだかで屋根の下から子供を抱へて来た男がある。『親は未だ出ぬ!』と叫鳴る、半纒看の男が裸足で跳んで行く、甚い泥水の通りを私達は出来る丈急いだ、角の時計屋も潰れる菓子屋と思はれる家も潰れる。狭い路次に落ちた瓦の上板の上を通り抜けると漸く東神奈川の停車場に来た、数多の人が駈けて行くのでその跡を追うて黒い枕木の垣の間をくぐつて線路に出た。

その線路は人で一ぱいである、荷物を抱へてい人、戸板の上に集まつた家族、半身泥だらけの着物に子供を抱へた女、などが其所に或は蹲り或は立つているのであつた。プラツトホームの待合室の屋根は地にぴつたり折重つている。中に居た人は無いのだらうか。人の間を縫ふて横浜駅の方へと向つた。揺れの来る度にうづくまる事幾度。然しもう最初の程猛烈なのは来なかつた。

脱線した儘の電車、切断される電線、それ等も心の中にあまり大きな剌激を与へない、絶えず砂が襲つて来る、あたりはうす暗く陽の光は見てない、眼が痛くなる、地は絶えず揺れている。その時。濠々たる煙は横浜駅の裏手から上つた。『あぶないく。』と声がする、気が付けば右手に当つて早火の手が、潰される家、傾いた家をペロペロと砥めて行く。紅い炎が屋根に上ると真黒いものが下に落ちて行く、すると其所に黒い煙がぱつとあがつてやがて紅い炎がその下にあらはれるのだつた。青い顔の子供を背負つた男が海岸さして行く、泣く市内を望めば矢張り煙が。

×    ×    ×    ×

愈々独りになつた。友は横浜駅から我家を気遣ひながら急いだ。自分は今三里の道を我家へと向はねばならない。

『向ふへ行つちやあぶない』『ガスタンクが破裂する』『もう火が廻つた』ど色々の叫びが右往左往する人の口から聞かされる。然し私は行かねばならない『自分の行くべき道は只一つなのだ』これが私に決心せしめた大きな力であつたのだ。

『神谷君』意外に言葉をかけられて気が付くと小学校時代からの友達のTさんだ。『やあ』と思ひ設けぬ道連れに喜ぶ、学校を出る時既に後れていた私は同じ方面への道連れを一人も持たなかつたのである。

『公園の図書館へ行つていたんだがね、地震だつと言ふと飛び出したんだ。すると水道の鉄管が破裂してどろどろの中へ転がされちやつた、此の通りだよ』見ると着物はよごれ下駄は片足切れている、『でもやつと逃げ出してくるともう火事だろう、煙に巻かれて間欠々々したけれど、やつと此所迄来た。桜木町前の広場は一杯の人さ、市電の車掌は紅葉坂の方ヘ逃げて行くしね。』『まあ此所迄来ればもう安心さ』と言ふ。先刻の煙と今の話で別れる友の事を想ふ。然し心は矢張り忙しく回転するのだつた。

陽はもう中央に輝いて居た。数分前。いや今の災厄を知らぬものの様に。保土ケ谷駅で少し休む事にした。

振り返つて見た横浜の空はもう一面に煙に覆はれてごーんごーんと言ふ物すごい音が間を置いては聞える、何時か私達の中には横浜から体一つで逃げて来たと言ふ若い男が一緒だつた、学校の五年生3人とも一緒になつていた。

『なーに、わたし等早い方でさ。まああの中ぢや何百人死ぬんだか』その男は言つた。気は殆ど平常の状態になる、然し語は何時迄も地震の事の話で尽きない。

『大正11年9月1日か、あー此の時は一生忘れられないんだ』とその男は繰り返し繰り返し言つた。問ふともなしに彼が語つたのに、彼は郷里は信州で一人で横浜に来ていた、是れから戸塚の知合を尋ねて行くのださうだ。『一人ぢやかういふ時には気楽でさね小さい子供のる人は気の毒ぜすね、わたし等金はあるぢやなし子供はなし、自分のからだ一つならどんな事でも出来ますからね。』彼は言つた。

私達が今歩いている線路は最早避難してる者もなく飴の様に曲つて、夏の炎天下工夫がその一挙々々に汗の玉を落して突き固めたのが或は滑つて田の面へ突さ出で或は数尺落ち込んでいる。自然の力の強い事、無限な事を感ぜざるを得ない。田舎にはいれば矢張り田舎の気分は流れて、所々に立つだ家の外では子供等が一列に並んで見なれる旅人を見送つている。すると自分の心配も解けて、落ちた台所道具を片付けている母の姿を想ひ浮べる。

ふと想像は変つてまるつぶれになつた家の前に呆然と立つた母の姿弟の姿を想ひ浮べる。と又もその想像がうち消されて南の方から西の方から煙に包まれて裏山へ駈け行く数多の人、そしてその一番後から行くのが父と兄だ、とこんな想像さへ浮ぶ。『之で戸塚も焼ければ当分宿なしてすわ。』と言つたその男の言葉が妙に強く響く。

トンネルに来た。入口の左右の山は崩れ落ちて線路を埋めている。私達は山に登つた。所々大きな亀裂がある。或時は跳び降り或時は跳び越してトンネタの真中辺と思はれる辺に来た。再び振り返つた横浜の空は先に増した煙が上肘は白雲の様に下肘は黒雲の様に一面に広がつている。あゝ横浜も遂に全滅するのだ。と思ふと何とも言へぬ心持になつてしばらくその雲を眺めていた。

戸塚も近付いた。火の気の見えないのが先づ自分を安心させた。遠くから見える筈の、ビール会牡の広告柱も煙突も雛れ落ちたのか見付からない。

『あゝ帰つて来たね、家ぢや心配しているよ。』と家から半丁許り手前で隣りの小父さんが言はれる。両手はバケツを下げている。そして『此の裏に居るから』と付け足した。つぶれる家と家との間をくぐつて行くと其所の竹薮に母と兄と弟が居た。

そして近所の家族が4家族、此の廻りの者が3家族許りその藪に戸板を敷いていた。家につくと急に疲れが出てくる。言葉をかけられても満足な答答が出来ない。が皆無事を喜んで呉れる。家は全潰だと言ふ。握り飯を持つて来で呉れるが中々喉に通らない。やつと二つ許り食つて後は水をがぶがぶと呑んでその儘空いて居た戸板の上へごろりと寝てしまつた。でも落ちついて横になつていられない。止むなく立ち上る。すると未だ父と兄が帰らぬと言ふ。

外出して居つた3人の中で自分が一番早く帰つたのだ。一番上の兄は東京だから中々帰れまい。父の方は横浜だからもう帰りさうなものだ。早く帰らないとあの火では、と心配になる、母がしきりに横浜の様子を尋ねる。併し煙に包まれる町を思ひ出しては中々返事が出来ない。「何大丈夫だつ」母と共に自分を慰める。

その中頭がづきんづきんと痛む、考へまいと思つても自分の今通つて来た道の様が頭の中を駈け廻る。秋の日は暮れ易く呪はれの一日は暮れる。近所でたつた一軒潰れなかつたと云ふ前の家から布団やら蚊張やらを持つて来て夜の支度を始める。そのうす闇の中を父が杖をもつてはいつて来た。皆は喜ぶ父は近所の人に礼をのべられてすぐに横になつた。でも矢張り自分と同じ様にすぐ起きて話を始められる。

心配しながらも昼の疲れで大抵寝て了ふ。

×     ×    ×    ×

プーンくと藪蚊が顔のあたりに唸つている。仕方が無いので蚊帳を頭から被つてしまふ。すると暑くて堪らない。『是は夜番の方がよさそうだ。』と言ひながらとうとう起き上つてしまつた。隣を見ると皆よく寝ている。下駄を引きかけてぶらぶら歩いて見た。東の空、横浜の辺と思はるゝ所は昼の入道雲の様な煙が真赤に染つて山の上を物すごく照しているあゝ横浜もとうとう茨になつて了ふんだ。あの中では未だ何万と言ふ人が左往右往している事だらう。

時々ごうんごうんと云ふ何かの破裂らしい音がする。空はよく晴れて月は矢張り輝くべき所に輝いているが不幸なあの人達は、と思ふと、未だ鞄を背負つた儘の友の姿、小さい荷物を背負ひ片手に幼な子の手をひいた女の姿、などがその真赤に広がつた空の中にはつきりと描き出されるのであつた。

短くなつた燭火を取換へる。彼の顔がぼーつと浮ぶ消える。今度は友の顔が、と又消える。短い蝋燭を投げ棄てゝ畠の方へ行つた。未だ絶えず地が揺れている様だ。時々火がぱつと明るくなる。石油が燃えたのだろう。ごーんごーんといふ音が未だ聞える。併し此所薮の中はひつそりとして畑の桑の木が静かに静かに頭を振つている。蝋燭の火がゆらりくと動く。夜は更けて行く。

其の時の印象 機四 平野正作

私が昇降口に来て靴をはきはじめたのは、激震のくる一寸前、つまり12時にならうとする一瞬前である。

一月余りの長い休暇を終へて、親しい友人に会つた嬉しさ、懐しさを胸に描いて居る時である。

何所からと名しれず『うをー』と叫ぶ異様な音響が耳をついた。其の猛獣の吼声に似た響と共にすさましい暴風が起つて、木の枝をへしまげた。昇降口から此の様を見た私は矢庭に物をも言はず、何物をも取らず、殆んど無意識に飛び出した。然しもうその時は遅かつに。地下の音響は、何所か我々の足先き辺近くまで鳴ひびいた。然もそれは、無心のものとは思はれなかつた。

何所か欝積した、夥しい火焔を故意に吹きつけようとする吼声である。此憤怒に慄えた地下の音響は鳴りながら吼えながら、凄じい勢で、襲ひかゝるのであつた。その瞬間我々は、脚下の大地が唸りながら、発狂せるが如き速度を以て、交互に前後に、引つ張られるのを感じた。篩(ふるい)の如く揺りかへして、石段の中途に立つた瞬間、私は脳上の穀粒の如く、校舎と工場との間に放り出される。足で立つてはいられなかつた。

それかとて地上に静止していることも出来ず、コロコロところがされながら、それでも一心に這ひずつて、やつと一本の桜の木につかまることが出来た。

見れば周囲のあらゆるものはパチパチと、物凄く鳴りつゝ揺れ、生徒の控所は弓の如くまがり、一瞬時前迄、唸つていた建築家具の工場の機械の音もやみ、梢子は破れ、戸は飛ぶ有様、私の目に映つたもの、それは破壊より他に何もなかつた。

少したつて私は物事の静まつたのを見た。そしてその時家の中に居た人々は、脱兎の如く、芝生にころげこんだ。彼等は、ゆるぐ家の中に揉みにもまれながら、そして彼等の頭上には、あらゆる物は落ちた事であらうそして、進退谷まつたその時、揺れの絶間を見て、飛びだした事だつたらう。然し、その人々の芝生にころけこむかこまぬ中にまたも以前にまして、大きなそして激しい振動はきた。私はその激震中何物も記憶しない、何物も見えなかつた。

然しこの数分問に、全横浜並に東京の大部をはじめとして、東海道は之れが為に壊滅に帰したのである、多分この数分間に於て、私共の生命も危険に瀕した事であらうと思ふ。が、しかしその刹那は、何等の恐怖も感じなかつた。すべての感覚は一時的に停止して居る。その時人間のもつすべてのものは死滅する。―思想及感情等についてその刹那何を感じたか、私は記憶していない、記憶していることは、逃げ出す刹那『地震だ…』と思つた以上何物も記憶していない。

逃げ出した次の瞬間は、大地が泳いで、何か液体様のものが上でグルグル廻つた居ら様に感じられ、我々は今どこかへ飛んで行くか、或はどこかに投げおとされる様な心地がした。けれども得態の知れぬ、恐ろしく大きな力が、憤怒に燃てた害心をもつて、土地を震はし建物の倒壊する響音を起した時、私の意識には或る欠陥を生じ、精神は麻痺してしまつた。思索の能力を取りかへしたのはやつと2回目の激震がやんでから後である。

私は2回目の激震が終るか終らぬ中に、走り出した。勿論大道へである。私の最初の目に映じたものは、家々の倒壊であつた。方々の路次或は家々から騒け出した人々は、真向ひの家の倒壊した破片の下から、女をすくひだした。したもまだその女は息があるらしく、かすかに悶えた。人々は黒山の様にたかりて看護していた。

その時一人の男が頭をかゝへて走つで来た。見れけ後頭部に負傷していた、鮮血はほとばしり背の中頃迄も、白いシャツを赤に染めていた。倒皺した物の下に救をもとめる悲鴨、泣き叫ぶ女子供の声、西に東に走る人、負傷人の看護などで街路は雑踏をきはめた。

私にかうした雑踏の中から、一人の発狂せるが如くに泣き叫ぶ一人のうら若い婦人を見た。総髪をふりみだし、顔は青ざめ、血のけもうせて一人の兄をだきしめて泣いてをいるのを…そしてその子は息絶えたものゝ如く、身動き一つしなかつた。その婦人はたえず口中に何事かを言ふては泣いた、多分我が子の死を悼んでの事であらう。『あゝ可憐なる子よ、夢やすらけくあれ……』

この人を思ひこの哀れな子を見て、私は思はず涙ぐんだ。かうして私の最初のもたらした恐怖意な識『一死』と言ふ事でした。

地震続いて火事 機四 田邊正次

9月1日の12時前急に大地がぐらぐらとゆれると思ふと、すぐ側にあつた隣校の屋根の瓦が一時にがらがらと落ちて辺一面に埃だらけとなつて先が見通せない程であつた、学校から帰りがけの我々は道端に居たが立つて居る事が出来ないので松の木に捕まつて居た。我々は其の時は顔色無しと云つた様に非常に驚いた。其れが地震だと知れると我々は何んと大きなものだと又驚かざるを得なかつた。友2人と共に、帰りを急いで来ると道路の所々には地が割れて、水道の水が出て居た。山へ行つた。

其の時は最早、横浜の関内方面は一面の火で、家がつぶれる為に、負傷者や死者焼死者が夥しいと云ふ事を聞いた。間もなく逃げて来た入々が山へ避難して来た。

其の人達は横浜一帯は火の海であると言つて居た我々は家へ帰る事が出家ない。空しく一晩は其の山で明かした。

翌朝早く家へ帰る為に其所を出て横浜駅付近へ来ると、其の辺は焼野原となつて居た。

友達の家の避難先を尋ねて、久保山へ行つた。久保山及其の付近の焼け残つた所は、もう避難民で一杯であつた。やうく友達の家を尋ね当て其所で御馳走になつたが何しろ1日には朝と昼飯のみを食べただけなので其の味は格別であつた。友の家を別れて我々2人は自分の家へと急いだ。久保山を下ると市内の埋地一帯は焼土と変りあちらこちらには死骸がころがつて居る。我々は其れ等の人々を非常にあはれに思つた。何故ならば我々は死の苦をする程ではなかつたからである。やうやうの事で自分の町我が家のある町へと出たが其所も焼野原で自分の家の者はすぐ近くの山の知巳の家へ避難して居たので其所へ行つて父母の顔を初めて見る事が出来た。

家の者は皆無事であつた。父母は非常に心配して居られるので私の帰りを喜んだ。友も亦近所の親類へ行つた。

後で此の地震は関東一帯である事を聞いた、又震災の為に受けた損害は実に大なるものであらう。

私は天災の如何に偉大なるものであるかを今更ながら恐れる。

震災第一日 機四 福由武夫

轟然たる響と共に、今迄の華やかな乎和な都は、寸時にして、数千頭万頭の猛獣が、一時に檻を飛びでた様に、恐ろしい波瀾の世となつた。

大地は、絶えず轟々と唸り、その震動は、人々をして立つことは勿論這ふことさへもさせない。

真青になつて、家の中から転がり出る者、階上から飛び降りる者、或は落ちてくる者、皆街路へ街路ヘと集まる。集まつた者は、目当もなく只広場へ広場へと叫んでいる。婦人や子供等は、夢中で救を求めるが、誰も同じ運命のため、救はうとする人もない頭から紅の血が、背を伝ふて流れている人もある。

これと同時に、魔の火は到る所から現はれ、高く上る真紅の焔の先は、猛虎の舌の様に見える。この魔の火に、更に烈風が助勢し、その火勢は形容すベき言葉がない。その烈風は龍巻をなして、人をも頭上遙かに巻上きげた。

広場には、逃れて来た人々が、余りの恐ろしさに歯の根も合はない。愛児を背に負ひ、或は手に引き立てゝくる婦人、足の利かぬのを無理に、子に引かれてくる老人、最早死んでしまつた児を抱へて、泣きながら走つてくる母親、目に入る人、皆哀れな者ばかり。忽ち広場は人の山をなした。

彼方此方から上る濠々とした黒煙は、空を一面に覆ふて、下界は薄暗くなつてしまつた。死を免れやうと努め、誰も我が家の焼けるには、少しも顧みない。

遠くの方では、大層高楼が、倒壊する毎に起る響は、百雷の一時に落ちる様で、人の鼓膜を打破らうとする。実にすさまじい。人々は恟々としている。中には世界の終局だど叫ぶ者もある。

一方世は、全く無改府の有様となり、暴行を働かうとする人が出ても、これを制する機関もない。このために秩序は乱れ、放火掠奪は、彼等の恣にされ或は人の逃れ出た家に入つて、家財道具を掠める者は数知れぬ。官に、生民乱離塗炭の苦に帰つたのである。

×    ×    ×    ×

夕の幕は下りた。

火は、今や全市に広がり、真に火の海と化した。石油の爆発は、丁度大仕掛の花火を見る様である。

辺は闇となつた。彼方の木蔭に二つ三つ、提灯の光が、ボーつと気味悪く見える。震動は更に止まね人々の心は、一刻も安んずることが出来ぬ。渇は甚だしくなるが、飲む物さへない。餓には次第に苦しくなるが、食物となるものもない。

布団はなし、寝られず、また眠る人もいない。夜露はかゝつて着物をぬらす。

遠近の山では、子を探す親、親を求める子が、悲しみのこもつた声を張り上げて、呼び続けている。 夜は益々更けてゆく。

あゝ我等はこの先どうなつてゆくのだらう。

奮闘 機四 齋藤桧五郎

9月2日正午頃、電気会館で朝鮮人が戦つてると聞いたので、急いで行つて見ると、大勢戦つて民る。橋の所で一人は死に一人は川の中に投げ込まれていた。会館の近くに行つ見ると家の中で大乱闘が始つで居る。家から一人が飛び出してまさかりを持つて土工に飛び掛つた。怒り狂つで居た土工は鉄棒で相手の腹を貫いた。倒れる所を頭を打つて殺してしていた。

之れに力を得て大勢で室の中に飛び込んで手当り次第に捕へ始めた。捕へられれば命は無いと思つた鮮人は椅子を投げたりピストル迄乱射して抵抗した弾丸が無くなつたので次の室へ逃る、追びかける、二階へ逃る、追ひかける。逃場を失ひ2、3人は屋根へ上り他は仕方が無のいで窓から飛び下りた。そして皆鉄棒で、なぐられて、捕まつて仕舞つた。

屋根へ逃げた者は追ひかけられて海へ飛び込んだ・

かうして27人中殆捕まり2、3人の者は殺されやつと形が付いた。大勢の人の顔にはやうやく安心の色が見えた。

大震災 機四 石井政大郎

例によつて9月1日は始業式が行はれ後2、3時間授業を受けて、常の如く級友m君と校舎の裏の埋立地を通りかかつた。すると突然異様な音響がしたかと思ふうちに、家は見るうちにつぶれ地は割れ思はず埋立地を彼方此方にかけめぐつた。地震は益々大きくなるばかりで道には立つて居る事が出来ず坐つてしまつた。

しばらくたつと静まつたので歩き出して、4、5間来たか来ぬうちに再び大きな震動がやつて来た。それが静まるのを待つず一目散に駅に走つた。勿論汽車も電車も不通となつて。神奈川の通りに出ると真青になつた自転車に乗つた人、荷車を引いた人買物に来た婦人、各家に急ぐ其の混雑は非常であつた。家族の非命を聞き一心に家根をむしる人もあつた。

神奈川駅から鉄道に添つて急いだ。その時横浜駅裏、掃部山用近、大江橋辺等各所に黒煙が濛々と騰つて居るのに警かされる。同時に家は如何に成つたであらう。家族の者は無事で居たか等を心配が増して来た。急げるだけ急ぎ横浜駅の前に来ると、大江橋は渡る事は出来ないと戻つて来る人、戸板で運ばれる重傷者、若者に背負はれて来る老母、親子親類知人がたがひに助け合ひ逃げて来る。

僕はY君とS君と3人で久保山に避難した。途中どの食糧品店も人で一ぱいであつた。久保山から高い岡の向ふは僕の家であるが、煙が勢よく立発つて居るから大抵焼けて居るのであらうと思つたので、帰る勇気もなく1時間余り山に坐つたのみであつた。隣へ避難して居た人は関内方面から逃げて来たらしく『私は五つになる女の子が壁の向ふ側でかあちやんくと云ふ泣声を聞きながらも助ける事も出来ず私もやつと此の子に助けられて逃げて来ました』と、12、3才になる子供と2人で居た。

僕は此等の話を聞くと益々家に帰りたくなつて決心して、様子を見に岡の家が見える所まで恐る恐る行つた。

家の者は無事に裏山に大勢の人達と避難して居るのが見えた。あゝよかつたと思はず囁いた。一途に急坂を走り下りて家の付近に来た。叔父に会ふと『よく無事であつた、家の者は竹藪に居る、祖母が非常に心配して居たから早く』と僕の手を牽きながら言うた。牽かれるまに藪に登つて行つた。其所には近所の小供達か、其の母にかぢり付き此の大地震の後話して大騒であつた。

母達は僕を見ると『負傷しいて来るか死んで来るかと思つて居た』と無事であつたのを嬉んだ、僕も年寄小供が怪我をしはしないか等と思つた居たのに全部無事であつたので、一時は有難さに口がきけなかつた。

余震の揺れる毎に或る者は『天理王の噂』或る者は『南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経』と、各々其の人の宗旨によつて真青になつて叫んで居た。かくして夜になつた火の手は益々上り山にも次第に近づいいて来たらしくぱちぱちと燃える音が聞える様になつたので、そろそろ人々は薮から逃げ出した。僕等ち山の奥に逃げた。ねぬいのも忘れてひたすら夜明を待つの外はなかつた。もう夜明になるでせうと人に聞けばまだ12時だと云ふ、夜は非常に長く感じた。

東の空が漸く明くなつて、小鳥が彼方此方の林でさへずる声を聞いた時は、人々にとつて何んなに嬉したつた事であらう。夜が全く明けるを待つて御飯を焚いて、箸がないから竹を祈つてたベた。1日に朝食を食つただけであつたので、其の時のおいしかつた事は言葉に表はす事は出来ない。

其の日の3時頃に巡査が『朝鮮人が放火をしたり、井戸に毒を入れるから気を付けて下さい』と、青年会の人に話をして居た。それを聞き伝へた者は奮起した。そして腕に赤い布をまいて同胞なる事を示し標の無い通行人をしらべて、内地人には赤い布を与へた。次に白を又其の次には赤白を付けた。2日の夜は来た。大人は刀或は竹槍及小刀を持つて要所々々に集つて、十分に防備した。

夜が更けると山の下の方で喊の声を上げて、勢を示して朝鮮人の来ぬ様に努め、山の上では盛に火を焚いて居た。其の有様は戦争の如くであつた。年寄小供は非常に恐しがつて泣いた。

夜明になつて海軍睦軍隊が一小隊ばかり山に登つて、僕の前を通り過ぎた。其の時老いも若さ一声に、万歳を唱ヘた。

少しの間は朝鮮人騒ぎで秩序は乱れ外出は危いので出来なかつた。6日の朝初めて市の有様を見物しやうと。近くの水道山に来ると避難民の小屋が一ぱい建つて居た。市を見下すと根岸の山が青々として居た。一面は焼土と化し崩れかゝりのコンクリートの家や土蔵、真黒にこげた樹か寂しさうに点々とあつた。

旧野澤屋別邸は幸ひ焼けなかつた。其の隣の市長の屋敷は、裏手の樹木が青々としていて家は崩れて煉瓦が残つているばかりであつた。其の付近は焼原である、ただ平沼邸が周園の木の為に焼け残つてた。

市の繁華も1日の間に灰となつて、路は電線や瓦が一ぱいに散つて、まだ土などほてつて非常に暑い陶器屋の跡には陶器が、刄屋の跡には刄物が一ぱい焼残つて、昔の有様を想像させている。都橋の狭い板を辛うじて渡つて。吉田橋まで行く間にもが2、3頭死んでいた、厭な臭気がする。ことに吉田橋付近の割れは甚しかつた。大江橋と吉田橋の電車道に1台の電車の焼けた後に、2、3人死んで居た。河にも黄くふくれる溺死者が沢山浮いて居た。

今日ではかうした死者は、全部片付けられ、道路は人夫によつて整理され大通りの両側にはバラツクが建つて、地震前と同様の商を営み、秩序正しくなつて復興の気分は漲(みなぎ)つている。其の誠に大地震があつたのだと言ふているが、それでは余り犠牲者が多すぎると思つた。我々市民は此れによつて、大に心を取直し一刻も早く復興させる心持にならなければならい。

所見 機四 亀崎義雄

『何うだい…斯う椅子に長くなつて地震に揺れながら、斯う本を読んで居る所は、丁度ハンモツクにでも寝て居る様で実に楽だね』今日は忘れもせね9月1日、始業式が終つて12時授業が終つてから大掃除になつた。帰る者はどんどん帰つて行くが僕は2、3の友と図書室に入つて本を読み始めて幾何も経たない中に起つた生れて始めての事件である。

変な音がしたなと思ふ間もなく、ゆらゆらと地震がやつて来た。併しもう地震には慣れて居るがら一寸も驚かない。否そればかりでなく図々しく僕の様な態度に出た者も少くはあるまい。が其の中に地震は段々非道くなつて来た。はつと飛び起きた。もう呑気な事は云つて居られない。今にも壁は倒れ天井は落ちるかと思ふばかり。

こりや大変…机の下に潜り込まうか…それとも大きな本箱の側に縮まつて居ようか…待てよ、机の下では天井が落ちたら一遍で押しつぶされてしまふ。又本箱の方も、あの大きな重いやつの下になつたらそれこそ大変、もがきもあがきも出来やしない。これは外へ逃げ出すが一番だと考へたが、さう思ふ間も身体の中心を失つて倒れさうだ。

何しろ下から揺れるんだから思ふ様に歩けない。あつちへよろよろこつちへひよろひよろ出口の方へ行つたが、到頭ばかりと投げ出される。もうかうなると夢中だ。外へ出で仕舞ふまでは何もわからぬ。ふと気が付くと手には今まで読んでた本を握つて居る。何だが足がぴりぴりするのでずぼんをまくつて見ると、下口の石段が壊れて、其所で足を磨りむいたらしい。

傍に居る先生は、松の木を捉まへて居る手が、微かに震へて居る。暫らくすると何うやら地震が止んだやうだから、図書室に本を置きに行つた所が、本棚はすつかり倒れて居る。其の中に又もぐらぐらやつて来たので本は其所に投げ出し、周章てゝ飛び出した。地面には其所此所に大きな裂目が出来て居る。

今にも足下が割れはしないかど云ふ心配も出て来た。二間許り距てゝ立つて居る図書館がめりめりバリバリ音を立てゝ揺れる度に土台として積み上げてある煉瓦がぱくぱく口を開け、今にもこちらへ倒れかゝりそうである。身体はびよろびよろ実に危険だ。…………

『義雄…義雄…』家の事が心配なので、半ば夢中になつて飛ぶ様に急いで居たが、名を呼ぶ声に立ち止つて共の方を見ると、大勢の避難者で一杯になつて居る桐畠に姉が、泥で大分汚れる浴衣を着て、頭は気狂の様にもぢやもぢやにし、顔は真青になつて立つて居る。『あゝ姉さんか、お母さんは…お父さんはまだ帰らない…』『あゝまだだよ。こつちへ御出で。お母さんも居るよ。』

人混の中を少し行くと隣の人達と一緒に何やら話をして居る。見れば、母も髪は乱れる儘に任せ、襦袢一枚の姿で、あたりに集つた人達と同じ様に顔には血の気もなく、唇は白くなつて居る『何うしたのお母さん、2人共怪我はなかつたの…家は潰れはしなかつたかい。近所の人は皆何所へ行つたの…』『義雄かい、お前怪我はしなかつたかい…学校で潰されやしないかと思つて隨分心配したよ。私達は別に怪我はないけどあ父さんは何うしたんだろうねえ。

海鳴があるなんか云ふもんだから気が気ぢやないよ』『義雄さん…よく帰つて来られましたのね。お母さんが隨分貴方の事を心配して居らつしていつたわ。神奈川の方は何んなになつて…』『光子さんですか。御宅は御変はりはないですか…』『えゝ誰も怪我はありませんわ。だけど私達の座つてたお座敷の床が落ちたのぜ隨分びつくりしてよ』『さうですか、それは結構でした。床の落ちた位は好い方ですよ。二つ谷の通りには潰れる家が多いんですからね』『義雄荷物は何うしやう…3人で出さうぢやないか』『出すつて何所へ…』伊勢山の招魂碑の前なら安全だどらうと思ふよ。』

それから3人掛りで荷物を出し始めた。併し母が何でも出さうとするので『あ母さん、そんなに何でもかんでも出さうとしたつて駄目だよ。其の中に火が来たらまだ大切なものがあつたなんて事になるよ。何所に大事なものがあるかよく考へてそれから先に出して風呂敷かなにかに包んで身体に着ける様にしなければ、なくなつてりなんかするよと言ひながら僕は兄のお位牌と佛檀の抽斗に入つてた墓口をポケツトにねじ込んだ。

『お前のやうに。こんな時そんなに落ち着いたつて駄目だよ。火が来るかも知れないから何でも早く一つでも余計に出さなければいけないよ。』と母が言へば姉も横合から『こんな時にそんなに愚図愚図して居られるかね早くこれを持つで御出でよ。』

2人にさう言はれては返答も出来ない。仕方なしに又運び始めた。箪笥行李のやうなものから米櫃、下駄のやうなものまですりかり出して仕舞つた。

所へ大家さんが見廻りに来て、バケツに半分ばかりのしかも壁土の落ち込んで居る水を見て『これは大事ですよ。もう水道は出ませんから、水道の水は少し位泥が入つて居ても取つて置かないと後で困りますよ。風呂敷を被せて糸で縛つて置くか、釜の蓋をして置くかして取つて置きなさい。』

其の時はまだ水の事などには気が付かなかつた。さう言はれてち何を言つてるんだ位に聞き流して知らぬ顔をして居たが、後で思ひ当つた。斯うして何うやら荷物は月付いたが、火の手が大分近付いた。荷物はなくても何はなくても家に火の付くのは何だか、非常に大事なものを焼くやうな心持がする。其の筈だ。若し家が焼けたなら明日から、否今日から直ぐに困るのだもの。もう大通を間にむいた、向ふの弩庇官舎には、火が移つて今盛んに燃えて居る。こりや大変だ。

先刻招魂碑の前と云つたが、荷物は重くてしても上らないので、其の下に置いてある。身体はもう非常に疲れをし居る併し此所に置けば火が付くかも知れぬ。仕方がない。又も3人で上へ運んだ。平常なら空身でさへ骨の折れる所を一心と云ふものは恐ろしいもので、何うやら片付けた。けれ共、その時の苦しさ、それはとても忘れられない。腕は脱ける様だ。足は棒の様になつた。それでも運ばねばならなかつた。

咽喉は渇いたが水はない。先刻大家さんにあゝ言はれる時、取つて置けば宜たつたと思つても、もう達い。不図見ると、父の飲み残した酒が何かと紛れるのか知ら出てるので、これ幸ひと早速喇叭を吹いた。そしたらそろそろ空腹を覚えた。御飯もある。父の土産の白味噌も出て居る。茶碗も箸も全部出て居る。それで近所の人にも御販を食べさせ、自分等も腹一杯食ベた。その中に好い気持になつて布団の上に転がつた。 

『火が付いた。義雄さん…義雄さん…とうとうお家に火が付いたよ。お隣の娘の声に重い身体を起して、其の方へ行つた。どうだ。よく燃える事…永年住み慣れる懐しい家の焼けるのを手を束ねて見て居らねばならぬのだ。

そこらに立つて居る人達は皆掌中の王を取られる様に暗い顔をして居る。今日迄丸6年の間起き臥して来た我が家はもうすつかり火に包まれて仕舞つたそして隣の将兵義会に燃え移つた。建物が大きいだけに燃え方も非道い。熱くてしてもまともに顔向けは出来ない。

其の中に息苦しくなつて来た。熱いためばかりではない。もう見るに忍びない。荷物の方へ戻つた。『おや何うしたんだい義雄、涙なんか出して』『お母さん。到頭焼けたよ。』もう駄目とは思つても火の移るまでは万一と思ひ残して居たが、矢張り駄目と極つた時の、母や姉の顔、予期して居た事とで驚きこそしないが、何とも表し様のない悲しさ、寂しさが浮んだ。

大震災に郷里へ避難する迄の苦心 電四 柴原 実

9月1日(旧210日)の正午は忘れる事の出来ない日です。我等は長い夏休みも終つて9月1日は第2学期の始業日でした。

当日は短縮授業でしたので11時半頃課業が終りました、私は数人の友人と一緒に校門を出てました二つ谷通りの早川学用品店の前迄来ると友人が地震だと言ひました、が其の時自分には感じませんでした。それから2、3歩出たかと思ふとぐらぐらと地か振れて来たので驚いたではありませんか、道に立つて居る事は出来ないのです。

其の瞬間に早川書店が潰滅してしまひました。丁度道に居つた驢馬は四つ這ひになつて歩く事も出来ず、自転車に乗つで来た人は倒れるのです。私は此れが此の世の終りかと思はれて全然生きた心地が致しませんでした。

一且地震が静まると早道手戸君と校門の前の広場に有る松の木にしりかりつかまつて居ました。また大きな揺返しが来ました。町の人々は念佛を唱へで居るのです。少し過ぎて軍艦が発砲した時の様な大きな音が引続いて聞えるのです。傍に居合せた人々は軍艦が警砲を打つのだと言つて居りましたが後になつてラいジングサン、スタンダード等の石油会牡のタンクが爆発した物音であつた事が知れました。

余りの恐ろしさに家に帰らないで学校で暮しました そして4日の午前9時に数人の友人と共に学校を出発して郷里へと避難の途に向ひました。用心の為めに学校から中隊教練に用ひる剣を各自1本宛借りて腰にさげ、東海道線に治つて鶴見迄来ると意外にも同級の須田君に出逢ひまして『汽車は川崎から品川迄運転して居る』と云ふ事を聞きましたので心強く感じました。

共の日は非常に暑くて水の用意も無たつたので咽喉が渇いて仕方が有りませんから少し行つては井戸を尋ね尋ねして川崎に着きました。夏服に足袋素足。其の上にゲートルと云ふ扮装でしたので、途中で足袋も破れて足に大きな豆が3つも出来て歩くに非常に苦しみました。

川崎で汽車に乗つたのは良たつたが、其の内に客が来るはく、見る間に身動きも出来ない程ぎつしりと蜜柑箱の様になつて午後3時に品川駅につきました。品川駅は少しも被害は無かつた様に見受けました。又山手線に乗り換へるのです。駅夫に尋ねると1日に2回列車が運転して居ると云ふのです、第1回は午前8時、第2回は午後4時です。しめた、此の割合で行くと今日中に郷里に着く事が出来ると喜びました。

併し4時になつても汽車は来ません、早速駅長室へ飛込んで聞くと汽車は午後2時に出た此の後は明日午前6時半に一番が出ると申すので、止むを得ず其の日は友達の親類の家に御世話になる事にした。明くる朝6時半の汽車で赤羽に向ひました。

途中途中の各駅で乗る乗る皆窓から飛込むのです。池袋に来ると汽車は止まつてしまひました。下車を命ぜられ此の際で有るから此の列車は赤羽に行くか此所で止まつてまた品川に返るか良く知らないと駅長が云ふのです。すると所々で無責任だ無責任だとどなりますので巣鴨方面に向つた。

てくてくやつとの事で田端駅に着きました。構内は各地方に避難する人で黒山の様でどうてる事も出家ません。折角此所迄来たものゝ此れではとても今日は愚か明日も家に帰る事は出来ないかと思つて心細くなりました。

そこで砂糖水に蟻が群る様に列車に掛寄る人々を喧嘩腰で押し分けて外側の窓から飛込んで一同どうやら乗る事だけは出来ましたが、其の内に又詰る列車内部は椅子の下から子供は網棚の上迄ぎつしり其の上屋根にも何10人と云ふ程上り中には自分のへこ帯を窓に結び其れにぶらさがつて行く者さへ有いますので今にと窒息しさうでした、此の様にして愈々川口町と赤羽駅との間に有る荒川の大鉄橋に来ました。

此の鉄橋も今回の地震の為めに大破害を受けて居ります。そして鉄橋の真中迄来ると列車は急に止まつてしまひました。此れでもうしても通り過ぎる事は出来ないと思ひました最後の覚悟を致しました客の中には機関車がやや倒れ掛つて居ると言ふので一層不安を来たすのでした。其の中に動き出しました。向側に着いた時の嬉しさと云つたらしても御話になりませんでした。

大宮駅に来ると中央線東北本線と二手に分れる為め客も半分になり緩々腰を掛ける事が出来ました。各駅には青年団、消防隊が居つて色々食物を我々に配つて下さるのです。汽車が出ると一同が有難うと云ふ声は何んとなく悲しく聞えました。途中で水一杯貰ふのが喧嘩腰です。人も餓死する間際には斯様になるのかと思ふと昨年頃露西亜(ロシア)に有つた餓死年にはさぞ人民が難儀な事で有つただらうと思ひました。 

宇都宮に帰ると大夕立です。此所で全部下車を命ぜられました。其れから郷里に向ひました、家に着くと父母始一同の喜びは実に御話しになりせん。喜ぶのは最もな事です。此の天災で私は死んだものと思つて居た所へ思ひ掛けなくもぴよつくりと帰つたのですから、一時は口もきけず唯私の顔を見詰めて居つたばかりでした。一日は地震で驚かされ其の夜は大火でびつくりする、次には不逞鮮人大雷雨と云ふ具合に私はいらゆる恐ろしい目に逢ひまして疲労しきりて居るので其の翌日から床の中の横着者となりました。

大地震と火事 電四 後藤 明

9月1日の大地震と大火事

前者は安政以来の大きなもので後者は明暦以上のものだと言はれている。

地震の方の安政2年10月2日は誰でも知つて居てまた誰もが口にしているが、火事は唯明暦だと云ふのみで明歴の3年1月18日にあつたと云ふのをあまり聞いた事が無い。

何所から火が出たのかは知らないが、その頃は水道が無いたら地震があつても断水する心配がない、それで其の日は地震も無たつたのだから、さしもの大火と云つてもたいしたものではなかつたらしい。

其の頃の横浜は未だ村であつて家の数から云つても人智の程度から云つても実に貧弱なものであつたさうだ、勿論伊勢佐木町通もなければ、活動写真館も無い、活動写真と云へば横浜館のあつた所は墓地で夜等は人も緑々通らなかつたさうだ。

それが帝都の咽喉とか何とか言つて日本でも屈指の否世界にも其名を知られる横浜市となつたのだ、それがこの9月1日の地震と火事の同盟の為に僅か7、8日間の間に元の横浜村時代より、もつと始末の悪いものになつてしまつたものゝ様に想像される。今はグランド村等と云ふのも出来た。

考へ出すと悲しいのを通り越して、噴き出したくなる。しかし焼けても潰れても、帝都の咽喉は咽喉だ。

これ全元通り否元以上に復興させる事は言を待たず我県の責任であると思ふ。 

震災後初めて両親に逢ふ迄 電四 齋木春雄

「T君昼から海水浴へ行かうぢやないか」「あゝ行かう賛成だよ」40日の長い休暇の道楽気分が未だ残つて居ると見えて生徒昇降口の所々に此んな風な会話が行はれている。時計の秒針は刻一刻と小さき運びを以て正午目がけて突進して居る。時丁度正午に2分前「ガタガタ」と大地が動揺して来た。数人が「地震だ!と叫んだので皆一勢に昇降口から転がる様にして外の芝生へと飛び出た。皆真青な顔をしながら互以に抱合つたり側の木にかぢり付いたりして早く地震の止まんことを心に所願している。しばらくして稍静まつた。

数分前は美しかりし校舎も今は傾さ壁は落ちる、下駄箱は倒れる。恰も戦争跡の様である。「ガタガタ」又揺れて来た。「それ!ツ」と押し合ふ。何時迄此所に居てち只恐ろしい思をするばかりと思つて数人連れ立つて帰路に付くことにした。

数年間我々を快活に迎へて呉れる母校の門は地震の為めに名残なく倒されでしまつた。往来に出て見れば屋根瓦が落ちて広くもない道を一層狭くしている。此の辺の建築は古いと見えて全潰半潰の家屋が所々に見受けられる。少し行くと子供が潰れる家の下敷になつてしきりと助けを求めている。然し何物も持たない彼の親は「今助けてやるぞ」と云つて躊躇しているばかりである。

我々は助けてやりたいが道具とては何物も持たない、そればかりではなく自分の家でも此の様な事が出来してはいないかと思へば居てち立つても居られぬ。足は進まねが気ばかり急ぐ。途中色々な悲劇に出逢ふ。見るに見かねて涙を呑ひ。其の内誰れの口から出たとも無く「火事だ!と云ふ声が聞えだ。人心は益々狂乱の度を増して来た。見る見る市中は焔に覆はれて来た。

我々は全く帰路を閉ざされてしまつたので、余なく町外れのM君の家に避難して騒動の終るのを待つていた。然し仲々止まない、否止まないばかりか一層激烈になつてくるばたりである。

如何にしても帰るべき方法も無き故一夜の宿をこゝにかり。而して暖き情愛の籠つた布団に入つたが家の父母はどうして居るだらう?家人は皆どうして居るだらうかと頭の中が混乱して眠ることは到底出来ない。夜は平生の通り白々と明けた。

朝飯の馳走になつて早速と両親を訪ねに出掛けた。市中に入る。昨日迄は五大都市の一と誇つていた横浜も一夜にして見る影が無くなつた。只焦色と砥石色の淡色の混雑した焼土の中に赤灼の瓦や凹曲つた鉄材、蜘蛛の巣のちぎれ切つた様な電線それに大層高楼が一つ二つ国の歴史の様に残つているのみである。あたりには残骸累々。この様を見て我は「鳴呼恨むべき天災よ、幾万人の人々を葬り尚其の上に多大の富を灰と化した。之れを誰が恨まずに居られよう。瑕令天災とは云へ余りの仕業我は恨を呑んで止まないのである」と叫んだ。

急いで我が家に帰れば残るは只灰ばかりで別に立退先しても記されてない。あゝ我が家人はどうしたのだらう。心臓は一層の小波を打つてきた。終日方々探したが遂に見当らなかつたので又M君の家へと帰つた。

加之恐怖の上又恐怖が襲ふてきた。それは鮮人騒動である。夜は家人の生死不明の心配と鮮人の暴行にて眠ることが出来なかつた。裏の山からは銃声、前の原からは闇の声が聞えたりしてまるで満洲のあの広い野に於ける夜襲もかくやと思はれる。

さうして2日は暮れ3日となつた。早朝又家の跡に行つて見た。嬉しや立札があつた。それには見なれる筆蹟で立退先が明記されてあつたのでやうく探し当て初て懐かしき両親と会することが出来た。

未来派の絵の様に 電四 小野寺声二邱

ゴーと云ふ声と強い揺れの後に僕の前には早や変つた世の中が置かれてあつた。

大地には太い線が描かれる。赤色のポストか横に2階の屋根は地を咬み、柱は傾けて建てられてあつた。そして瓦は様々の多角形になつて道に置かれ、又不規則に屋根にあつた。物と物の間を通つて来る太陽の光線は黄色の土煙の線を引く。

天には乳色の緑取られる地層雲がベートーベンの胸像の髪の毛の様にうづまいて高く高く動かずある。その一條下は黒、黒褐色の煙の祭が赤い火焔の上を這つて行つた、僕の周囲はやがて暗くなつた行つた、心と共に。そして赤い衣きた蝋燭の畑の精は熔けて行く白いステージを踏みながら狂ふ様に辺に光を投げて舞つた。そこには疲れる母の顔、その皺、コーヒー茶碗、バスケットがあつた。そして僕の黒い影が板塀がぴつたりとおびえた様にくついて居た。何時迄も目は開いで碧い雑草の街の上にあつた。

又一しきり地が動く。人は地に手をついて居る。暗色から暗色へ、カレンダーの字は何時迄も1であつた。

赤銅色の太陽が空に置かれる。空は矢張暗色で塗られてあつた、ハ々は雨が落ちて来るかと面を曇らせたがそれは雲ではなかつた。

犬のリーは自分の小さな家の揺れる時、尾を巻いで爪に力を入れて目を張つて居た。 誰の家にも恐しい奴が居て(家を揺つては)その家の人を入らせなかつた。

7度目赤銅色の太陽の出た時、くぼんだ目、ほつれる髪とけた頬とを持つて居た人々を見た。空の暗色はせばめられて行つた、そしてアポロの齢は七色の色を躍らせ朝と昼とを置かれ給うた。

星と月とを持つた静かな夜も来た。

それがかはるがはる来て呉れる、するとカレンダーは恋くなる、毎日一枚づゝ着物を脱いで行つた。家には恐い奴がいなくなつたので人々は家に入つた。そこにはもはや酒があつた、より早く煙草があつた。子供は?のむすびでは首を横に振る様になつた。

人間の欲と満足は常に距離があつた。

我等市民の決心 電四 黒瀬 甫

帝国の首府、関門と歌はれし大東京、大横浜も僅々5、6分間の大自然の威力に堪へ得ず、我等同胞の五十有余年築きあげし此等都市も今は全く荒涼たる焼野原と化して了つたのである。」此の突然なる大変化に対し官業を以て任ずる血気旺なる等青年の取るべき道は何であらうた。「復興」実に此決心が大切であると思ふ。

東京、横浜市民は概ね家は焼かれ中には職を失ひ或は一家を支ふべき主人に死別してたよるべきものなきも人々に対しては我等は熱き同情を持つと同時に又其遭難者の身としては一種の情なき、人生のはかなきを思はずには居られまい思ふ。併し何時迄もかゝる事を思ふのみにて徒に時を過すも無益なる事、早くかゝる震災気分を脱却し大東京、大横浜を建設すべき復興気分を持ち一日も早く此都市を過去以上にするのが誠に我等にかゝる大責任でありままたかゝる決心を持たねぱならぬ。

今後は一人として働ける身を持ちつ働らかざる様な人なく商業家はに心に取引をなし工業家は優良なる製品を製出して共に我都市の繁栄を計り世界の東京、世界の横浜と云はしめたいと思ふ。之は実に此等市民の努力の如何に繋るものである。

若し10年乃至15年後に於て市区が改正せられ我国ひいて世界の模範都市として称へられるゝ様になれば市民の本懐宜に之に過ぐるものはないのである。サンフランシスコが現今の如く理想的なる都市となつたも、明治39年4月の大震火災の結果市区改正が行はれし為なりしと云ふ。

地震、火事に逢ひし時の苦しさ、辛さを忘れず、且つ新になる大東京、大横浜の建設さるべき日を期待して着々復興の多をすゝめたいものである。

震災後の感想 建四 須田進治

突如!大地は震動した。幾千万の家屋は或は倒潰或は崩壊して、四百年間血と汗に依つて築上られる大東京も数年間に稀有の発展を遂げた横浜市も隨所に起つた火災に加ふるに烈風に渦巻く火焔の舌て煽つたがため瞬時にして火の海と化した。市中は大混乱を来し幾多の生霊は猛火の中に葬られる。

父母を失ひたる子、子を探し狂ふ親実に見るもの聞くもの惨又惨、其の後問もなく流言湧き蜚語起つて人心は痛く動推し自警団の暴挙算なきに到つた。……之は9月1日の状況であつた。

未曾有の大地震に依つて荘麗を誇つた帝都も繁栄の横浜も今はむなしく昔の姿を失ひ惨ましい残骸を焼野に横へて居る。地震!科学的に考へたなれば地殼の陥落地滑り等に外ならず、然し斯の如き前古に比を見ぬ程の大損害を与へた地震は日本一否世界一である。然らば何故にこの未曾日の大震災を現代の関東に下したかを熟考せねばならぬ。

或人は「現代の人心が浮薄に陥り、その果は驕奢となり、堕落し腐敗した。天は之に対して覚醒を促すため、最後の所置に出でたのである」。と。それに一理なしとは言へないが、我々が願つて反省したならば、此の大天災を此の大渦を特に現代の我々に加ヘたことは、畢竟天が我々に災厄に反発し得る弾力の有無如何を試棟されるのだと思惟せざるを得ない。即ち我々に、それの負擔の力を望まれるのである。

然り。我々こそ絶大な災厄に反発する充分なる弾力あり。今回の大試練に耐へた事を以て却つて之を光栄として、勇往邁進、禍福の分岐点を突破すべきである。斯く考へて見るならば、今後吾人の自覚と奮闘と相侯つて禍を転じて福となすの努力を必要とするこの人心の緊張した気分を以て、此試練に耐ヘた肉体を以て、更に世界に誇り得る首府の建設に資せねばならのである。

此の衝動の発源は何か。実に今次の天災に残れる幾万の生霊である。此所に到つた我々は、その人々の単なる徒死ならざることを感じ、奮起覚醒、同胞幾千万の犠牲となりし恩人に感謝せねばならぬ。否感謝を超越して、その恩に報ゆる努力を以て数年後には、必ず、地下の恩人に値する大都市を建設するの使命を有するものと信ずる。

家に着く迄 建四 桐谷 貞

学校が終つて、二つ谷の郵便局の前を歩いている時である。突然だつた。小さい橋の上を通つて居る時、後から自動車にでもこられる時の様に、体が上下した。とすぐ其の次には足が大波に引かれる様に感じた。軒先に吊してある提灯屋の提灯が空電車のつり皮の様に揺れ始める。その隣のおもちや屋の硝子戸がこわれ始める。子共が泣き出す、地面に赤坊を抱いて坐る女、電柱にかぢりつく人、すぐそばの犬が吠え出す。「火を火を」と大声に叫ぶ人、潰れだす家の音、そんなことをはつきりと見聞しながら、引き続いて来る余震に倒れさうな足どりで、停車場の方へと駈けだした。

もう平沼方面には黒煙が上つていた。線路に避難した人は余震の度にレールにかぢりつく。地がおちてレールがプラプラして居る上を平均運動でもやる様にして、渡つたりして横浜駅につく、駅のすぐ側は、一体に焔が潰れた家を舐めている。

保土ケ谷駅の方からも桜木駅の方からも煙が来る。「あゝまごまごして居ると火に包つまれつちまうぞ。早くけへらなきや」と思つて家の方へ向つて枕木の上をかけ出した。

程土ケ谷の富士紡の所まで来た女工が少しばかり線路に逃け出している。「此所にや大分入つて焼けてますぜ。………さうですね2、3チは居るでせうよ」。と紡績会社の火焔を指して話しているのがふと耳に入つた。

知つていても誰も助けねらしい。もう線路は往来になつちまつた。「道なんざ歩けませんよ。えゝおつかなくつてね。これが一番安全でさあ」。「あつしやあの戸塚から来たんですけんどね駅の少し先で汽車がけえりましてね」。色々と聞きもせねのに話して行く人もある。

トンネルの上を越してから東海道へ出て祖母さんの所へ寄つて見ようとした。昔の五十三次を来出す様な軒を並べた家々には皆屋根だけになつて所々には人を助けたのである。

屋根かそこら中こわされて散つている。

「あんた方は横浜からいらつしてやつた人ですか。あつちの方はどうでせうね」。等と幾度も私は聞かれる。途中で親類の人に逢つたのお祖母さんとこの事を聞いた。「可愛さうにかつちやんが未だどうしたかわからねえとよ。多分裏の山がくづれるから埋つたんべつて近所の人達と堀つてらあ」とのこと私はびつくりした。私は何んと言つていゝか分らないので「よろしく言つといて下さいね、それで鎌倉の方はどんなでせうね」。と訪ねた。「あれ見ろあれが鎌倉の煙だ人の話しぢやあ鎌倉全滅だとよ」。聞いて私は揺拶ちしないでかけ出した。

線路へ出て来る人毎に聞いて見たが唯れも私を安心さしてくれる様な答をしてくれる様な人はない。たヾもうさつき聞いた煙ばかりが目あてだつた。戸塚も過ぎ大船も過ぎた。近づけば近くなる程私の不安は増すばかりだつた。皆どこへ逃げちまつているだらう。鎌倉へ入れるだらうか。死んでいやしないかな。若しさうだつたら。

無意識に靴をぬいでまた馳け出した。扇ケ谷へ入つてから家の方を見た。煙と焔でとても分らない。「実戒寺の方はどうでせう」「何八幡前だけですよ」「だけどこの風ぢやね」八幡前へ来てみるとずつと停車場の方まで火だ。煙だ。焼けてない家はどこも家根ばかり。靴をはいてまた私は馳けだした。然し今度は足の運びがゆるたつた。噫まだ横浜の空にはあのもくもくの入道雲がうす黒い空に下の方だけ赤くそめてちつとも動かずに居る。「あゝお前死んぢまつたかと思つたよ!」「何大丈夫さ」母の目と私の目には涙が光つた。暫くは言葉が口迄出るだけであつた。

バラックの一夜 建四 鈴木秀一

夜は次第に更けてゆく。針の落ちる音さへ、聞えさうだ。復興気分に漲(みなぎ)つていた昼間釘を打つ音や、トタンをはる音や、自働車の響が絶えなかつた、焼野ケ原の此の一軒家、今は其等の音も聞えず、人子一人通らず、唯荒涼たる中に寂しく立つて居るのである。

燈もない真暗なバラツクの中に、青白い月の光が硝子窓を通して、布団の上に落ちている。父母は昼の疲れで、前後ら知らず、すやすやと眠つている。

鳴呼!彼様して、大地震に続く大火の為に、焼き出される。親子3人が無事にいられるのも、わづかながらも、厚い同情の籠った慰問品の御蔭である。おゝ赤誠の表現!!僕は深く深く咸謝すると同時に、人類愛の尊さを身に沁みて味はざるを得ない。

トタンの隙からもれでくる冷い秋風に思はず身振ひして、恵まれる布団を頭から被つた。

火に追はれて 家四 野村元之劫

私は東神奈川停車場に立つた。駅の時計は12時1分前を指して居る。私はポケツトから時計を出して合せようとした一刹那何とも名状し難い地鳴と共に大地は激動した。駅に居る人々は、悲鳴を揚げながら駅前の広場に飛出した。私はレールの上に飛び下りた。

電柱は激しく左右に揺れる。壁に割れ、壁は砕けプラツトホームの屋根は、私のすぐ前に倒潰した。濛々たる土煙は四方を閉ぢた。

私は鉄路に沿ふて歩さ出した。揺り直しが来る度に、線路の上に避難した人々が南無妙法道華経と念じて居る。神奈川停車場を過ぎると地割があつた、横浜駅裏の工場が盛んに黒煙を上げて居る。

横浜の歓楽境たる伊勢佐木町通は早や猛火に見舞はれて焦熱地獄と化した。桜木町駅も炎々として燃え上つた。火の玉の様な火の子は雨の如く飛んで来る。電車がメラメラと紅蓮の炎を吐き出した。

私は帰宅を断念して横浜駅前まで退いた。警官が重傷者を救ひ出して来る。人々は荷物を背負つて逃げ惑つた。神奈川の油槽が燃え上つた。魔の如き黒煙は濛々と天にみなぎつた。

私は駅前に停車して居た電車に腰掛けて静かに押し寄せいて来る猛火をながめた。戸部も燃えた、ドツクも燃えた、轟々と爆発の響が起つた。家の燃け落ちる音も聞え始めた。火炎は愈々近いた。私は電車から下りてガードの下に立つた。厳然と控へた横浜駅も魔の舌の如き猛火には敵すべくもなかつた。遂に横浜鰐も燃え上つた。私は黒煙の渦巻に巻き込まれる。

私は崖の上に駈け上つた。高島方向は避難民で進めなかつた。私は鉄道線路を越えてドツク会註に向つて突進した。やつと海岸へ出た。然し火はすぐ後にせまつた。私と一緒に避難した女子供が「助けて下さい助けて!」と悲鳴を揚げて居る。沖の舟から伝馬舟が来た。私は其の人達を先に乗せて逃がした。

火の子がぱらぱら降つて来る。前に浮んで居た船が火災を起した。一人の男が飛び込んで泳ぎ出した。私も洋服のボタンをはづしたが海岸に沿つて高島駅の方面に歩き出した。風向が変つて少し楽になつたので海岸の石垣に腰を下した。後から避難した人々が悲鳴を上げて居る。やがて後から救助船が来た。私等は飛び乗つた。気艇は陸をはなれて全速力を出した。

私は茫然として火の海、横浜をながめた。

地震の当時 図四 堀内治雄

安改の大地震から69年目の大正12年9月1日午前11時58分に、関東地方人否日本国民に取つて忘るゝ事の出来ぬ一大きな禍が起つた。其は大地震、大火炎である。300年の文化の華と誇つた我が帝都たる東京市を中心として、横濱、横須賀、鎌倉、小田原の各地方を始め房総半島の一角に至るてで、開闢以来未曾有の大地震で、建築物は倒れ、火災八方に起り炎々たる紅連の猛火は天を焦し、帝都の大部分は一昼夜の内に焼野原となつてしまつた。

横浜も同じく横須賀、小田原、房総沿岸等もそれぞれ惨害を受けたのである。其日(9月1日)僕は学校の帰路其の地震に出合つた。両側の家はがたがたゆれ硝子等は見るも無残に原形を見せず、女子供の叫び声や物の壊れる有様が耳に響き、目に映じ停車場に着く音で色々の目に会つた。ブラツトホームに着くと近くの北川べルと云ふ工場が火の海となつて見える。

学校の事も心配だが一先家に帰らうと思つて線路づたひに歩いた。子安あたりへ来ると左右前後に真黒な煙がたなびいて見える。川崎について先づ驚いたのは東京電気の頑丈さうな建物が倒れて、その裏の方が燃えて居るのと、鉄道前の通りが軒を列べて倒れて居たことであつた。

心配して居た我が家は無事で、裏に戸板を敷いて出て居た。そこへ腰を下して昼飯を食べた。終つて立たうとすると、足が痛くて立てない、考へて見ると帰路に線路の枕木につまづいたのである。其の夜朝鮮人さわぎで徹夜して警戒した。なほ来年の3月までかうして警戒するとの事である。幸か不幸かわからないけれど僕は家のつぶれるのと死人を見なかつた。

灰塵の中 図四 古谷野三郎

大勢の人夫が焼跡を片づけてむる。

鶴嘴を揮つて煉瓦の山を崩すもの、シヤベルで灰を掻いているもの、みんな勢ひはいゝが、手付きは覚束ない。きつと素人ばたりなのだらう。

「さあ、どいた、どいた!」

ぼんやり立つて見ている私の後から、いきなりこんな声がした。年老つた本職らしい人夫を後に、まだ20才位の素人らしいのが先棒になつで、さし擔(かつ)ひで畚(もつっこ)をかついてゆくのだ。すると若い方が煉瓦につまづいてよろめいた。

「おう、気を付けてくれよ、怪我と弁当とは手前持ちだぜ」老いた方の人夫が、いたはる様な調子で声をかけた。

涙ぐましい程、人間味のあふれる情景である。

秋の陽は、崩れ落ちた煉瓦の赤い肌や、バラツクの屋根の真新しいトタン板に、心なく照り映えてる