神奈川工業会ホームページ > 会報復刻版 > 震災特集号

<注> 原稿は旧字と旧かなづかいで書かれていますが、旧字だけは新字に変換し、かなづかいはそのままにしています。

震災日記 機三 小林啓三

9月1日(土曜日)

午前小雨後大風大災厄襲来の兆あり。

例によりて土曜日弁当無し。すき腹をかかへて、古巣へ帰る途中、正に鉄橋を渡らんとする時、悪魔の吠声に似たさうして聞くも恐しい大地震に出会す。これぞ世人を驚かしたる関東大地震なり、時止に11時57分。続いて所々に火災起る。順風に乗じ火焔天を掩(おゝ)ふ。さしもの中村川もなんのその、忽ち全市中に広る。為に火中を飛廻る事約2時間。やうやくにして火は神奈川方面へ走る。

我々一同乃ち僕以下4名は、今はいたしかたなく、焼野原に立つてただ茫然と暮れ行く空をみつめるのみ。しばらくして我にかへり銘々力なく焼石の上に腰を下す。辺りを見廻すと死人の山。あつちには片腕をもがれる女。こつちには頭のつぶされる男。その惨状目もあてられず。欲の為めに恐ろしさも疲労ち忘れて、同級の福山君と共に、焼倉庫からサイダーをかつぎ出し喉を潤す。死人の肴でサいダー、余りうまくもない。いやとんだ酒落れ事だ、腹がふくれると眠気が差して来た。家の事を心配しいしい石の上に横たはる。遠く神奈川方面の火が幻のやうにぴたりぴかり点いたり消えたりする。

9月2日(日曜日)

晴風も大分凪ぎた。

生れて始めての露宿者たる我々一同は、朝早く起き出し別の拶揺もせず、各々力なく焼野原を歩き出す。その2人たる僕も。しをしを伊勢崎町を通り、足曳町の端へ来た。河の中をのぞきこんで驚いたの驚かないの、河中はまるで焼材木と土左衛門で一杯だ。永楽町の家も丸焼け、家の前に立札もしてない。気の早い近所の連中が有りもしないものを堀り散らしている。仲間の一人に我一家の消息を聞いたが、一向要領を得ない。その一人曰く「死んだらしい」又一人曰く「松山へ逃げた」力なく僕は焼原を又もたつて松山へ行く。幸ひ2、3時間まごついた上、墓場の側で一家の者に出会つた!!。

「占めた、皆生きてる」思はず声が出た。早速握飯を食べさせてもらう。尤も玄米である。平常犬も通らない淋しい山中がまるで市場の様、其の夜に人つて、朝鮮人さはぎが始まつた。

9月3日(月曜日)

終日夜気よし、残暑なほ烈し。

夜は全く明けはなれる。暁頃より社会主義者出口某盛に演説を行ひ、玄米醤油等を分配す。これ配給の始めならん。午頃より人々商品倉庫、ドツク倉庫で南京米を取りに行く。近所の仕立師が2俵かついで来たのには驚いた。人も欲には勝てないと見える。狸坂付近で、労働者体の奴等が5、6人で朝鮮人を井戸に役げこみ上から埋めてしまつた。東坂では刀で鮮人の首をはねて川に投げこんでいるのも見た。この恐ろしい殺人罪を見て止る人もなければ、文句をいふ人もない。世は全く無政府状態に化した。

9月4日(火喫目)

雨、寒さ少く加はる。

鮮人さはぎ益々大きくなつて行く。白昼白刄を振つている人。竹槍を持つている人。銃をかついでいる人。鋸を持つている者。まるで戦国時代そのまゝである。人々と共に裏山へ柿をとりに行く。なにしろ先順に白刄を持つた人が行くのだから、山主などはぐうの音も出ない。1時間もかゝつて柿を10ばかり取つてやつと副食物にありついた。夜に入つて各自警団が敵味方を識別する為、山川の相言葉をつくるまるで赤穂の義士の打入そのまゝである。

9月5日(水曜口)

晴、田舎へ引越す。

市内に軍隊が来た。彼の山口一味の人もいづれヘか姿を消した。一先づ田舎へ行くことにした。引越といつでも着のみ着のまゝ、まるで乞食の宿換へそつくりである。5里の道を自警団の人々に護られて9時頃原町田に着く。村へ入るとすぐ巡査がきて、身元調査をする

当地でも例の鮮人さはぎで大へんである。 夜を徹して銃の音がかすかにきこえる。

9月6日(木曜日)

水車が破損してしまつたので、ふみがらで米つきをやる。個から午迄に三斗つき上げた。自分でついた米を食ふのは生れて始めてである。

9月7日(金喫日)

晴、時々驟雨来る。

父の命令で片瀬へ行く。町田より片瀬まで7里半。此の里程を僅か5時間でてくる。途中長後町で甲府連隊に出会す。将校と共に約1里を行く。別れに望んで将校に水をもらう。午後3半藤澤に達す。町中全部丸づぶれで目もあてられない。もつとも横浜から思へばさほどでもないが。片瀬の家へついて暖いものを食べた時は、さすがに嬉しかつた。つい2軒前まで焼けて来て叔母さんの家のやけのこつたのは恐らく前の瀧口寺様の御利益であらう。

9月8日(土曜日)

晴。少しく風。

終日江の島の波を枕に眠こむの有様で、我れながら身の弱いのに驚いた。当時告知板に鎌倉に流行性病の蔓延云々と記してあつた。

9月九9日(日曜日)

晴、雲の飛ぶことしきりなり.

風聞に曰く「江之島は3尺低下で、時々の予震の為め波が非常に大きく、島の人々は、対岸を見ながら渡ることは不可能である。其れ故侠気のある船頭達は死を決して渡船を出している云々」。夜に入りて突風起り一夜安眠成らず。

9月16日(日曜日)

焼けシヤベル1本、焼トトンカチ1本で、今日は土方である。裏の方から三毛の死体がでてきた。かわいさうにもう腐つていた。それを埋めて心ばかりの回向をしてやつた。さぞかし猫もあの世で嬉しく感じたであらう……。夕方家へ帰る。家といつても悪くいふと堀立である。

震災の実瞼 機三 小澤 巌

大正12年9月1日の大震災は我国未曾有の大震災であらう。東京横浜等の繁華な都市も僅か教分間の大地震で起つた火災で焼野原と化し数万の人の命を失つた。此日は我々一生永久に忘れることの出来ない凶日である、其日学校の授業が終つて電車に乗つて楼木駅を降り広場へ来た時、突如大地が震動し其内に桜木駅や付近の家々は建物がつぶれる。

見る見る火事となり黒煙猛々と立つて空を包み、炎々たる紅連の焔は町から町へと飛んで市街は一面の火の海と化した。駅前は民衆吽喚大雑踏大混乱である。

野毛町方面はどんどん燃えて火の子は頭上に落ちる。小公園の松の木に20分間もかぢりついていたが、横浜駅へ引返した。駅前も避難民で埋まつていた。

馬車が置いであつたので其上に乗つて少し休んでいたが駅前から又火が出たので、夢中で東海道線路に出で保土ケ谷方面へ向つた、線路には多くの避難民で一杯である。 戸部や平沼方面の諸工場からは黒煙立揚つて、線路を包み、先の方が判らなくなつてしまつた。保土ケ谷停車場へ来た時は午後2時頃であつたらう。

家が心配になるので又横浜駅の方へ行かうとしたが、其時は線路付近の家々は盛に燃えているので、行かれず藤棚の方を通つて行かうとしたが、これも燃ているので保土ケ谷駅へ戻つた時は薄暮であつた。駅前の山に登り4年生の人と其夜は山に野宿した。       

大震災日記 機三 三堀菊太郎

9月1日 曇後晴

夏季休暇も終りて、愈々学校も始まるので登校す。朝曇りで西南の風強く吹く。始業式、大掃除をすまし帰宅す。残暑尚しのぎ易く、シヤツ1枚にて涼み居るに午前11時58分大地震、家は倒潰し地は割れ、山や崖は崩れる。恐ろしき地震よ!。之に伴ふ火災で横浜の各所より火の手は揚る。見る見るうちに火災は広がる。

我が家も危ふくなつたので我等一同支度をして形勢を伺ひ居るに、幸にして風の方向変りたるにより火災は免がれる。黒煙は沿々として天をおほふ。何たる事ぞや。此の大横浜も見る見る内に焦士と化して行くのである。日は西山に没して不安な夜はだんだん襲ひ来た。如何にして此の一夜を過さうかと思ふと、非常に悲しかつた。我等は庭の一隅に雨戸を敷きて露に打たれながら夜明を待つた。

9月2日 曇

早朝日のの出づる頃に父と其に我が家を出で、父の会社の様子を知る為めに鉄道線路を歩みて子安に行く。線路を歩む者列をなし、両側には焼出される者が小屋を作つて入つて居る。父の会牡も焼けてしまつて居つたので父の悲みは一方ならずであつた。

引帰して戸部の親戚に行けば皆一同無事であつた。今度は闘内に行くに死体が路傍に横はつて見る目も哀れであつた。臭気鼻をついて嘔吐を催すやうであつた。

漸く家に帰つて来た。握飯を食つて少したつと「津浪が来る」、「朝鮮人が刀を抜てし400人も押寄せて来る」といふ事が伝はると、近所の人達は皆一斉に山へ逃げた。其の騒ぎは大変な物であつた。其の内に朝鮮人が3、4人来たら消防夫や、警官が来て皆でなぐりて連れて行つた。人々は皆警戒して刀や鉄砲を持つて居つたりした。家へ入る事が出来ず庭へ小屋を作つた。其所で一先づ露をしのぐ事にた。かくして又夜を過した。

9月3日

10時頃横浜倉庫で米を呉れると云ふ事を聞いたので行つて見ると、それは戦場のやうであつた。荷車がずつと列んで其れへ米俵をかついで来ては又積んで居る。僕はよその人が米を3升ばかり呉れるのでそれをもらつて帰つて来たが、それは大変な騒ぎであつた。雨が降り始めた。

9月4日 不明

朝より見舞に来る人が多たつた。母や妹と共に山へ薪を取りに出かけた。帰りに百姓が野菜を呉れると云ふので行つて芋や茄子とをもらつて来た。すると近所の者もどしどしもらひに行くので畑は随分にぎやかであつた。夕方井戸へ水を汲みに出かける。夜は家の人が夜警に出かけた。尚も余震は毎日の如くにあつた。

9月5日

朝6時に起きて販を食ふと父や職工の者と父の会社の焼跡へ灰かきに行つた。空は曇つて、時々雨が降つて来る。道具や機械をかたづけたり運んだりして1日汗を流して働いた。夕方つたれるので早く前後も知らずに寝た。

9月6日

此の2日はごろごろしていたが正午より川崎へ食物を買ひに出かけた。歩いて行くので時間がかゝつた。米、味噌、醤油、蝋燭など色々日用品を買ひまとめて帰路についた。途中で真暗になり7時に家に着いて、夕飯を食つて床についた。

震災の実験 機三 林 章雄

「田中君まだ12時4分前だよ」。と私は言ひながら待合室へ入つて行つた。そこには何やら小声で話して居る髪のみだれる女や、ロイド眼鏡ですました神士や、田舎の爺さん等が居た。こ今日はひどく熱いね」と伊藤君が言つた。実際熱くてたまらなかつた。「地震だ」と天井を見ながら田中君が叫んだ。どんどんどんと上下動の非常に大きい地震が来た。それとばかりにホームヘ飛び出た。アスファルトがひくむく持上ると思ふと2つにわれる。

持ち上つては割れ、もち上つては割れる。ホームの屋根が倒れさうになるのでレールの上に飛び下りた。それと同時にホームの石がくづれて来たが避けることもどうすることも出来ない。併し幸に石は体にあたらなかつた。便所がつぶれる、地はわれる、電柱はまがる、人はころぶ。向ふを見れば電気会社はつぶれて壁土でもうもうとしてよく見えない。其の間から、ちらりちらりと火が見えてた。びつくりして「田中君火事だ」と僕が叫んだ。

地震は一時休んだ様なので、くずれだ石を踏越えてホームの一番太い柱の所へ行つた。心配に満ちた顔付で一家はどうでしようね」と髪のみだれる女が相手の女に言つたので、始めて僕も家のことが気ずかはれて来た。「きつと祖母が例の如く出るな出るなと叫んで居るうちに家が倒れて来てあの直径1尺以上ある梁で家中皆んな死んでしまいはしないか。あれだけの人数であるから皆な死ないまでも1人位は必ず死んで居るであらうこと、思ふと居ても立つても居られぬ程心配になつた。

「余震はきつと大きいよ」と田中君が言つたので、「さうだね」と答え答へるか答へないうちにぐらぐらと動いて来た。「それ」と又もとの所へ飛び下りた。ロイド眼鏡も一緒だ、爺さんのすごい顔と言つたら!レールは左右に2尺位ゆれる。

子供は泣く、女は叫ぶ、ぼうぼう音がするので向ふを見れば電気会牡の火は遠慮なく強風にあふられて大石油タンクのあるライジングサン会社の方へどんどん焼けて行く。「今にタンタが破裂すると、此に居る者は全部死んでしまう」と駅員に言はれる時にはまるで死刑の宣告をされる様な気がした。

東海道を下つて行けば、瓦斯の大タンクがあるのだもの実際行き場がない。またぐらぐら動くかと思よと「竹や!竹や!」と叫ぶ男「兄ちやん兄ちやん」とよぶ女の子「大丈夫よ、しつかりしてよお婆さん」と励ます女、泣き叫ぶ子供。大正12年9月1日午前12時を最期として地球全滅かと思はれる程の大荒である。

桑原桑原と叫ぶ声もなければ万歳楽万歳楽となえる心も起きてこない、唯夢中になつてしまつて居るのだ。「こゝに居てはタンクの破裂があぶないから、瓦斯タンクの破裂せぬまに東海道線づたひに逃げようとに居ても仕様がないから」と言ふF君の言に従つて(伊藤君、田中君は鶴見へ逃げると言ふので別れて)東海道線ずたひに逃げ始めた。

東側の戸部は燃えて居り、西側の各工場も焼けて居るので危険であるし、又熱いので線路に避難して居る人をさけながら、いつの間にか駈足になつて居る。やつと程ケ谷へ着いた時にはほつと、一安心した。程ケ谷町はつぶれる家は割合に少く其の上に焔けて居ないので横浜程ひどくはないからこの分で行くと、段々地震は宿へ行く程、軽いかも知れぬと思ふと少しは安心したやうに思はれるが、やつぱり見ぬうちは不安心でたまらぬ。

程ケ谷でH君に別れて唯一人東海道を下り始めた。途中で角田先生に会つた時には非常に嬉したつた。2人で東海道を下つて戸塚の宿へ入つたのは5時頃であつた。戸塚は実にひどく殆んど建物のすべてはつぶれてたヾ焼けぬばかりである。で又心配になつて来た。

鑓倉は猶びどいたも知れぬと思ふと歩くのがじれつたいやうな気がして来た。「鎌倉は如何ですね」と向ふから来る人に聞くと「鎌倉は全部つぶれましたね、それはひどいものです、今焼けて居るのですよ」と言はれる時には、泣くにも泣かれぬ悲しさが胸一杯になつた。家へ帰つて母でも居なかつたらどうしよう、しても学校へなんか、行つでは居られぬ、あれが友達の顔を会したのが最後であつたのか、これから先どうしよう、と思ふと体中血がとまる様であつた。

鎌倉へ入つて見ると、八幡前通は焼け長谷方面も焼けて居る様であつた。横丁の家は片側全部つぶれ他の側は全部半壊鎌倉屋の前まで来ると、関口の伯父さんが居たので「家はどうでしようね」ときくと「なーに何でもあれやしねいや、あれで6尺程でやつと3寸も曲つたかな」と何時ものどら声で、言はれる時の嬉しさと言つたら!!私等の筆ではとても書けない、鬼の首を取つた時の心持よりはもつとくずつと嬉しいのだ。小走で家へと帰つた。

関東大震災 機三 田中梅吉

噫々未だ考へてもぞつとする、あの大地震の恐しさは何人の頭からも永久に離れまいと思ふ。毎日僕等が学校のゆきゝに汽車電車の中で色々な人々が当時の恐しさを物語り合つて居る。実に大正12年9月1日と云ふ日は末長く恐怖を感じさせるでせう。

僕は当日暑中休暇が終つて再び学校に来ることになつた。其の前日迄何変つた事無く遊んで居て翌日待ちあぐんで居た学校に行つてあの大地震に逢はうとは夢にも思はなかつた、いや自分一人で無い何人でも知らなかつたのである。

若しもあの大地震が前もつて知れていたならあの何万人と云ふ人の尊き命も奪はれなかつたことであらう、又東洋に誇つて居たあの大東京市もあれ程迄にはならなかつたであらう。今思ふと惜しい様な恐しい様な感じがする。実に地震ばかりは文明も何も其の一端を防ぐに足らないことであると僕はつくづく感じた。

丁度共の日は翌日が210日で荒れると云ふ前日であつたものか、どうも変な天候であつた。

「僕は丁度学校が終つて横浜駅の待合室で伊藤君や林君と色々な話しをして、12時の列車を待つて居つた丁度正午時刻になつた頃急に足先の方がむくむくとする様な感じがしたので、はてなと思つていると、急に室の硝子ががたがたとやり出した。僕はやあ、地震だと言つていきなり傍の待合室の柱にかじりついた。

するとつかまるかつかまらない内にあらうとも思はれぬ程大きくやつてきて窓硝子は益々がたがたがたみりみりみり天井の方はみりみりがらがらとやり出し、ホームはめりめりめりめりと裂け家屋の倒壊する音や唸りの恐しさ。忽ちに四面は静かな海に瀧巻が起き大船が今しも呑まれようとし、乗客がきゝと云つて逃げまどひ出した。傍に居る2人のものはあはてゝホームから飛び下りた。

すると驚いたことに其所がいきなり分れて水道の水が噴水の如くに迸(ほとばし)り出た、又圍の石はどしどしと振り落される瞬間柱に色気もなくかじりついていたが、とても危くなつたので其隙をみて友達とよろよろとあわてふためきながらホームの大きな鉄柱にかじり付いた。すると又揺れてきて足元の方がみりみりと裂け出したので、此れは大変と思つて猿の様に柱に皆でのぼりついて居た。ホームに居た他の人々もあちらへかじり付きこちらへかじり付き目色を変へてまどうて居た。中には気の弱い女の人であらう、真青になつてホームの下へぶつたほれる人もあつた。

其の時の有様はたとへやうもなかつた。しばらくして少し静かになつたので、早く此の間に極く安全な所に避けようと言つて居ると、大勢の人達が安全と思つたのかホームから一寸離れたレールの方に行つたので、僕等も大勢の人の所がよいだらうと思つて其所へ早いで行つて一息ついた。其所でやつと自分にかへつた様な気がした。其の時あたりを見廻すと始めは夢中で気が付かなかつたが、今迄付近に丈夫に建つていた煉瓦造の工場や、人家、煙突などは見るも恐しく倒壊してしまつていた。其して其の下に人間がおしつぶされていた。

すると間も無く其の前のたほれかゝつた西洋館から急に黒煙が立ち揚つた。やあ火事だぞと言つている内に火の魔の手は段々と広がつて来た。もう其の時はさはぐばかりで防火につとめるところではなかつた。其の内に付近の人々はばらばらとレールの方へ逃げて来た。

どの人も皆顔色は無かつた。おかみさんが赤子を抱いて素足で飛び出してきたのもあれば年寄りが子供を背負つて逃げて来るのもある。其の中には怪我をして血まみれになつている人もある。忽にして其所ら一面は一ぱいになつてしまつた。其してまだ余震がチヨチヨイとある。ゆれる度にレールがギイギイ音をたて人々はほら又来たと言つて顔色が変る。

其して皆どうなることやらと心配して居る。僕も其の時は未だ家のことなどには考へが及ばず、唯其の時の自分の身だけについて心配していた。暫くたつと急に後の方が騒がしくなつたので何事だと思つて振りむくと又火の手が上つた。目の前の火事も段々と広がつて来た。とたんのはねる音くづれる音聞くも物凄たつた。あまり熱くなつたので居たまりかねて前の通りの方に出た。其所にも驚く程水道の水は濡水して一ぱいであつた。又電車が途中でおんどまりとなり自動車も走れなくなり、運転手は青くなりつてあちこちまごまごしていた。

又如何なる大火にも適すると云ふ文明の自動車ポンプも今は如何ともすることが出来ずおんどまりとなつている等実におしかへされていた。それで僕は又レールの方がよいと思つて元の所に来て形勢をうかがていた。未だ地震はちよいちよいゆれ、相変らずレールはぎいぎいと音をたてゝいる。又人々はゆり返しのことを心配している。其の内に驚くことにははるかの東の方が急に燃出しはじめた。其れで又火事の声が劇しくなつた。

成る人がライジングサンの石油タンクに火がつくと其れこそ大変だと言ふので僕等は急に恐しくなつて其所から保土ケ谷の方へ逃げ出した、どんどんとレール伝に人の泡立つが如き中をかきわけで保土ケ谷へといそいだ。其所らも皆人々は戸や布団や食物など担いでレールに避難していた。中には死んでるのか生きているのかわからないが血だらけになつた真青な体が布団に包まれて横になつている。

どの人もく皆心配さうであつた、少し向ふに行つて見ると又激しき焔に包まれて燃えているものがある。見れば今朝来る時迄厳然と立つて煙突からは黒煙がもくもくと立つて忙さうであつた工場である、今はもう如何ともすることが出来なかつた。やうくにして程士ケ谷に着いて見ればやはり同然てあつたが僕は家の事が急に心配になつて早く家に帰りたくなつたが、汽車は不通となつてしまうし、他に乗物はなし、其の上昼食は未だ食べなかつたし、心細かつたが此の位の事でと元気を出し友達と共に東海道を下り始めた。

<以下、略>