創立100周年記念誌 100年の足跡 5年制工業学校へ

創立100周年記念誌 100年の足跡 5年制工業学校へ

創立100周年記念誌「二渓の風に乗って」100年の足跡 5年制工業学校へです。

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実業学校令の改正と学則の改正

1920(大正9)年、実業学校令が改正される。大きな改正点は、従来の第一条の目的に「兼ネテ徳性ノ涵養ニカムヘキモノトス」と付け加えられたことである。併せて実業学校の規程も改正された。それによって今までは卒業後、同一種の専門学校に進学する資格を得ることができるだけだったのが、中学卒業と同資格で上級学校へ進学することができるようになった。(実施は大正13年から)それに伴い本校の学則も改正され、大正10年度より入学資格は尋常小学校卒業程度、修業年限5年の工業学校となった。すでに在籍している1~3年生は3~5年生に編入された。また、附属工業補習学校は本校から分離され県立工業補習学校と名を改める。しかし、独立校とはなったものの、1年間は夜間講座体制が続き、1年間の検討の末、翌年から初等部2学級、中等部4学級、高等部4学級からなる3部学年制が実施された。

校旗・校歌の選定と開校10周年記念式典

こうした新しい制度の下、1922(大正11)年に本校は開校10周年の節目を迎えた。5月1日の開校記念日に先立ち、校旗・校歌の選定が行われる。校旗は図案科教諭 杉山知多郎のデザインによるもので3月16日に制定された。

「奉校の校旗は大正11年3月16日を以て制定さる。此の年は恰も本校創立十周年に當り、同窓会の記念行事の一として寄贈せられしものなり。旗は塩瀬羽二重紫地に、単弁桜花に神工の二字を配せるを、金糸を以て刺繍し、且つ旗の三縁に金糸の總を附したり。而して其の巧緻なる標章と燦たる金色と高貴なる紫色とは互に相映発して典雅高尚の趣を呈せり。

さて、此の標章の意義を述べんに、桜花は大和心を象徴し、神字は神奈川県の神、工字は工業学校の工を顕現すること言を俟たず。然れども其の意匠には甚深の考慮を彿ひたり。即ち桜花と工字を浮出し、神字を蔵したること是なり。抑もこの神字は隷書くづしにして、其の一劃々々が働きて桜花を形造り、花蕊・花粉は勿論、この花弁までが神字の延長にてあるなり。さきに「桜花に神工の二字を配す」と述べたるも、實は神字さながらが桜花にてあるなり。されば一見しては神字無きが如く、而も仔細に点検すれば彷彿として顕現す。蓋(けだ)し神は神、又精神に通ずれば、其の玄妙幽韻の趣を表さんとて考案したるなり。因に此の標章は、本校の帽章をそのまま拡大して用いたることを附言す」(「校旗の由来」 教諭 三井恵文 昭和15年7月25日発行 渓苑8より」

創立10年目に制定された校旗 創立10周年記念祭
当日の玄関
(当時の校舎は全部木造平屋建て)
創立10周年記念祭
家具科展示室

創立10周年(大正11年)記念祭当日の本校正玄関

創立10周年記念祭 家具科展示室

また、校歌は国語科教論 浦井喜久造の作詞、後に文部省最常唱歌作曲委員として「故郷」「おぼろ月夜」「春の小川」などを作曲する岡野貞一の作曲により同年4月23日に定められた。歌詞の解釈については「創立80周年記念誌」に掲載された第4代校長副島一之「駅樹声なく…」講に詳しい。

「駅樹声なく…」講

(一)駅樹声なく…

1500年前の日本が律令国家に成長した時から江戸幕府の終わるまでをこの一行で表す。天智、天武、持続、文武天皇(671~701)の約30年の間に、近江令から大宝律令まで、つまり原始日本が律令国家として態勢が整うまでになった。それで中央から7道の大動脈路(国の生命線を通じて政府から各国府への役人の往復、 命令の伝達に大量に馬が必要になりある距離毎に常時多くの乗り次ぎ用馬を常備する「駅亭」があって宿舎にもなり、また書簡物品を逓送する「郵亭」が置かれた。

近世では東海道五十三次のような宿場本陣等があり、大名の参勤交替などの宿舎人足や馬匹や物資の調達をした。

1番の第1行、第2行は国の生命線を護った駅亭も郵亭も泰平の夢の中に古びてきたその折も折、神奈川のはるか沖に黒船に目を覚まされて、にわかに西欧の文化の波に浴する日本、中でも重要なこの横浜の地に建ったわが学園。

(二)開けゆく世の…

「ジュースの神」はデウスの神、最高天地万能の神、ローマのジュピターと同じ。

(三)天与の使命…

「青雲高く」はかっては「青雲の志」を抱いて地方の青年が都に上った。将来、身を立てて青空の者の如く高く超えた大人物に成りたいと、その青雲。

「二渓の花」渓は谷、学校の辺りは東と西の二つの山にはさまれた谷になっている。この谷を「二ッ谷」と昔から言っていた。今は平川町通りの名。東西の丘も、その間の渓も桜の花でいっぱいだった。もちろん校庭も校舎工場の回りもみな花でおおわれていた。

開校10周年を迎えた同年5月1日から3日間、校内を開放して生徒の成績品展覧会と製作品即売会が催された。観覧者は延べ10,978人にのぼり、1日の夜には「元素の話」「銑鉄と鋼の話」「明治天皇の偉業」といったテーマで講演会が行われている。

関東大震災

1923(大正12)年、関束一帯は大きな震災に見舞われる。関東大震災である。

「午前11時58分、突如として遠雷のような大浪の押し寄せるような鳴動を感じた。この異様な音に聴耳をたてる間もあらず、激烈な上下動は上下も水平もないあらゆる震動をごっちゃにしたような一大激動となった。教員室に居た先生方は無意識に飛び出した。飛び出すといっても普通に駈け出したわけではない。まるで電気にかかったように体の自由は奪われ歩くことも這うことも出来ず、もがきながら出たわけだ」 (50周年記念誌 「17年間の想い出」)

当時電気科教諭として勤務していた吉田甫十は、当日の様子をこのように振り返っている。当日は2学期の始業式に当たっていたため、大方の生徒は学校を後にしていたが、帰宅途中に被災したものも相当数あった。それでも、人的被害は生徒の犠牲者1名、教職員に死傷者はなく最小限にとどまった。

しかし、校地と校舎の被害は甚大であった。校舎の周囲は至る所で泥水が噴出し、テニスコートのあたりには直径10メートルほどの穴が開いた。生徒食堂は倒壊し、本館の階段は地中にめり込む。講堂の土台周りには大きな亀裂が生じ、内壁の石膏もほとんど剥がれ落ちてしまった。正門の門柱は、一本が転倒している。学校周辺の被害も大きく、あちらこちらから上がった火の手は学校近くまで迫るが、幸い本校校舎への廷焼は免れた。このような状況の下、授業は8日まで休止を余儀なくされる。

倒れた門柱 波打つ玄関付近 つぶれた生徒食堂

この震災の直後に、「朝鮮人暴動」「富士山大爆発」等の流言が広がった。そのため、水野内相は戒厳令を施行する方針を決める。震災による混乱を防いで人心の安定と被災民の救護をはかるために軍隊の力を借りるという、いわゆる行政戒厳であった。陸軍は2日から3日にかけて東京地区への配備を終え、孤立していた横浜地区にも3日から4日のあいだに海陸両路から警備隊が到着した。本校寄宿舎は警備隊として派遣された佐倉連隊の駐屯所となった。

生徒や卒業生による、震災に関する生々しい記録は、「震災記念号」としてまとめられ翌1924(大正13)年8月に発刊されている。

被災した校舎の復興も進み、1926(大正15)年10月には本館の改築工事が完成する。木骨鉄網コンクリート2階建ての校舎には、工費約100,000円が費やされた。本館以外の校舎の改修工事も1927(昭和2)年11月には完了した。

高柳健次郎・川喜田煉七郎 多彩な教師陣

このころの教師陣に、後に世界的に知られる業績を残した人材がいる。1921(大正10)年の春、東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所を卒業し、本校電気科の教壇に立った高柳健次郎は、後にブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功させ「テレビの父」と呼ばれる。

「卒業後は適当な題目を撰んで一心に勉強して、10年か20年後には世の中のためになる様になりたいと思った。そこで、それには題目を探し且つ勉強ができるところに居たいと思って、母校の秋保先生にお願いして、東京に近い神奈川県立工業に奉職させて頂いた訳である」(50周年記念誌「懐しい神工時代の思い出」)

というように、高柳は教鞭を執る傍ら、外国の文献を読むために、ドイツ語フランス語の勉強や、当時アメリカを始めとして研究が開始されていたラジオの勉強などに励んでいた。そんな祈、後の功績につながるきっかけは偶然に訪れた。

「それは大正12年の初夏のことであった。私は前述の様に、山下町のフランス領事館でフランス語の講習をうけて、海岸通りを歩いて帰った。ある外人の本屋の前を通ったときに、店先のフランスの雑誌のポンチ絵に、テレビに関する未来図がかいてあった。ラジオの四角な箱の上に額縁があり、その中で女の子が歌っている図である。そしてその表題に”television”とかいてあった。私はこれだと思って、これを研究することに決心した」(50周年記念誌「懐しい神工時代の思い出」)

高柳は、その後故郷の浜松に新設された高等工業学校に助教授として転任しテレビの研究に取りかかると、1926(昭和元)年、ブラウン管による電送・受像に成功する。

1924(大正13)年、まだ震災の傷跡も癒えない校舎に建築科の教員として着任した川喜田煉七郎は、東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所では音楽部に所属しており、本校でも建築史の講義の他に、音楽も教える芸術家肌の人物であった。川喜田と同窓で、新任教師として川喜田と同年に本校に着任し、後に4代校長となる副島一之は、当時の思い出を次のように記している。

「建築の君は私と同窓で音楽部の重鎮だっただけに、神工でも音楽を教えたり、建築史の講義を受持っては、いつまで経ってもギリシャローマの神話に足踏みばかりしていると生徒から文句をつけられたり、天才型の奔放な情熱家だった。三人それぞれ若い勝手な熱を挙げて、表現派の絵画や映画のこと、築地小劇場のチエホフのこと、ドイツの民主社会主義のことなど話し合うのだった」(50周年記念誌「38年の回顧」)

川喜田は短い期間で本校を去るが、1931(昭和6)年、ソビエト・ウクライナの大衆劇場建築設計競技で4位に入賞、その後、世界的に活動し建築界にその名を残した。

軍事教練の開始

1925(大正14)年4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布され、この年から現役の配属将校による「軍事教練」が始まる。学校に現役将校が配属され、生徒に直接指導を行うことについては、当然全国的に反対・抵抗の動きもあったが、本校においては、それまでも「兵式体操」の名称で訓練が行われ、前述のように年―度の「発火演習」等も行われており、心理的抵抗はそれほどなかったようである。とはいえ、現役の将校が学校に配属され、生徒の指導に当たるということは大きな状況の変化であった。

戦前から商業デザイナー、絵本作家として活躍し、50代半ばで取り組んだ「ファーブル昆虫記」の絵本をきっかけとしたライフワークから、「日本のプチファーブル」といわれた熊田千佳慕(本名:熊田五郎)が、1924(大正13)年図案科に人学している。幼少時は病弱で、学校嫌いだった熊田も、工業学校時代は野球、テニス、陸上などに夢中になり、特に1番・ショートのレギュラーを得た野球には熱中したようである。こうして充実した学校生活を送る中、おっとりと育った熊田は、軍事教練にだけには馴染めなかった。しかし、最終学年の秋の、こんな体験が後の「熊田千佳慕」を育てることになる。

10月の中旬、富士山の裾野で、発火演習が行われました。

例によって、学校を出るときは、ラッパを先頭にかついでの行進です。今回は、図案科も三八式の新しい銃をかついで格好よく、大満足。汽車で富士山に向かい、滝ケ原の演習場に到着しました。裾野は、すっかり秋色に彩られています。長い家屋の兵舎で軍装をとき、演習がはじまりました。

今日はいつもの演習とはちがって、銃には火薬の入った空砲を使用します。音だけですが、たいへんな衝撃。ボクはこの音が苦手で、弾は友だちにあげ、自分は空っぽの銃でのぞみました。

最後のイベントは、敵軍が小高い丘陵に陣をかまえ、この敵陣を占領すべく、総攻撃。味方は左右に長く広がり、発砲をはじめます。ボクは耳をふさいで、目の前の草むらをながめていました。

銃火のはげしい音も耳に入らず、目の前には、ただ静かな草むらがあるのみ。秋なので、コオロギなどが、チョロチョロ目の前を行き交います。ここだけは、静かな平和が流れていました。

茫然とそのシーンに見とれていたとき、突撃の号令がかかり、みんなは銃に剣をつけ、敵陣目がけて走りだしました。ボクが気づいたときには、もう誰もいませんでした。

あわてて飛び出そうとしましたが、いまごろのこのこ出ていけば、教官から大目玉をくらうことは必至。とっさにボクは芝居気を出し、銃を杖にして、片足を引きずりながら、ヨタヨタと歩きはじめました。

教官はおどろいて、

「熊田、どうした!」

そこで五郎君、

「実戦では、こんな兵隊もいると思いまして…」

教官は感動して、「よくやったぞ、熊田」とほめてくれました。

この件で、教練の成績は甲に。「芸は身を助く」といったところ。

演習は、アクシデントもなくおわりましたが、このときボクは、生涯にかかわる大きな啓示を、神から授かったのです。地面にはいつくばって草むらをみつめているとき、これが虫の目で見た天国だと感じました。このとき、神様から「虫の絵は、虫の目の高さで描く」という画法を授かったのです。

これは、のちにライフワークとなる、『ファーブル昆虫記』の絵画化の仕事のポリシーになりました。(熊田千佳慕著「横浜ハイカラ青年記」 フレーベル館 より)

中山機械科長殉職

1929(昭和4)年、職員の殉職という悲しい出来事が起きる。機械科長だった中山秀道教論が、機械据え付け作業中に梁から転落して死亡するという事故であった。

「機械科長で小柄な坊主頭に曲がった眼鏡をかけ、片足を少し不自由に歩く、それで柔道もやる。禅坊主のようで、大変頭の良い、そして勉強家。人なつこい中山さんは私の好きな先輩の一人だった。機械据付け中、梁の上から墜落して亡くなられたときは全く悲しかった。藤原義江のレコードを愛していた」(50周年記念誌「38年の回顧」4代校長 副島 一之)

1920(大正9)年の着任以来、本校の発展に尽くし、また後輩職員からも慕われた機械科長は、学校葬を以て送られた。

世界恐慌と就職難

第一次大戦による「大戦景気」で、日本の工業生産額は鉄鋼・機械・造船・電力・化学等の重工業を中心に大幅な伸びを見せ、この間に農業生産額を上回るようになる。しかし、まもなく戦後恐慌、そして関東大震災の被害に続く1927(昭和2)年の金融恐慌、さらに1929(昭和4)年、ニューヨークウォール街の株価暴落に端を発する世界恐慌は、1930(昭和5)年になると日本にも波及した。そして、その影響は本校でも深刻であった。特に卒業を控えた生徒の進路の問題に関して、それは顕著に表れた。

開校以来、高い教育内容で評価され、産業界に多くの人材を提供してきた本校には、職員生徒ともに、一中二中にも負けぬ」というプライドがあった。とはいえ、この不況下での就職運動はさすがに困難を極めた。例年就職先には恵まれていた機械科・電気科でさえも、1929・30(昭和4・5)年の2年間は何とか凌いだものの、1931(昭和6)年になると、卒業時に就職が決定している生徒が卒業予定者の半分以下という有様だった。

「戦後恐こう時代と昭和4年世界経済恐こう時代と不況時代には(秋山)先生もずいぶん就職のことでご苦労されたことと聞きました」(50周年記念誌「50年5月の空はかはりなし」 旧職員 岡田義裕)

秋山校長自ら生徒の就職先の開拓に奔走する日々であったようだ。当時、本校では5年生の担任は各科の科長が担当しており、業界とのつながりにも責任を待ちながら、生徒の就職に関する面倒を見ていたので、この時期の担任の苦労は相当なものであったという。

昭和6年・創立20周年記念行事・公民科の新設・満州事変

1931(昭和6)年、本校は創立20周年を迎えた。5月I日から3日にかけて記念行事が行われる。創立10周年の時と同様に、生徒の成績品展覧会と製作品即売会が催され、16,601名の来校者を数えたとの記録がある。ただし、不況という時節柄、潤沢な予算は望めなかった様である。

「5年生の時20周年にぶつかったが、良いアイデアと予算がなくて弱ったことを覚えています。しかたなく裏山から笹をきりとって来て、旋盤工場に植えたりしたものです」(50周年記念誌 同窓会座談会)

機械科12回卒業の関根仁三郎の述懐である。

同年9月18日、満州事変が勃発するが、このころから、日本の産業は重工業・化学工業を軸として軍需産業へと進展していく。それに伴って就職難は解消していくが、同時に学校にも軍国主義が影を落とすようになる。

「公民科」という科目が実施されるのはこの年からである。

これは、それまでの「法制経済」に代わって「憲政自治ノ本義ヲ明ニシ日常生活ニ適切ナル法制上経済上並ニ社会上ノ事項」を教育することを目的として新たに設けられたもので、その後、軍国主義の台頭と天皇機関説問題をきっかけとして1937(昭和12)年に改訂が実施されると、教育目標として「我ガ国体及国憲ノ本義特ニ肇国(ちょうこく)ノ精神及憲法発布ノ由来ヲ知ラシメテ以テ我ガ国統治ノ根本観念ノ他国ト異ル所以」を明確に掲げることとなった。現在行われている「公民科」が目指す近代的市民育成の方針とは異なる、帝国臣民育成理念を前面に出したものであった。

創立20周年記念 野外売店 電気科製作販売室
創立20周年記念 余興 交友会誌 二渓苑

実業教育50周年記念式典

1934(昭和9)年秋、実業教育50周年を記念する様々な行事が全国的に行われた。「実業教育50周年記念要綱」に「実業教育実施ノ起算点ニ関シテハ種々ノ観方アルベキモ、農業教育ニ就キテハ明治17年商業学校通則定メラル。又工業教育ニ就キテモ其頃既ニ東京職工学校設立セラレ居タル等ノ沿革ヲ鑑ミ是等ヲ総括的ニ実業教育諸制度確立ノ出発点卜考ヘテ概ネ50周年卜算定ス」とあるように、実業教育の起源をどこに置くかについては様々な考え方があり、必ずしもこの年が実業教育開始から50周年というわけではない。それでもこの年にこうした行事が行われたのには、実業敦育の振興をはかろうという、国策上の意図もあったことと思われる。

本校では10月27、28の両日にわたり、記念式典を行うとともに校内を一般開放し、設備や実習の状況、生徒の成績品を観覧に供し、製作品即売会を行った。この時の来校者は延べ15,000人に及んだと記録されている。

また、神奈川県の行事としては、10月30日午後1時から、開港記念会館に文部省菊地実業局長以下来賓を迎へて『実業教育50周年神奈川県記念会』の記念式が行われ、実業教育功労者7名が横山知事から表彰される。このとき、本校校長秋山岩吉も、渡漫たま子、唯野真琴、松浦吉松、石井伴七、安藤為次、福田縫太郎とともに表彰されている。

夜には、市内各実業学校学生々徒約5,000名が参加して、横浜公園から伊勢山皇大神宮まで、自動車や音楽隊を交えた大提灯行列が行われた。

校友会誌「二渓苑」の発刊

この年、校友会誌「二渓苑」が創刊されている。それ以前から既に、有志の間では同好会誌的な文集が発行されるような雰囲気が校内にでき上がっていたようで、創刊号に記された発刊の辞によれば「文技を競う」場として「待望久しい作文集」ができ上がったということになる。

発行所は「神工会学芸郎」となっており、印刷は藤沢の三光印刷所によるものであった。表紙の題字は秋山校長の揮毫、装丁は図案科の安藤良弘教諭(2号まで。3号以降の表紙は無地となる)、編集には国語科の尾崎恒雄教論があたった。内容は、校長の巻頭言に続き、随筆、記事、論説、作文、韻文等から構成されており、作文以外は教員と生徒の作品が並んで掲載されていた。

5号からは動植物の採集、実験記事等もみられ、6号からは校友会各部の報告も掲戴されるようになった。1939(昭和14)年発行の7号、1940(昭和15)年発行の8号には時代を反映して箱根報国寮での宿泊訓練や、富士裾野での演習の模様を綴った生徒作文が掲載されている。

戦前のクラブ活動

戦前に組織されていた「校友会」は、クラブ活動を中心として構成されたもので、体育関係では剣道・柔道・弓道・陸上競技・野球・庭球・龍球(バスケットボール)・排球(バレーボール)・蹴球(サッカー)・水泳、文化関係では音楽部・喇戦鼓笛隊、園芸部、談話会、史学研究会、書道会があり、文化関係の部は一括して学芸部と呼ぱれていた。

過去の記念誌から当時のクラブ活動の様子を拾ってみる。

「生徒が己の趣味、性格、体力等によって自分に適した好きな運動が選べるようにいろいろな種類の運動があってもよいと考えて弓道部を創設する事に努力した。大射教場の創始者阿波見鳳先生は仙台の方であったが特に神工道場に見えて直接指導された事もある。弓道部員は実に真面目でよく練習を怠らなかった。弓道部に入ったら学力も共に向上させることが信条でなければならないと石川先生は口癖のように部員に諭された。当時の弓道場は運動場の東横線寄りに的場と射場があり夜間でも練習出来るよう電灯がつけられ射程も規程の十五間、県下に誇る堂々たるものであった」(50周年記念誌「17年間の想い出」 旧職員 吉田甫十)

創部当時の弓道部の様子である。

当時「徒歩部」の名で呼ばれていた陸上競技は、部の選手であるなしを問わず盛んで、昼休みには校庭で一般生徒が走り高跳びをする光景も見られたようだ。そんな中から、庭球部であった木材工芸科の豊田克文は4年生の春、各区対抗槍投に出場し、優勝したことをきっかけに陸上競技で活躍することなる。

「手始めとして5月5日上井草で行われた関東学連主催の関東中学校対抗陸上競技で槍投に優勝し全く思いがけぬ喜びを昧わいました。その後、弘明寺の高工主催関東中学校大会に出て、雨中、当時の日本的選手栗原(伝)、吉沢、鎌師の加藤君と争い見事一位となり、一躍神工の名を関東に知らせる事が出来ました」(50周年記念誌「徒歩部の想い出」 木16豊 田克文)

豊田はその後東京電燈に就職し実業団大会で活躍したのち、早稲田大学に進み陸上競技を続ける。

1924(大正13)年創部された野球部は、1935(昭和10)年に初の県代表となる。後に神工球児として初のプロ野球選手になった桜井七之助は左腕の本格派で、藤沢中、日大四中、神奈川二中を連投で破り、決勝戦では小田原中を下して県大会優勝を果たす。本校野球部は県下中等学校17校の頂点に立ったのである。このとき球場から学校まで、優勝旗を先頭に徒歩で凱旋し、その後図書室で祝賀会が行われる。しかし、当時は甲子園出場には甲神静大会を勝ち抜かなければならない。本校応援団は自転車で笹子峠を越えて山梨へ駆けつけた。甲府市県営球場で行われた大会で、韮崎中、静岡中を下すものの、決勝戦では甲府中に5対4で敗れ、惜しくも甲子園出場を逃した。仝国大会への出場はならなかったものの、戦前戦後を通して本衿野球部が唯一県代表となった記録である。

1935(昭和10)年には、前年に生まれた生徒のサークルが「青史」という機関誌を創刊している。これは1943(昭和18)年までに9集が発行されている。

工業補習学校、工業青年学校となる

1935(昭和10)年、青年学校令が公布され、本校に併設されていた工業補習学校は神奈川県立工業青年学校と名称を変える。従来、実業補習学校は、尋常小学校における初等教育諜程6ヵ年の義務教育期間修了後、高等小学校、中学校、実業学校などの中等教育に進学せずに仕事に就く青少年のための教育機関として設けられていた。一方これとは別に、16歳以上の勤労青年男子を対象とし、労働の合間の余暇に修身及公民科、普通学科、職業科、教練科を教える教育機関として、青年訓練所が存在した。これらの教育機関を統合・拡充しようとした結果生まれたのが、青年学校である。青年学校令によれば、尋常小学校(のち国民学校尋常科)卒業者を入学資格とし修業年限を男女とも2年とした「普通科」、普通科修了者または高等小学校(のち国民学校高等科)卒業者を人学資格として修業年限を男子は5年、女子は3年とする「本科」(地方によっては1年の短縮を認められた)のほか、本科修了者程度を前提とする修業年限1年以上の「研究科」や、修業年限に規定のない「専修科」を設置するとされているが、本校では当分の間、従来の補習学校初等部を普通科、中等部を中等科、高等部を研究科と改称するにとどめた。翌1936(昭和11)年には普通科の募集を停止し、学則が改正され本科と研究科となった。

秋山校長退任・山賀校長着任

1937(昭和12)年、秋山校長が退職し、金沢市立工業学校から、山賀辰治が第3代校長として着任する。同窓会の設立にも尽力し、初代同窓会会長でもあった秋山校長の勇退は、各万面から惜しまれたが、新校長は精力的に学校を引っ張っていさ、戦中・戦後と激動の時期、本校の舵取りを担うことになる。

「新任の山賀校長はファイトの塊のような、力の人に見えた。時代が非常時色強く、工業教育界の積極策がとられる国策にも合って、どしどし新しい構想の実現に乗り出した」(50周年記念誌 38年の回顧 副島一之)50周年記念誌に掲載された山賀校長の談話筆記を引用する。

「何分にも前任の秋山先生がご老今だったので、私がずいぶん若い印象を与えたもののようです。そういえばあの頃は私も若かったものです。いつも困ったものはやはりお金でした。

何をしようとしてもこれには弱りました。これはいつも変わらないようですね。今でこそ実習機械は国産品を使っていますが、当時はみんなイギリス製やドイツ製でした。イギリス製はじょうぶで長もちがよくてよく使われました。ほんとうに実用的です。度量衡もイギリス式です。舶来か和製かが機械をみるとすぐわかったものです。そんなわけで実習機械は当時の会社工場の水準をいっていたわけです。戦時中木材工芸と図案が廃止になったときは、身をきられるような思いでした。そういえば戦争も終わりの頃、女子の生徒をとりましたがそのために女の先生を一人採用したことがあります。戸塚の綜合実習工場では苦労しました。機械はわずかに待避しておいて焼失をまぬがれた電気科のものを、もっていって利用しました。また藤沢の東京ラシ(螺子)の工場の機械が賠償指定になっているとか何とかいうのを、うまく出してもらって大変たすかりました。そうして何とかあそこまでこぎつけたわけです」

終戦直後、進駐軍に接収された校地の一角で学校を守ったのも山賀校長であった。