創立100周年記念誌 100年の足跡 戦時下の学園

創立100周年記念誌 100年の足跡 戦時下の学園

創立100周年記念誌「二渓の風に乗って」100年の足跡 戦時下の学園です。

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2部の設置・学科の増設・第2、第3本科の設置

1937(昭和12)年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が全面化する。それ以降、終戦までの間、国家の要請を受けて、学校も目まぐるしく変化を繰り返す。

まず、この年10月から学則の一部が改正され、中学校卒業程度を入学資格とした第2部が新設された。機械・電気の2科が置かれ、修業年限は1年。1931(昭和6)年の満州事変勃発以来、工業界はそれまでの沈滞状態を徐々に脱しつつあったが、1937(昭和12)年の日華事変をきっかけに軍需工業は急激に拡大膨張した。それに伴い機械、電気等の技術者の需要が大幅に増加し、下級技術者の供給不足が生じたことに対して、短期養成を目的としたものである。初年度に限って修業期間は翌3月までの6ヵ月、とりあえずは施設的に収容する余裕もなく、食堂が仮の教室となった。

中学卒業の年上の生徒たちは、本科の生徒たちには異質に映ったようである。翌1938(昭和13)年には機械科の一部が分離し精密機械科が新設される。同時に従来の家具科が木材工芸科と名称を変更している。6月には県立青年学校教員養成所工業科が本校に設けられた。1939(昭和14)年4月には工業青年学校本科を5年制から4年制に移行し修業年限を短縮する。ただし図案科だけは修業年限1年の研究科を残した。

1940(昭和15)年4月からは、これまでの本科が第1本科となり、入学資格、修業年限ともに第1本科と全く同じくする第2本科が新設された。学科は機械・建築・電気の3科であった。さらに、人学資格を高等小学校程度とする、修業年限2年の第3本科(建築科のみ)がおかれる。

「世界情勢が次第に緊迫の方向に進み始め、技術関係の要員特に建築部門に対する要求が急激に増加したため、その要求を満たすべき一翼として第三本科建築科が新設されたように記憶しております。当初は仙波先生が中心となり、その下に坂口先生が最初の学級主任として指導運営がなされました。生徒諸君は豊かな個性の持ち主が多く、或種の豪傑もおり、年齢的にもまちまちで、指導には幾多の困難が伴ったようです。第一、二期生はおよそ20名前後でしたが、第三期以降は40名前後となりました」(50周年記念誌「第三科建築科について」建一‥‥]・旧職員 若狭一男)

こうして、生徒の定員は1。570名にふくれあがる。収容Tるに十分の教室を確保することも難しくなっていったため、?むなく時差式の授業が実施された。前年4月には神奈川県立第二工業学校(平塚工業学校、平塚工業高等学校を経て、現神奈川県立平塚工科高等学校)が本校に開校し、この年5月1日をもって平塚に移転しているが、翌年に、今度は神奈川県立田崎工業学校が本校に開校されるという目まぐるしい有り様fあった。いずれも、軍需工業の発展に伴い必要に迫られて施きれた工業学校の拡充策によるものである。

報国団の結成と勤労作業

1938(昭和13)年4月、国家総動員法が公布され、6目には、神奈川県が県下の各中等学校に対して、学校報国団を故成するようにとの指示を出す。これに従って本校ではそれまでの校友会を改組し、次のような学校報国団の祖織を作った。

団長 校長

副団長 教頭

参 与 配属将校

総務部 企画 報道 工作 庶務 会計の各班

訓練部 修養 勤労作業 救護の各班

体操部 剣道 柔道 弓道 陸上競技 水泳 器械体操 野球 庭球 蹴球 排球 龍球 遠足 養護 角力の各班

文化部 図書 書道 絵画 立曰楽 談話 朗詠 地歴研究 物理研究 化学研究 航空工学研究 無線工学研究 園芸の各班

国防部 国防競技 防空 防諜 滑空 乗馬 射撃銃剣 銃後奉公の各班

それぞれの部には部長、班には班長と監督が置かれ全ての教職員が配置された。

県が示した報国団の具体的活動内容の例は、生徒の集団訓練、勤労作業、出征者傷痍軍人及び遺家族の慰問・援助であった。学校では白幡池の上にある通称地頭山という丘の上の土地を借り受け、教職員生徒総動員で開拓し、実習農場を作った。当時土地の借り入れの交渉にあたり、農場班長を務めた国語科教論三井恵文は、農場での勤労作業の模様や、農場視察官が来校した際のエピソードを次のように綴っている。

「農業の経験もない私に農場班長が命ぜられ、一丁(町)ニ反歩の中百姓になったり、工業の生徒が農業学校のまねをしたり、実におかしなものだった。(中略)

農場の作業は大体午後から行ったように記憶している。夏の炎天下や冬の寒風やあまりいやな記憶は残っていない。私が農場で段取りをして待っており、付添の先生が一人か二人、生徒5、60人の一隊を引率してやって来る。一隊には荷車が2、3台、それには下肥の桶やら農具類が積まれている。下肥は岡の下から生徒2人宛で天秤棒でかつぎ上げられる。こんな仕事でも生徒達は愉快そうにやっていた。(中略)

戦争が醒になって来ると、花畑にも野菜を植えろ、庭園なんて贅沢だなどやかましくいわれ出した。山賀校長も農園花壇も惜しいがやめなければなるまいか?と遠慮がちにうながされたほどだった。「日本中の花壇を全部やめたら花の種はどうなる。」そうまでは考えなかったが兎に角私は惜しいことだと思った。この花壇は農園の入口にあり広さは30坪、私の庭の全部、学校にあったものや色々苦心してあつめたものだ。ダリヤ・カンナ・ひまわりなど四季それぞれの花が咲いた。

やがて県の農場視察官が2人やって来た。予告より時間が遅れたので生徒はかえしたあとだった。いやでも花壇が目にとまり一寸不審そうな表情がうかがわれた。私の方から口上を切って「校長からは度々注意されたこと、視察官の意向をきいてからでもとりこわしはおそくないこと、只今は教室にも花がなく潤いに乏しいこと、情操教育の必要なこと」などいろいろ話しているうち、お互いうちとけ、つい黙認ということになってやれやれ」(50周年記念誌「回顧談」)

富士裾野での軍事訓練 箱根報国寮

1939(昭和14)年には、箱根旧街道「畑宿」に「箱根報国寮」が完成し、心身の鍛練=錬成と称して宿泊訓練が行われるようになる。県下の各中等学校から代表生徒が参加したり、学校単位で利用されることもあった。作業の内容は、寮の庭を整備するための石運びや薪割り、炭焼き、植林などで、夜になると精神訓話を聞くことになっていた。本校でも報国寮を利用した宿泊訓練が行われた。当時の訓練の模様を1939(昭和14)年発行の二渓苑7号から引用する。

(午前五時起床、5時~5時半清掃洗面)

静粛な山間の空気を破って突然けたたましい板木の音、さあ愈々今から今日一日の活動の火蓋が切って落とされるのだ。班員こぞって蒲団をけって飛び起きた、直ちに窓を明けはらい、夜具を所定の場所に収める。外は未だ真暗だ。寮内外の清掃に取りかかる、各自持場の清掃に余念がない。無言の中に忽ち寮内を磨き上げ、終えて洗面所へ、冷水にて顔を洗ひ寮庭へ出る。朝の空気が冷ややかに頬にふれる、此の頃東天漸く白み周囲の山容も鮮明に成る。(5時半~6時半朝の行事)全員整列朝の点呼、国旗掲揚、君が代の奉唱と共に国旗に注目する。日本国民としての言い知れぬ感激が切実に感じられる。皇居及び伊勢大廟に対し奉り温拝、又思ひを遠く戦場に馳せ勇戦御奮闘下さる皇軍将士の武運長久を析願、併せて陣没将兵の冥福を祈り静かに黙祷する。

終へて鉢巻姿も勇ましく木剣を正眼に構へ「お面!・お胴!」と一振り一振り腹の底からしぼり出す様な気合いと共に敵よ真二つになれとばかり打ち込んでいく。次に建国体操、一挙手一投足を攻撃的精神に燃え突き上げ打ち下す、続いてマラソンだ、「よいさ!こらさ!」の掛声に山を只下る、往復15丁程の山道も帰りの上りは苦痛だ、頭にぽっぽと湯気を立てて寮へ帰る。まもなく静座だ、「ぱちっ、ぱちっ、ぱちっ、」

三つ目の拍子木で無念無想の境に入る。やがて拍子木の音に現実の世界へ呼び戻される。(午前6時半~7時朝食)板木の音に班員各班室前に整列行動へ向ふ。全員着席一瞬静寂、…寮長殿の「神前」の号令で正面の神棚に対し敬礼、厳かな食事訓をとなへ箸を取る、一汁一菜、一粒飯に万の恵みを噛みしめて戴く。終始感謝の中に食事を終へ食後の食事訓を唱へて後食器を洗ひ膳箱に収め各班室へ帰る。

(7時~8時講話)講堂へ入り寮長殿より森林洽水事業に関する講話或ひは勤労作業に関する予備知識のお話等あり、森林洽水事業の重要性を自覚し、同時に其の事業の一部を担当し少しでも国家の為になると思ふと実に愉快だ。講話も終へて出発準備に取りかかる。地下足袋、ゲートルで足拵もしっかりとリュックサックを背に寮庭へ整列点呼、「班の国旗を迎へ」の号令に旗手は自己の班の国旗を持参する、一同国旗に対し注目、愈々出発だ。

先づ「至誠奉公、質実剛健、規律節制」と力強く寮訓を唱へ、各自作業道具を肩に国旗を先頭に足並みも軽く今日一日の勤労の希望に胸を躍らせて、颯爽として目的地に向ふ。「勝って来るぞと勇ましく::」露営の歌を合唱しつつ働くことの喜びに、期待を持って勇躍前進する。五班が半分に分かれて二郎は峻厳な山道を蹟渉一時間半にして県有林に達し、此処に於て防火線の下苅作業を行ふのだ。

相模湾を一眺に収め相模平野を眼下に見る景勝の地だ、雑草を次々に大鎌でなぎ倒して行く、国旗のもとに全員汗みどろの勤労奉仕は着々と其の実績を上げて行く。他方、沢に下りた班は荒廃林地の復旧事業に参加するのである。寮より30分にして到着、国旗を中心に砂利採集、運搬或は堰堤床掘作業に班員一致協力の中に孜々として倦まず献身的努力を捧げる。斯くして一日の勤労奉仕を終へ各自其の責務を遂行し得た喜びと明日の希望に燃えて寮へ帰って行く、「見よ東海の空明けて」愛国行進曲の合唱に疲労を忘れて帰路を急ぐ。

寮に帰着、順次各班毎に入浴砂塵を落としつつ今日一日の出来事を語り合ふ。僅か10分間ではあるが和やかな一時だ。(午後五時~六時)夕食を終へて始めて白由な時間が来る。家へ、友に、嬉しい便りを書く、或る時は名士の御講演に耳を傾け感銘し、又寮長以下膝を交へての座談会、八時静座静かに一日を反省する終つて点呼、就寝八時三十分消灯。斯くして行に始まり行に終り感謝に満ちた一日は終る(「箱根報国寮生活の一日」電気科 大工原 光夫)

富士の裾野に出かけての軍事演習は以前から行われていたが、1940(昭和15)年発行の二渓苑8号の目次に「富士裾野演習日記」「報国寮生活所感」「勤労作業感想」等の題名が見られるのは「皇紀2600年」とされたこの年の世相を反映してのことであろう。

演習日誌に当時の演習の模様をうかがうことができる。

6月10日(土)晴

5時起床武装をして家を出発6時25分頃横浜駅着整列点呼ありて後暫く休む。車中で何処かの重砲隊の兵士と一緒になり種々話をきく。御殿場駅より浅間神社に参拝、昼食、是れより警戒行軍、割合近かった。廠舎着後内務班の編成あり。夜は夜襲の動作、僕は仮設敵となり空砲を打つ。帰営後九時点呼、それより少し銃の手入れ、9時消灯、直ぐ眠れた。

6月11日(日)曇

五時半起床。洗面等をし6時より点呼、中隊長発声にて軍人勅論の奉唱、建国体操、午前中は高地の敵を攻撃し最後の突撃の時はもう殆どフラフラであった。それより再び方向を変へて戦闘訓練を行った。もう無我夢中で突撃し午前の教練は終り帰営した。午後は廠舎の直ぐ前で狭窄射撃を行った。僕は一番先に射った。距離15米、爆音板を貫き後の土にめり込む弾丸の音、実に何とも云へない良い心持ちだ。空気銃とは大分感じが違ふ。3時半頃帰営、5時頃入浴、夜になってから雨が降り夜間の演習は中止、軍人勅論を暗記した。8時半消灯教官が来られて誰か注意をされていた。

6月12日(月)雨

午前1時半起床し不寝番となった。相当寝相の悪い者がゐる。2時半交替再び寝た。午前8時より細雨をついて両軍に別れ戦闘、吾々は白帯をつけ清水少尉に引率され台地の敵を攻撃す。ズボンはずぶぬれになった。これを終ってから駒門名物の風穴を見学す。仲々ものすごいが拓山ある。午後廠舎の前にて鉄条網の破壊、防毒マスクの使用法煙幕の中を分隊の突撃演習あり、皆とても眠たさうである。帰営後銃の手入れ入浴をし酒保へ行き腹一杯食べた。夜は帰還準備八時半消灯教官の検査あり。

6月13日(火)晴

4時半緊急集合し六時に廠舎出発往とは別の道を行軍浅間神社参拝、8時四十分頃の列車にて横浜へっく学校迄行軍銃の手入れ昼食をなし解散す。復りの行軍は相当道のりがあり大分参った」(「富士裾野演習日記」機械科 柵井 昇)

30周年記念祭

戦時色の濃くなる中、1941(昭和16)年5月1日から3日にかけて、創立30周年記念祭が催され、観覧者は述べ18,000人に及んだ。その様子を、50周年記念誌から引用する。

「三十周年記念祭は仲々華やかなものでした。正門より玄関のところまで、ぼんぼりを並べたりして(昼間ですから灯はつけません)。同窓祝賀会は神奈川会館で開かれ、芸能人を呼んでの催しは当時としては思い切ったこころみでした。その頃までの記念祭は、製作品を売り出したりして、これは仲々人気があったもので、早朝から押すな押すなの盛況でした」(50周年記念誌「五十年五月の空はかわりなし」 旧職員 岡 田義祐)

それからわずか4年後、横浜一帯を襲った空襲で本校校舎は全焼する。思えば30周年記念祭は、木造校舎の終わりを飾る盛大なお祭りでもあった。

創立30周年記念式典 創立30周年記念祝賀会 「錬成旗」を獲得した昭和16年の
第2回自校体操

太平洋戦争始まる

1941(昭和16)年12月8日、日本は米英両軍に対し宣戦布告し、太平洋戦争が始まる。すでに早朝のラジオニュースで開戦の報に接していた生徒達は、興奮の中登校する。この日、二学期期末試験の初日を迎えていた本校は、いつものように校庭での朝礼・自校体操の後・4列縦隊を組んで校地周辺のランニングを行うと、予定通り試験を実施した。朝礼では、校長から「日本帝国は非常時に突入したが、生徒諸君は本分を守り、定期試験にあたり全力を尽くせ」との訓話があった。

自校体操大会で錬成旗獲得

この年、本校の特筆すべき活躍として、県下中学校報国団マラソン大会での優勝と、第2回自校体操全国大会での錬成旗獲得があげられる。10月26日、東京明治神宮プールに仮設された体操場で行われた第2回自校体操全国大会に神奈川県代表として出場した本校は、平松・京野両教諭の指揮の下4・5年生が上半身裸、白い短パン姿で見事な演技を披露しスタンドから大きな拍手を送られる。

「きわめて量感にあふれた本校独自のものでありました。毎朝上半身すっぱだかとなり終わったあと二谷の町を行進しました。全国の体操祭が東京の神宮競技場で行われたが、本校が入賞したことは今も嬉しい思出です」(50周年記念誌同窓会座談会より)

本校の演技は「成績抜群」の評価を得て、錬成旗が授与された。

木材工芸科・図案科廃止

1942(昭和17)年、政府から専門学科の整理縮小と、「緊急学科」への転換という方針が打ち出された。2月9日の神奈川新聞には、「文部省が発表した中等学校教育内容に圃期的刷新を行ふ戦時非常措置制度」についての記事があり、「精神訓練の徹底、国防訓練の強化徹底を期するため」「男子は軍事教練、女子は看護保育など国防訓練の強化を図る」実業学校では「時局重点主義に基づいて、染色紡績、繊維、美術工芸、木工等に当てられた時数を航空機、艦船、機関等に振り向ける」といった内容が示されている。

軍需産業を支える労働力を確保するために、必要性の低い学科は廃止し、重要度の高い学科へ転換しようと言う事である。これを受けて、本校は第1本科の木材工芸・図案の両科と第2本科の建築科・第3本科を廃止して、第1本科の機械、建築、精密機械各科をそれぞれ250名、第2本科の機械、電気を各250名に増員することとした。

廃止された木材工芸科と図案科の生徒は、4・5年生を除いて建築科の該当学年に編入する措置がとられた。生徒にとってみれば、入学時に自ら選んで志した道とは違った道を歩むことを余儀なくされたわけで気の毒と言わざるを得ない。廃止の決定に対しては両科の職員生徒から反対運動が起きたのも当然であったが、当時の政洽情勢から決定は覆るべくもなかった。当時図案科の生徒で、後に映團界で監督として活躍する広洋栄は、図案科の廃止が決定された時の思いを次のように回想している。

「その図案科廃止が発表になってから後、学校の帰り途に安藤良弘先生と話したことが印象深く残っている。それは放諜後、私が丁人きりで東神奈川駅へ向かう途中であった。滝野川という汚いどぶ川にかかったニツ谷橋を猫背の背をまるくして、とことこと行く安藤先生の後姿を見かけて、「先生」と息をはずませて追いついた。安藤先生はアンドンなどという渾名がある会津若松出身の方で、どこか気難しいところがあり、うかつに口をきいてはいけないようなタイプの先生だったが、その日はなぜか気軽に話しかけることができた。

私は「図案科がなくなると先生はどうなさるんですか」とたずねた。図案科の廃止はその専任の教師の離職を意味していることだったからである。すると、アンドンはいつもの低いくぐもった声でこういった。「心配するな、君たちが卒業するのをちゃんと見とどける。うん、それまでいるよ」そして、ちょっと間をおいて、ひとりごとをいうように、「しかしな、神奈工に図案科をつくったのは大正4年のころだからもう28年にもなるな…それをこわしてしまうなど、ちょっと乱暴な話だ」私は思わずアンドンの顔を見た。アンドンは丸い眼鏡をかけていたが、その眼鏡の奥に、今まで教室などで見せたこともない強いまなざしがあった。

「学校は国のいう通りにしなくてもいい。うん、国がやっていることが正しいことばかりとはいえないからな」それは当時としてはかなり思いきったことばであったと思う。それは私のなかに強い印象で刻みつけられている。そして、東神奈川駅で別れぎわにいわれたことばも忘れられない。「それより君は卒業後どうするんだ。うん、なにか考えていることがあったらいいなさい、相談にのってやる」その先生が乗られた品川行きの省線電車がにぶい西日をあびて遠ざかってゆくのをじっと見送りながら思った。おれはいったいどうしたらいいんだろう?そのとき私は、なにか途方にくれていたという思いであった」(広 渾栄著「私の昭和映画史」岩波新書より)

中学校令交付と修業年限の短縮

1943(昭和18)年4月、中学校令が交付されたことによって、学校制度は大きく変わる。「中学校」「高等女学校」「実業学校」という三つの中等学校は包括的に扱われることとなった。また、修業年限も4年に短縮される。そうした背景としては、日中戦争の進展に伴って、中堅国民の錬成と国防教育のために中等教育を統括することと、産業従事者を早期に育成することが必要となったという事情がある。

従来、中学校からは4年で上級学校へ進学できたものが、実業学校からは5年とされ、区別されていたものが、こうした違いも無くなって、工業学校からも4年で進学することができるようになった。これに伴い、本校の学則は大幅に改正される。第1本科と第2本科は統合され、精密機械科は機械科に合俳された。

また、電気通信科が新設され、本校の定員は機械科12学級600名、電気科4学級200名、電気通信科4学級200名、建築科4学級200名の計24学級1,200名となった。T万、この時、第2部と第3本科は廃止されている。第2部は昭和12年、第3本科は昭和15年に設置されてから僅か6年と3年の短い歴史を閉じた。

上級学校への進学者制限

上級学校への進学に関して、中学校との区別が無くなったのもつかの間、1944(昭和19)年2月になると、内政部長通迷によって、工業学校を始めとした実業学校修了者の上級学校巡学に対して制限がかかるようになる。

一、実業学校修了者ニシテ専門学校(大学附属専門部ヲ含ム)、高等学校高等科、大学予科(陸海軍ノ学校及教員 養成ノ学校ヲ除ク) へ進学スル場合ハ総ベテ手続上出身又ハ在学校校長ノ推薦書ヲ添附セシムルコト

一、前項ノ推薦二付テハ概ネ左二依ルコト

1 実業教育ヲ施ス専門学校ヘノ進学者二対シテハ其ノ数ヲ本年度修了者ノ概ネー割二止ムルコト

2 1以外ノ上級学校ヘノ進学者二対シテハ特殊ノ事情アル者二限り推薦スルコトトシ之ヲ最小限度二止ムルコ

3 前年度以前ノ修了者ノ推薦二関シテ八本項ノ制限二依ラザルヲ得ルコト

実業教育を受けた若い労働力を一刻も早く現場にという時代の要請であった。

二渓寮閉鎖

戦局の悪化は、二渓寮の運営にも影を落とした。60人程度の収容能力があった二渓寮は、開設当時に比べて交通の便が整い通学時間が短縮されてきたことに加えて、戦局が悪化してきたこともあって、入寮者が徐々に減りつつあった。1941(昭和16)年から米穀配給制度が実施されるようになるが、それでも当初は配給量の不足を補うためにパン、うどん、そば等を人手することが可能だった。しかし、次第に物資不足が進むと、日常生活に欠かせない生活物資が全て配給制となる。こうした中で、一一渓寮では食事の提供(まかない)が廃止され、しぱらくは寮生の手で自炊が行われていた。そして遂に1943(昭和18)年、二渓寮は閉鎖されることとなった。

青年学校廃止と二種の設置

1944(昭和19)年4月、本校に併設されていた神奈川県立工業青年学校が廃止され、神奈川県立工業学校第二種が設置された。また、第1本科と称していた機械科12学級、電気科4学級、電気通信4学級、建築科4学級は第一種と名称を変更する。これに伴い、青年学校に在籍していた生徒の多くが、二種の相当学年に編入することを認められた。二種の入学資格は高等小学校卒業、修業年限は4年で、機械科、8学級320人、電気科4学級160人、建築科4学級160人、合計16学級640人の編成であった。

学校工場と勤労動員

太平洋戦争中、本校の機械科、精密機械科、電気科の各実習工場は軍、県の指令によって「協力学校工場」として軍関係部品の加工生産にあたった。工業学校としては全国有数を誇る本校の設備を利用して行われた作業の内容は、当時の機械科教論鈴木信之によれば次のようなものであった。

「特に機械科鋳造工場は毎週1回熔解(吹き)を行ない、荏原製作所よりの潜水艦用C・Fポンプの部品を鋳造し、機械加工まで一貫作業を、指導に連日来校された荏原製作所の大島鎗冶氏(22回機械科卒業)の熱心なる仕事振りは、神工出身者の面目躍如たるものもあり感動させられた。機械科の他の工場の特殊機械は、沼野製作所、野村精機、大島鉄工所に貸与、日本飛行機その他の部品製作にあたり、それぞれ熟練工を来校させ、設備を高度に活用、予想外の業績をあげた」(神工70年史より)

さらに戦局の拡大に伴って1943(昭和18)年6月の「学徒戦時動員体制要綱」、次いで10月に「教育二関スル戦時動員体制要綱」が閣議決定されると、学校生活もその殆どが戦争遂行のための活動に費やされるようになる。本校生徒の勤労動員先については「神工70年史」にまとめられている。(資料編参照)当時の動員生活の模様について、荒井正治(25回図案科卒・旧職員)は次のように記している。

「動員はだいたい三つに分けられる。農業動員、工場動員、学校工場動員がそれである。はじめ1、2年だけは授業が行われたが、それもこの段階では農業動員に出された。3年以 上が工場 - もっとも5年制の3年はまだ農業 - に動員され、比較的からだの弱いものが、実習工場をそのまま学校工場と称してそこに残った。50名前後だったが、ここで工場から委託されて部品をつくった。ともあれ当時の生徒にとって、学校生活はとりもなおさず動員生活であったのだ。

20年3月の電気科卒業生 - 5年制の最後 - の場合にその例をとれば次の通りであった。

正規の授業ができたのは2年までで、3年にはもう農村への動員がはじまった。これは手不足に悩む農繁期の農村へ手伝いに行くわけだが、従って短期間であって、先方の家庭に宿泊するので親しみもあった。殊に食料不足の都市の生徒にとっては、この期間だけは食料を満喫できて、悲しい喜びでもあった。

4年からは工場や軍施設の動員となった。4年のうちは何回かいったがそのつどまだ短期間だった。相模原の兵器廠に多くいったが、そこに宿泊した。5年になってからはちょうど19年から20年にわたる時期でもあって、授業はもはや全く行われず、自宅と工場を直結する完全な動員生活そのものであった。

東芝堀川町工場と富士電機に機械科と電気科が半年交代でいった。東芝では電探を作っていたがすでに返品も多かった。富士ではMGをつくっていたが、技術者が見当たらず、技術を操作し得ない状態も時にあった。また女工の割合が多かったことは目立っていた。

定期を買って毎日自宅から工場にかよった。作業衣はくれたが、三時と夜業のときささやかな雑炊が間食としてだされたに過ぎない。日曜はもはやなく、徹夜が三日続くと休みが一日あるといったぐあいだった。徹夜作業で泊まりこんでも寝具といってはなく、コンクリートの床にわらをしいてごろ寝をした。従って冬は非常につらかった。防空壕も少くて、空襲のときに入る余地はほとんどなく、動員生徒で白らつくったぐらいであった。

富士電機の場合生徒にのみ作業を強要する傾向があった。月に手当 ― 報償金と呼ばれた ─ として50円くらいくれることになっていたはずだったが、手にしたことはなかった。だが何れにせよ、動員ですぐ役立つ工業学校の生徒は、喜ばれたこともたしかであった。東芝では一部に動員生徒に非常に過酷であったところから、サボタージュがあったし、富士では工員の間に厭戦気分があったようだ。ともあれこの電気科生徒の体験は、大なり小なりどの生徒についても同様であったといえよう。

一方教師の動員生活をみよう。19年9月に赴任して間もなく、秋に一ケ月余中津飛行場の引込工事の動員に行った。このときは電気、通信、建築科の2年120名であった。当時もう全くみられなかった甘昧品が間食に発給されたりして、動員の待遇はまずよかった。それが11月末に終ると、12月末から翌3月末まで、相模原の造兵廠に機械と精密機械4年冷80名をつれていった。かよえないもの約20名が寮に宿泊しか関係上、終始そこに寝泊まりした。特に卒業式はそこへ校器が出張したことは印象的であった。卒業したので学校へもどると、すでに機械4年の40名がいっていた月島機械に、交巷としていった。4月からずっとそこにいて、敗戦によってようやく動員から解放されたのである」

「報国隊」の活動状況については、「神工70年史」に次のような記述がある。

「東芝85年史」は、昭和19年から20年にかけて「労務の給源は一般青壮年から漸次、国民学校(小学校をこういった)卒業生、家庭婦人に移行した」と記している。19年後半に入ると学徒報国隊、女子挺身隊が大量に動員されて、工場の各種労務に従事したが、その勤労意欲と量の多さは、各工場の期待にこたえ、工場によっては、その労働力の五〇パーセント近くを占めたという。

東芝鶴見工場では学徒隊の受け入れを19年5月以降実施、延べ2,991名に達し、多い時は、一般工員の四分の一を占めた。市内から動員されていたのは、県立工業(本校2年)65、鶴見工業258、興国中学40、鶴見国民学校114であったが、家庭通勤の生徒の中にも空襲被災者を多数出し、出勤率は低下したのみならず、工場の被災、および資材の不足等で、全能力を活用できないまま20年8月15日を迎え勤労学徒は8月23日全員引き揚げた」

勤労動員中の慰安芸能会

勤労動員の最中にも学生らしい「青春」は存在した。1944(昭和19)年3月19一日から7月25日までの4ヵ月余り、東芝通信機小向工場に動員された本校生徒は、6月2日、学徒挺身隊・従業員歓迎並慰安芸能会に出演することになる。生徒自身の演出による「黄土の涯てに」で見事1等賞、金20円を獲得した。この賞金は会社を通して海軍省に献金されている。出演したメンバーの中には、後に俳優として活躍する織本順吉(本名角田正昭31回電気科卒業)がいた。

学徒動員・繰り上げ卒業

戦局が厳しくなると、在学中に軍学校へ志願しようとする生徒も現れた。1944(昭和19)年の電気科第1本科の卒業にあたっては、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、陸軍兵器学校、陸軍予科士官学校に志願、入隊した十数名が出席しないまま卒業式が行われた。また、1945(昭和20)年3月には、5年生(31回卒業生)と共に4年生(32回卒業生)が繰り上げ卒業している。終戦を挟んでの数年間、めまぐるしく変化する制度を反映して、入学年度と卒業年度(卒業回)の関係は次のように複雑なものになった。

〈昭和15年4月入学生〉

修業年限5年で昭和20年3月卒業:31回生

〈昭和16年4月入学生〉

昭和18年に神奈川実業学校則が改訂されたことに伴い、修業年限4年で昭和20年3月卒業:32回生

〈昭和17年4月入学生〉

修業年限4年で昭和21年3月卒業:33回生。修業年限5年で昭和22年3月卒業…33回生

〈昭和18年4月入学生〉

昭和23年新制工業高等学校の発足により、一部は昭和23年3月旧制工業学校を卒業…34回生

一部は新制工業高校3年に進学し、昭和24年3月に新制工業高等学校を卒業…35回生

35回生は旧制工業学校と新制工業高等学校それぞれの卒業証書を持っている。

〈昭和19年4月入学生〉

一部は昭和24年3月旧制工業学校を卒業…35回生

一部は昭和25年3月新制工業高等学校を卒業:36回生

横浜大空襲・校舎焼失

1945(昭和20)年5月29日午前9時過ぎから、横浜一帯は米軍機の大規模な空襲を受ける。B29爆撃機・P51戦闘機による焼夷弾攻撃であった。この空襲による犠牲者は約8,000~10,000名に上った。米軍が定めた攻撃目標は、東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ケ所で、特に被害が大きかったのは、現在の神奈川区反町、保土ケ谷区星川町、南区真金町地区一帯であったとされている。

東神奈川駅では、多くの職員が殉職し、ほぼ全ての施設に大きな被害を受けた。復旧には相当の期間がかかり、その間横浜線の全列車は東神奈川駅に停車せずに通過する形で運行された。50周年記念誌上の同窓会座談会では、「後で聞いた話」と断って「アメリカの地図には本校が高工(高等工業学校)となっていたので爆撃予定地となりねらわれたらしい」という話が披露されているが、当時の米空軍は、工栗池、商震吐、庄宅咆反ぴこにらり昆缶也y、尭起単攻撃でどのように燃えていくかについてのデータを持っていなかったため、横浜に対するこの空襲は、そのデータ収集のための実験的攻撃であったともいわれている。

「榎本助手は最後までふみとどまり、50キロ爆弾の落ちる中を書類袋を背負って逃げましたが、何か忘れものをしたと見えて引き返した処、急に見えなくなって、あとにはしまのシヤツだけしか残らなかった。全くの即死です。そのうちに精密工場に爆弾が落ちて屋根が燃えはじめる。生徒が一生けんめいポンプで水をかける。池田助手もやけどを負いながら消火をしていたが一週間後遂に死亡された」(50周年記念誌同 窓会座談会)

 当日の模様は、当時教頭職にあった官原信夫の日誌に克明に記されている。

午前8時ノ礼会ノ直前敵機数編隊ノ本土侵冦ノラジオ放送アリシカバ、折カラ登校シアリシ1、2学年生全部及3年生ノ一部、並二学校工場勤務ノ3学年生ノー部ヲ控所二集合セシメ、情勢ヲ留意シツツアリタル処当地区侵人ノ危険アリシカバ、学校工場勤務ノ3年生及学校特設防護隊ノ生徒ノミヲ残留セシメテ他ハ午前8時10分迄二帰宅セシム。

以後1時間ノ後、即チ午前9時10分頃ヨリ敵機ノ当所爆撃開始セラレタリ。尚本日出勤ノ職員全部ハ待機ノ姿勢ヲ以テ敵機ノ来襲二備ヘツツアリタリ。

午前9時10分、第1撃ニヨリ寄宿舎東端及控所廊下、図書室、機械標本室、南館束南部ノ5箇所ヨリ焼夷弾ニヨリ発火。折カラ待機中ノ職員全部及学校工場勤務ノ3年生以上50名及学校特設防護団生20名計70名ハ、山賀校長総指揮ノ下、消火器具ヲ全面的二使用シテ消火二努メ、一時機械標本室方面ノ火ノ手ヲ制圧シツツアリシガ、続ク第二撃第三撃ノ集中投弾ニヨリ敢闘中ノ職員(実習教師)榎本芳彦死亡、生徒中ニモニ、三ノ火傷患者ヲ出シタリ。

加フルニ旋風烈シク火勢ハ全建物二及ビ午前10時頃迄ニハ殆ンド全建物ヲ焼失セリ。之ヨリ先、予メカゝル場合二備ヘテ重要書類ハ地下式備蓄室二保管シ、機械類モー部ヲ校庭東北隅ノ小屋中二移シ置キタル為メ、一部分ハ火気ヲ免レタレドモ、学校工場ニテ使用中ノ機械、器具、材料、製品ハ全部焼失セリ。

日誌の記載は1946(昭和21)年2月13日まで続く。以下、必要に応じて引用、採録する。

授業再開と疎開計画

焼け跡の後片付けと整理は、早くも翌30日から始まった。当然のことながら、作業するに満足な道具は殆どない。空襲警報の合問を縫うようにして、生徒と職員が力をあわせての作業が連日続けられるが、この間、工場動員も中止されることなく諮けられている。さらに中郡と津久井郡への農村動員が並行しでおこなわれている。月が替わり6月2日の土曜日は雨、この目になって初めて整理作業は「休止」と記録されている。しかし、生徒の転学の手続きや疎開のための旅行証明書下附等の事務が行われ、学校の機能は停止することはなかった。3日になると、学科毎の作業分担が記録されていて、片付けもある程度進捗トてきた様子が見て取れる。

6月8日(金)晴

午前8時半ヨリ宮原教諭司会ノ許二大詔奉戴記念式ヲ挙ゲ訓話ヲナス。開戦の詔勅が下った12月8日を記念して1942(昭和17)年以来、毎月8日に行うことが決められていた大詔奉戴記念式は、この月も滞ることなくおこなわれ、嘱託将校からは沖縄戦線の重要性についての講話があったとの記事がある。この日、空襲当日学校で被災し負傷、加療中だった池田猛機械科実習工手が警友病院で死亡している。

6月9日(土)晴

神奈川高女校、佐藤秀麿氏校舎ヲ第一高女校二交渉中ノ旨挨拶アリ。

岡野町の第一高女(現横浜平沼高校)の施設利用を交渉したとのことだが、第一高女もまた空襲の罹災者たちの臨時救護所となっており、野戦病院さながらの様子であった。とてもこの交渉に応じられる状況ではなかったのである。

6月29日(金)曇

宮原教頭市役所教員課二浦島国民学校転用ノ件申込

6月30日(土)雨

生徒休業宮原教頭二中二教室転用ノ為打合セニ出向。

7月2日(月)雨

生徒休業鶴工及ビニ中校舎転用願ヲ横浜市長及神奈川県知事宛提出。

結局、横浜二中(現横浜翠嵐高校)で教室転用の願いが受け入れられることとなり、一種の授業が再開されたのは7月28日(土)であった。丁万、二種の授業は再開する目処がたたず休業が続く。

8月14日(火)曇

宮原、村田、柳川、津久井郡串川村二出張。

この出張の用件は、「学校疎開」の交渉であった。二中の校舎を借りて再開した授業も、たびたびの空襲警報で中断される有様であった。そうした中で、工業教育を一日たりともおろそかには出来ないとの思いから、農業動員で縁のあった津久井郡に学校を疎開させることが計團されたのである。この日、村当局などとの交渉で、村の寺を教室にして生徒を収容し、授業を行う話がほぼまとまった。