創立100周年記念誌 100年の足跡 神奈川工業高校(1)

創立100周年記念誌 100年の足跡 神奈川工業高校(1)

創立100周年記念誌「二渓の風に乗って」100年の足跡 「神奈川工業高等学校」としての歩み(1)です。

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終戦・学校壊滅

「学校疎開」の計画は日の目を見ずに終わる。翌8月15日、終戦の詔勅が下り、太平洋戦争は終結を迎えたからである。

「機械科4年第一本科生47名は鶴見の月島機械に勤労動員中であった。この日、重大放送があるというので会社の人4と共に我々も正午には中庭に整列した。天皇の放送はよくききとれ、難しい表現ではあったが、戦争が終わったことは理解できた。(他の場所では放送が不明瞭で、あとになって内容を知ったというのも多い)工員達は意味がわからず「なんだなんだ」といっており戦争に敗けたことを我々が教えてやる一幕もあった。張りつめていたものが切れ、呆然として控室にひきあげて何もできなかった。どれくらい時間がたったかわからないが、「本日の作業は中止、解散してよい」ということになった」(「神工70年史」より卒業生 大森政市 談)

16日、藤原孝夫神奈川県知事は、県会議事室に県下各校の校長を集め次のように伝えた。

「時下茫然のあまり、心の緩みを生ぜしめぬよう特に指導を要望す」

文部省は、9月中旬を目途に授業を再開するようにとの指示を出したが、神奈川県では進駐軍が厚木基地に降り立ったこともあり、特に女学校に関しては「土地の状況に応じ授業を休止するよう」にと慎重な姿勢を示していた。それを受けて授業の再開を10月1日と決めた第一高女(現:県立横浜平沼高校)は、この時点では休業の状態であった。本校は、焼失を免れた第一高女本館の教室を惜用する方向で動き出した。

8月24日(金)晴

山賀校長、宮原教頭、県立第一高女二出向校舎転用ノ交渉ヲナス。

交渉はまとまり、第一高女の校舎を借りて、授業を再開する手はずが整った。

分散授業・校地接収

27日、1、2年生を県立横浜二中(現:県立横浜翠嵐高校)から県立第一高女の校舎に移して授業が継続されるが、動員先から3、4年が戻ってくると教室はとても足りなくなる。結局、9月いっぱいで県立第一高女を引き払うと、建築科・電気科・電気通信科は帝国自動車工業株式会社附属青年学校鶴見区市場町)、機械科は県立商工実習学校(中区大岡町、現:県立商工高校)を借用しての分散授業が始まった。一方で、10月はじめには平川町の校地が進駐軍に接収される。

「焼け跡整理に懸命の努力をしていたころ、突然進駐軍の刑務所として接収され、我々の手作業と異なりブルドーザー、トラック等で短期日に焼材、焼機械の撤去を終え、整地後プレハブ式の舎屋を急造、米人、特に黒人兵が多かったが多数を収容し、有刺鉄線を張りめぐらし、外部との交流を遮断、無気味の様相を呈した。時には彼等の一部が脱出、近隣の民家ヘ侵入、金品を強請するなどのトラブルがあり相当の不安を抱かせた。生徒を指揮して校庭周囲を整理中の小生は、彼等の投石をしばしば受け責任者に抗議した記憶がある。敷地の片隅には校長のバラック建ての住まいがあり、山賀校長が頑張り、校庭を守り続けていた」(「神工70年史」より旧職員 鈴木信之 記)

1946(昭和21)年になると、戦災後授業を停止していた第二種の授業も栗田谷国民学校を借用して再開される。第一種は1・2年生を商工実習学校、3年生以上を帝国自動車附属青年学校に分散して収容することになった。このころから、前者は大岡分校、後者は鶴見分校と呼ぱれるようになる。

こうして何とか全ての授業を再開することはできたが、その実態は厳しいものだった。大岡分校では生徒を一度に収容するだけの広さがなく、午前午後にわけての2部授業が行われていた。また、運動場も使用時間と範囲を制限せざるをえなかった。一方、鶴見分校は窓ガラスも満足に入っていないという老朽化した建物で、特に冬の寒さは身に応えた。なにより物資の不足で授業に必要なものをそろえるにも苦労する。勿論、実習など行えるはずもなかった。漸く再開した夜間の2種の授業も、電力不足による停電で、たびたび中断しなければならないような有り様であった。こうした窮状を見かねて、1947(昭和22)年5月31日に大河原宇吉氏を会長とした、「学校後援会」という組織が発足した。

「何しろ、教室の窓には建具が一本も嵌っておらず、雪の日など教室の中まで雪が吹き込む有様だったし、前にも記した様に、先生方はチョークや答案用紙にも事欠くといった状態だったのですから、私達教師の側も真剣でしたが、それ以上に集まった父兄方も熱心に討議して下さって、結局「後援会」という名前で発足することになりました」(50周年記念誌「思い出すまま」旧職員 岸田林太郎)

ところで、戦後の改革を主導したGHQは日本の実業教育、特に工業教育のあり方についてどのようなプランを持っていたのであろうか。教育改革の大きな指針となった「アメリカ教育使節団報告書」にはこんな一節がある。

「日本は、その家庭、都市、工場、および文化施設を再建するために、教育された精神ばかりでなく、訓練された腕を必要としている。日本の民主主義にとって、熟練した、職に就いている、知識豊かな労働者ほどのすぐれた保証はないであろう。それは、単に産業的資産であるばかりでなく、道徳的な資産でもある。そのような民主主義のとりでを築くために、日本の教育者は、道具を使って働く者たちに対しても、頭脳のみで働く者に対してと同様の尊敬の念が抱かれるよう、力を尽くさなければならない」(1946.4 アメリカ教育使節団報告書1、日本の教育の目的および内容職業教育 村井実訳)

この記述を見る限り、戦後の復興と「民主主義」社会の建設のために、職業教育、なかでも訓練された腕をもって道具を使って働く知識豊かな労働者(工業従事者と言い換えることができるであろう)の育成は重要視されこそすれ、決して軽視されるものではなかったはずである。ところが、職員・生徒が一日も早い校舎復興を希望する一方で、学校の存続自体が危ぶまれる状況が訪れていた。

「本校は終戦直後米軍の収容所に接収されました。その後市の都市計画で遊技場をつくる案があるとの情報を聞いたので同窓会に働きかけ、学務課長に3回も陳情に行きました」(50周年記念誌 同窓会座談会 旧職員 神代 量平)

学制改革 「神奈川工業高等学校」誕生

1947(昭和22)年3月に教育基本法と学校教育法が公布される。併せて学制が改革され、義務制の新制中学が発足した。

旧制の中等学校では新制中学を併設して、下級生をこれに編入し、上級生は旧制に留め置く措置がとられる。本校でも第1種の新人生募集を停止するとともに、2・3年生を併設した新制中学に編入し、4・5年生は旧制工業学校のままという形になった。また、第2種では、機械科と電気科が復活し、建築科と併せて3科となり、この年の新入生は新制中学の3年に編入された。因みに、この時の募集人員は機械科21名建築科22名、電気科37名の計80名で、年度末の修了者は機械科11名、建築科13名、電気科32名であった。

翌1948(昭和23)年、中学に1年遅れで新制高校が始まったのに伴い、従来の校名「神奈川県立工業学校」が「神奈川県立神奈川工業高等学校」に改められる。従来の第1種は全日制課程となり修業年限3年、新制中学卒業が入学資格となった。旧制工業学校に在籍していた在校生は、新制高校の該当学年に編入された。顧みれぱ、県で初の県立工業学校であった我が校は、その後たくさんの県立工業学校が設置されてもなお、新たな校名が付くことなく「神奈川県立工業学校」と呼ばれ続けてきたが、長年親しんだその校名とも別れを告げることになった。

「神工時報」創刊

学校新聞「神工時報」は1947(昭和22)年7月15日に第1号が発行された。山賀校長は「意見の公開場~教育民主化を期す~」と題して発刊の言葉を寄せている。

「神工時報が新しく発刊される。新しい民主教育は先生と生徒が互いに敬愛と信頼によって結びつけられることから始まる。従来は両者の間にこの大切なつながりが幾分欠けてはいなかったか。両者間にわだかまりのない赤裸々な話し合いが行われ、意見が交換せられて互いによく知り且つ理解し合うことが大切である。その意見の公開場としてこの時報を利用することは、有意義で且つ愉快なことである。生徒の学習は生徒各々の自学自習が基礎である。先生任せの弊風を去って先生を指導者として、学習はどこまでも生徒の能動的立場で進められなければならない。

学校が焼けてから既に2年の歳月が過ぎた。しかし、新校舎も元校地にすぐ建つ。9月からは全校職員生徒が皆一緒になれる。嬉しいことだ。設備は乏しいが裸一貫からの再起だから先生も生徒も工夫し創造しその不足を補い、熱心に指導し懸命に学習することが大切である。来年は本校も新しい高等学校として新発足をする。第二期建設工事に続いてはじまろう学校をよくするには下から盛り上げる力が最も大切である。盛り上げる力というのは単に口先で議論することではない。強力な実行が欠けては力になり得ない。先生の間に研究協議会が生まれ生徒の間に自治会が結成されたことは喜ばしい。各々健全な発展を切望する」

また、「後援会の愛情に応えて」の見出しで、復興後援会の会則とともに援助の内容が記事となっているので引用する。

新校舎竣工の日も近づいて来た。そのうれしさに続き私達の父兄が後援会を結成して県費の不足を補い、9月までに寄附金30萬円を集めて、机イス図書を贈って下されようとしていることだ。その後も更に月額20円を援助してくれる由である。焼跡に建ち並ぶ新校舎、本校の高校昇格も近い校友会の活動も盛んになるであろう。私達は今温かい愛情に包まれて幸福さに胸つまる思いだ。

学友よ、さあ心協せて新しい学園の再興に勇躍振い起とうではないか。最後に後援会の会則を附記して置く。

神奈川県立工業学校復興後援会会則

一、本会は神奈川県立工業学校復興記念会と称し事務所を同校内に置く。

一、本会は神奈川県立工業学校の復興を後援することを以て目的とする。

一、本会会員は在校生の父兄及び保護者とする。

一、本会は第2条の目的を達成するため左の事業を行う

1、学校設備の完成 

2、学校建築の助成 

3、其の他、学校復興を後援するに必要なる事項

一、本会に左の役員を置く

会長1名、副会長1名 理事若千名 監事2名

一、会長副会長監事は理事の互選による

理事は在校生徒の父兄及び保護者より左の標準により総会の決議により之を推薦す 一学級2名以上

一、役員の職責左の如し

1、会長は本会を統理し会議の議長となる

2、副会長は会長を補佐し会長事故あるときは之を代理す

3、理事は会長を輔けて会務を掌理す

4、監事は会計事務を監査す

一、学校長並びに職員若干名を参与に委嘱し本会会務を処理せしむ

一、本会会員は会費毎月1ロ(20円以上)を納入する

一、本会は毎年1回総会を開き会計会務を報告する

総会は会員過半数の出席を以て構成する

一、本会の会則は総会の決議を経て変更することができる

一、本会の会計年度は4月1日に始まり翌年3月31日に終る

生徒会・PTA・学校5日制

戦後の教育改革はGHQと神奈川県軍政部(後に民生部に改称)の主導で行われるが、学校の組織、制度に関するものでは「生徒会」と「PTA」の創設、週5日登校制があげられる。

新日本の教育の柱として「民主主義」の浸透を考えていたGHQは、学校視察の際の点検項目の一つとして「学校長と面接して決定せよ。学校は何か生徒の組織体を持っているか」(1946年2月13日付「第8軍司令部・学校視察施行命令」)という一項を掲げている。それは戦前多くの学校に存在した従来の「校友会」に比べて、より生徒によって自治的に運営される組織を意味していた。本校ではこうした性格を待つ生徒の組織として「自治会」を発足させる。しばらくの間は旧来の「校友会」と「自治会」が併存する時期が続いたようであるが、1947(昭和22)年10月15日を以て校友会は自治会に合流し、「校友会」の名称は廃止された。

翌年7月20日発行の「神工時報」第6号には「自治会活動軌道に乗る~今学期は基礎がため」と題して次のような記事が掲載されている。

「新装成って本年度自治会が多難な前途に勇躍発足して早や一学期もおしつまってしまった。その間自洽会幹部の努力は並大抵のものではなかったろう。しかしその成果として、各部予算決定総会の開催等生徒の世論に自治会は深い感動を与えていた。竹内委員長を助けて陰に陽に働く小川君の努力も又多大なものがあった。

校友会が自治会に合併し運動文化各部の大権が生徒の部長に渡り、先生は顧問としてのみで生徒の部長の責任は重大となった。それに予算の配分で又先生にも手におえないめんどうな会議を生徒の部長だけで解決をはかり、総会も立派な成果をおさめた。自治会の顧問上田、金井両先生の指導も自治会活動に刺激をあたえ重い腰をもちあげた生徒たちが本当の自治会を作ろうと働きだした。

自治会事務室の看板も図書室の入り口にかかり図書室の片隅の事務机も整備された。予算決定とともに会計は生徒達の手により運営され自治会会計の小長谷君の事務がいそがしくなり、自らの手により自らの部の金を動かして経済的な方面にも頭をつかうようになり各部活動の実態をつかめるようになる。

不満不平は自らで解決していく、みんなの手でみんなの意見の下に行われる民主的な自治会活動が、やっと軌道にのった。今後の発展に大きい希望が持てる。第一学期は新生自治会の基礎かための時期だった」

全てが生徒の手にゆだねられたかのような記述は「民主教育」の時流を反映したものとして多少割り引いて見る必要はあろうが、顧問の教師も生徒自身も、「校友会」との性格の違いを意識して活動していたことがうかがわれる。

保護者の組織については、1947(昭和22)年11月に、文部省が作成した「PTA参考規約」が県教育部を通じて各校に配布された。新しく作られようとする組織の理念を浸透させるために、各地で講演会も行われている。本校では同年12月13日に「父母と教師の会」が成立し、後のPTAの前身となった。

終戦直後、本校は校地を接収され、昭和22年9月に旧校地に仮校舎が竣工するまで大岡分校と鶴見分校で分散授業を行っていたが、この間の教育環境間が厳しいものであったことは前述した通りである。結局生徒の父母に経済的援助を求めるほかなく、既に5月の時点で「学校後援会」が発足していたため、新たに「父母と教師の会」を創設するにあたっては、この後援会との関係が問題となったようである。両組織を併存させるか一本化するかの選択を迫られたのである。

結局、経済的な援助を目的としていた「学校後援会」は発展的に解消され、教育問題についても参画することを趣旨とした「父母と教師の会」に一本化されることとなった。また、この時点で、「学校後援会」が徴収した会費は維持費という名目で学校に一任された。この間のいきさつを旧職員岸田林太郎の回想から引用する。

「進駐軍の方から、PTAを作るようにというサヂェスチョンがあって、会則の雛形が送られて来ました。当時カリキュラムだの、ガイダンスだの、ホームルームだのと舌をかみそうな外来語に目を廻していた私達は、またここでPTAという体に合わない借着を無理に着せられる端目に立たされたのでした。

山賀先生から本校のPTAの会則を起草する様に依頼された私は、送られてきた会則の雛形が余りにもアメリカの直訳で、とても私達の学校の実情に則しないと思ったので、進駐軍に叱られない程度で、実行し易い様に書き改めたものでした。それでも後年改正しなければならなかったほど、直訳的なところを多分に残していましたが、当時の実情としては止むを得ないことでした。

さてこうして準備は出来ましたが、従来からある後援会との関係をどうするかが問題でした。後援会を発展的に解消して、その事業をPTAの中に含めてしまえば簡単ですが、PTAにそうした事業を含めることは、一寸具合が悪いので、結局後援会とPTAを二本建てにして、同一役員が兼務することにしました。

しかし、実際にやってみると、PTAが分離したあとの後援会というのは、一定会費を拠出してその使途を学校に託するというだけで、余り生彩のあるものではありませんでしたし、同一役員が兼務していた関係もあって、殆ど有名無実に近いものでした。

ですから、父兄側の希望で、翌年からは後援会を廃止し、会費に相当する金額を維持費として学校で徴収して貰い、その使途は学校に一任することにして、父兄の活動をPTA一本にしぼったのでした。(50周年記念誌「思い出すまま」)

副島校長山賀先生が、お逢いした時に、(当時校長は横須賀工高の校長)うちにバラックの木造建が出来た、といって大変よろこんでおられた。そういう時に父母が集まって会費を出し合って何か会をつくろうという話があった。(当時は、占領軍の命令で、所謂父兄会は解散させられていたので、それとは違った意味の)なんせ、当時は、県からは僅かな金しか出なかったし、それに必要なものは、例えば用紙などは、公定価では買えなかったので、後援会が出来てたすかったといっておられた。

荒井「そうですネ。ガラスを買うために父兄から金をあつめて買った記憶があります」 (50周年記念誌・PTA座談会)

週5日登校制は、軍政部の施策の一環として行われたもので、「全体的に学ぶ力」を養うために家庭や地域の力を活用しようという意図があった。本校では県下の学校に先駆けて、1948(昭和23)年1月27日から実施された。因みにこの年から、公選制による教育委員会制度が発足している。『神工時報』第4号(昭和23年2月14日発行)には学校5日制をめぐって次のような記事が掲載されている。(「画期的な五日制実施さる」内、建築科 岸田林太郎教諭による解説)

「県下の中等学校にさきがけて本校に1週5日制が実施されることになった。この5日制が実際に発足する迄には全職員は筆舌に尽くし得ない様な真剣な討議を重ねたのである。恐らく本校はじまって以来あれ程真剣な討議が行われたことは未だ且つてなかったであろう。そうした真剣な討議を経て、全職員は確固たる信念と決意を以て5日制実施を決定したのである。

生徒諸君は全面的に5日制を支持した。然し生徒諸君は吾々職員が考えた程深く考えて之を支持したのであろうか。全部とは言わない迄も相当多くの者が、単に休みの多い方がよいと云う安易な考えだけで支持したのではなかろうか。こうした気待ちから、貴重な紙面を借りて五日制の真意義を生徒諸君に知ってもらうために筆をとった。

凡そこの種の制度は、それが如何に立派な制度であっても、之を行うものに深い理解と熱意が無ければ一片のほごに等しいもので却って有害無益のものとなってしまう。生徒諸君は勿論、家庭の各父兄に於かれても、この貧しい一文を通じて、私の云わんとする真意をくみ取られ、生徒、教師、父兄が一体となって新しい教育のために協力されんことを望んで止まない」

との前置きに続き、この制度の趣旨が「個性尊重の啓発教育」「新教育の理想」を実現するための方途であることが説明されている。文章は「5日制を契機として本校の教育も伸々と明るい本来の姿を取り戻して行くだろうことを期待して楽しく筆をおく」と結ばれるが、制度の実施にあたって校内でかなり大がかりな議論が展開されたことがうかがわれ、興味深い。また、学校新聞を通して「新しい教育」の理念が生徒に対して語りかけられていることからも、当時の教育改革の雰囲気が伝わってくる。こうして始まった週5日制は、当然生徒には評判が悪かろうはずがなかったが、世間的には学校での拘束時間や授業が減ることに対して、学力の低下や非行を懸念する声が少なくなかった。

保護者への意識調査等を経て、検討の結果、1953(昭和28)年3月に県教育委員会から6日制が望ましいという通達が出される。ほとんどの県立学校は新年度から6日制に切り替えるなか、本校は5日制を継続するが、翌1954(昭和29)年2月をもって6日制に戻すことになった。

仮校舎竣工・校舎の復興ヘ

昭和22年に完成したバラック校舎完成直後の教職員一同(電気34期 喜多埜氏 提供)

接収されていた校地は昭和21年10月ごろまでには返還されたが、新校舎の建設には資材不足という問題が立ちふさがった。淵野辺の陸軍兵器学校の旧校舎を解体移築して木造の仮校舎が竣工したのは昭和22年9月のことだった。

26日には祝賀式典が行われている。「バラック」と呼ぶのがふさわし校舎も、戦災に遭った県下の学校の中では復興第1陣として、他校からは羨望の的であった。空襲での焼失から2年あまりの「間惜り」生活を終えて、ようやく全ての職員生徒が平川町の校地に集った。12月12、13両日、学校復興記念祭が行われる。この時、PTAの前身となる「父母と教師の会」も発足したのである。

木材工芸科・工芸図案科復活・定時制課程の発足

1948(昭和23)年の学制改革に伴って、戦時中廃科となっていた、木材工芸科・工芸図案科が復活する。

「旧制工業学校から引続き高校へ切換った当時の諸科とは別に、木・図の2科はこの年新たな募集に応じて入学した生徒7年生だけで、そのうちには他の科からの転科者も若干あった。定員数は2科各々25名のところ、図案科7名、木材工芸科16名であったが、これで神工家族揃っての感激は現職員、生徒一同のみのものではなく、神工を護持する全ての人士の歓喜であるはずのものであった」(50周年誌「神工デザイン科ルネッサンス」旧職員丸井金蔵)

また、それまでの2種3科(機械・電気・建築)が、この年から定時制として発足する。入学資格は全日制課程と同様で修業年限は4年。卒業に際しても全日制と同様の資格が与えられるようになった。夜間しか通学の時間が取れない勤労青少年にも、昼間学ぶ生徒と同様の高等学校教育を受ける機会が保障されるようになったのである。

「戦後本校定時制課程(夜間)においては仮校舎で授業を行いましたが、天井は落ち壁は破れ床は抜け、夜間授業の生命ともいうべき照明度は机上30~40ルクスという有様。勿論、暖房もなく夏は蚊に食われ冬期は左右下方の三方より吹きつける寒風に授業中生徒たちはついに寒さに耐えきれず床をカタカタ踏みならすしまつ。教材や設備は極度に不足し専任教論数も主事を入れて僅かに8~9名他は時間講師で約700名の生徒の授業を操作運営した時代でした」(50周年記念誌「定時制の思い出」旧職員佐々木栄五郎)

快適な学習環境というにはほど遠かったが、仮校舎が建った後も、しばらくは電気設備がないために夜間の生徒はこの校舎で授業を行うことができなかったのが、ようやく本校で授業を受けることができるようになった。

文化祭・体育祭の変遷(「神工時報」から)

1947(昭和22)年仮校舎の落成を記念して行われた学校仮興記念祭は、新制神奈川工業高校の文化祭の出発点」となった。

この時は、科展をはじめとして工業展、一般展、学芸会など様々な形で生徒の活動の成果が発表されている。入場者は述べ1万人に及んだとされている。この時の形式が、翌年以降の文化祭でも受け継がれていったようだ。

現在も使用されている「神工祭」の名称は、「神工時報」によれば、1955(昭和30)年までさかのぼる事ができる。同年発行の「神工時報」第32号は、「文化祭・体育祭成功の裡に終る」がトップ記事で、文化祭が10月14・15の両日、体育祭が11月13日に行われ、初の試みとして共に定時と合同での行事であったことが報じられている。下段のコラムには「今年の神工祭は文化祭、体育祭共々昼夜合同とし、一応成功の内に終わったといえよう」とあるから、当時は文化祭と体育祭を併せて「神工祭」と呼んでいたようである。

創立45周年を記念しての催しとなった1956(昭和31)年の神工祭は2部構成で、1部の科展・クラブ展・個人展(個人の趣味や収集を公開するという企画)は11月2、3の2日間、本校の新館で、2部の芸能祭は8日に反町福祉会館を会場として行われている。出し物は、演劇部による「或る死神の話」、女子有志による演劇「夕鶴」、音楽部のハーモニカ演奏、合唱、ピアノ演奏、ウエスタン、映画研究部による「生きていてよかった」と「野菊の如き君なりき」上演とある。

1957(昭和32)年の体育祭は5月5日に行われている。定時制はもとより、初めて参加する松田分校の生徒も合わせて1,500人余りが、強風と雨模様の中、様々な競技を繰り広げている。スプーンレース、1,500m、パン食い競走、買い物競走等、いくつかの種目は天候の影響で中止を余儀なくされた。校舎の工事のため、一般開放を行うことができなかったこの年は、神工祭=文化祭を反町福祉会館で11月14、15の2日間開催する予定であった。ところがこの年の春、香港を発生源として流行したインフルエンザ(アジア風邪)が秋になると日本でも猛威をふるい、神工祭は無期延期となる。実施は翌年1月29・30日を待たなければならなかった。

文化祭に関してはこの頃から既に、予算の使い方や一般生徒の参加意欲に関して生徒自身の中から問題提起がされる事もあり、その中では文化祭随時開催論や実質的な廃止論も行われるようになっていた。

1958(昭和33)年度の体育祭も5月に行われている。この年はY校生徒男子5名、女子7名を招いてマット演技の披露などもあったようだ。以後、体育祭は長い間5月実施が続く。5月に体育祭を実施する事には、入学間もない新人生が上級生と交流を持つという点での良さもあったが、上級生による厳しい応援指導や準備で学習習慣が付きにくいなどの問題も指摘されていた。学校と生徒会との話し合いが重ねられた結果、1975(昭和50)年からは文化祭に接近する形で秋に行われるようになった。

1960(昭和35)年、施設利用の問題から芸能祭が中止されるという事態が生じた。「神工時報」の記事を引用する。

「学校側の弾圧、生徒会側の手落ちが原因?芸能祭中止 かねて懸案であった今年の芸能祭は遂に12月5日の生徒議会において正式に中止と決定された。この芸能祭はさる10月発表された通り、11月22、23両日にわたって行われる予定であったが、突然11月7日、学校より生徒会顧問の先生を通じて中止されたい旨通知があった。学校側では、その主な理由として、時期的にまずい(主として風紀問題)などをあげ、なお明年1月以降ならよいなどの意見であった。しかし生徒会側としては、開催地(神奈川会館11月20日既に決定)や、その他準備もかなり進んでしまっており又明年1月は開催地がなく、2月以降は3年生の自由登校、3月は送別会、卒業式があるため、これには応じがたいと再三学校側に抗議したが結局応じられず物別れとなったため今年の開催は事実上不可能となった。今回の事につき前に述べた通り学校側からは最近の事件などから風紀問題をあげ、硬化しておりまた連絡的欠落、生徒会のこの行事に対するスタート状態などかなり複雑な情勢下での決定でもある事から今後のなり行きが注目される」

その結果、昭和30年代半ばからは神工祭を3年に1回の開催と改め、さらに1963(昭和38)年からは、大規模な神工祭は3年に1度、その他の年は小規模な文化祭(二渓祭)を行うという現行の形態になった。

校旗・応援旗の復活

応援旗

1922(大正11)年に、創立10周年を機に制定された校旗は戦災のため校舎と共に焼失したが、1951(昭和26)年、応援旗と共に復活する。そのいきさつについては、「神工70年史」に次のように記されている。

本校の校旗・応援旗は、戦災によって校舎とともに焼失していたが、戦後の学校復興が進む中で、生徒の中から応援旗を制定しようとの声が強くなり、昭和25年6月に至って応援歌、応援団とあわせて復活・新設が実現する事となった。まず応援旗は、生徒より1人5円以上の寄附を募り、これに昼夜間の職員の援助を加えて7,400円余の資金を集めて作成された。紫の地に白で「神工高」の文字を、黄で校章を染めぬいた応援旗(大型1旗、小型5旗)は、いわば生徒と職員の協力によって作り上げられたわけである。またこれと前後して応援歌も生徒会によって一般より募集され、新たに制定された。同時に応援団も新設されている。

現在各科で歌われている応援歌を掲載する。

【機械科一組 応援歌】

東海の 日出ずる国の おおいなる 翼を集め

おおいなる 理想のもとに 集う者 我らぞ我らぞ

ついに敵を のみてゆく おお 機械 機械の意気を

しめすはいまぞ

【機械科二組 第一応援歌】

聞けや我らの 雄々しき叫びを 精密健児の 勝利の声は

二渓の原野に 木霊して 緑の声高らかに 唄うなり

奮え奮え いざやいざ奮え

【機械科二組 第二応援歌】

炎熱の直中に 白線踏んで 鍛えに鍛えたる 我らが選手

無双の威力 凱旋の域 戦えば奮い立つ 緑の選手

「建築科 第一応援歌」

高鳴る血潮 たぎり起つ力 おお我ら 紅の若人

我らが常に 希望に満ちてる 我らの威力 ここに示さん

進めよ健児 緋色の下に いざ堂々と 足並み揃えて

【電気科応援歌】

燃え立つ若い力 絶世の頭脳 電気が創る この世の中に

真理を求め 未来を築く 限りない力と 限りない望みを

時代の先端 神奈工電気

【デザイン科 応援歌】

風は紺碧 風清し

今日は神工の体育祭 勝利の歴史に輝ける デザインの選手の心意気

見よや デザイン健男女 いかなる時にも堂々と

心地よきかな このレース デザインの選手の腕は鳴る

校旗・応援旗の復活

戸塚・総合実習工場

「戦後荒廃の中の数年。焼け跡の小屋にガンバって米軍から校地を守っている山賀先生と、アヤしげなカストリ酒を酌み交わしながら、椙山・中村・私などの新米校長がどんなに神工を頼りにして工業教育を守ってきたかしれない。横須智も川崎も、平塚も、どの工業高校も何も無い。しかしまず、何よりも神奈川工業を盛り立てろ、というのは一致した意凱であり、共同実習所をやりながらも、次の戦術に協力して怒力した」(50周年記念誌「38年の回顧」4代校長 副島 一之)

仮校舎が竣工したとはいえ、工業学校らしい施設設備は望むべくもなく、教材としての鉄一片にも事欠くような有り様であった。併せて、終戦後しばらくは工業教育に対する関心も薄く、本校に限らず、工業学校自体の存廃論が取りざたされる。

これに解決を与え、工業学校復興の意志を明らかにしたのが、県下の工業学校のための共同実習所を設置するという計画である。

戸塚区矢部町にあった藤村製作所では、戦時中リミットゲージ類を製作していたが、その工場内にある旋盤、フライス盤、研磨盤、ボーリングマシン、加えてアムスラーを始めとする試験機類、測定器類に山賀校長が目をつける。これを利用して、神奈川、平塚、横須賀、川崎の4県立工業学校が3ヵ月交代で生産実習を行うという案である。

内山岩太郎知事の支援を得て、藤村製作所を県で買収し、各校から工場専属の職員と実習指導員を派遺して1947(昭和22)年の12月から、実習授業が開始された。管理は4校校長による共同管理で、工場長は本校の山賀校長が務めた。職員は電気科、機械科併せて教諭4名、実習助手8名であった。

どの学校からも、通うにはそれなりの不便があったが、初めて本格的な実習ができるとあって、生徒たちは熱心に取り組んだ。とはいえ、生徒たちにそれぞれの本校での基礎実習が不足していたことは否めず、実習で生産された品物は期待ほどの市場価値を持つには至らず、生産面での成果はそれほど上がらなかった。

それでもなお、生徒に対する教育面での効果と、県における戦後工業教育の礎を築いたという点で、この試みは高く評価されるであろう。因みに、この実習工場で使われた電気設備には、横浜大空襲の直前に野球部部室に格納して危うく難を免れた本校の電動機や発電機があてられていて、電検三種の資格を取るに必要な実習を行うために大いに役立ったのである。

1951(昭和26)年に産業教育振興法が制定されると、各校の設備が年々改善される見通しが立つようになる一方で、この実習工場にはマイナス面が生じるようになってきた。財政的に見ても教育効果の面から見ても、各校の設備の充実に力を注ぐ方が得策なのであった。こうした状況をふまえて、1952(昭和27)年度末、当時横須賀工業高校校長で工場長を務めていた副島一之(後に本校4代校長)は総合実習工場の解散を決意する。使用していた機械と人員は各校に分配され、総合実習工場はその役目を終えた。

本校では、1950(昭和25)年3月、新たな実習工場が完成している。広さは図案実習室20坪、木工実習室30坪、木工機械室30坪、機械実習室40坪の計120坪(396㎡)、決して満足いくものではなかったが、それまで校地内に一つも実習工場を持たなかった苦労を思えば、その喜びは大きかった。竣工に先立って、当時の副校長岸田林太郎は「神工時報」第13号(昭和25年5月29日発行)にこんな思いを述べている。

「実習工場の竣工を前にして私の脳裡を先ず過ぎるものは、これに対して献身的な努力を払われた県教委、同窓会、PTA、職員会、生徒会の感激的な愛校の至情であり、特に深く銘記されるものは学校長の血のにじむ苦心と父兄諸氏の涙ぐましい努力である。昨年春のPTA総会の時だったと思う。

校長起って実習工場の緊急性を力説すれば、父兄代表これに応えて吾々は如何なる犠牲を払ってでも子弟に実習工場を与えようではないかと絶叫したあの情景は、新実習工場と共に永く記念されるべきものであろう。斯うした父兄の熱望と犠牲が県当局を動かし、その深い理解と尽力に依って立派な実習工場の竣工となった事は全く感謝の言葉もない。

新実習工場の柱一本、羽目壱枚もこれ皆県民及父兄の汗の結晶であることを思えば、吾々職員生徒たるもの安閑たるこを得んやである。畳の上の水練という言葉があるが今後け水の中に飛び込んで水練をなし得るのである。技術の修練け水泳と同じことだ。先ずハンマーを握れ。そこで疑問に逢善した時はじめて学科の必要性も肯定されるのである。大教剱制の旗印を高く掲げて邁進する本校工業教育も愈々軌道に垂るであろうことを祝福すると共に、ここに改めて実習工場の建設に努力された各位に深甚の謝意を表するものである」

この頃の校舎の様子はと言えば、後年の「神工時報」にこんな一文が掲載されている。

「当時、校舎は木造で、ゆかがぬけたり、雨がふると雨漏りがしたりした。だからもう少し良い校舎で勉強がしたかったな。それから、そのころは窓ガラスの盗難防止のために、ガラスというガラスには全部白ペンキで神工と大きく書かれていたので、できるだけ早くそれらをとってほしかったな」(「神工時報」先輩とひととき・機械科40回卒体育科教論・戸崎忠浩)

愛川分校と松田分校

戦後、教育の機会均等の立場から各地の高校で分校が設置されている。特に農山漁村部で交通の不便な土地に学ぶ場を保障しようというのがその趣旨あった。本校では1950(昭和25)年に愛甲郡愛川町に愛川分校(染織科)、足柄上郡松田町に松田分校(建築科・木材工芸科)を設置する。両校とも昼夜間定時制であった。愛川分校開校のいきさつを引用する。

「たまたま昭和24年県教育委員会より高等学校の分校を僻地に設置する提案があり、山賀辰治前校長は繊維の町愛川に、県下の染織課程を設立することは、県北産業の発展に資するものがあろうと、考えられたのであります。当時の愛川町長大貫和助氏はこの新案を知り早速産業界有志並びに隣接町村の賛同を得られ、計画は極めて順調に進み、同年12月に至り工業学校分校設置の要望を県当局に陳情されたのであります。

翌25年3月愛川町に設立が決定し、愛川中学校内に仮事務所を設け、大矢良元校長を中心として、定時制(修業年限4年染織課程、昼夜間部生徒50名)の募集が開始されました。4月1日神奈川工業高等学校愛川分校として開校、半原の県立織物指導所内に移転し授業を開始しました。他の分校と同様狭小なる山間に開設された高等学校であり珍しく、且つ将来の充実発展をも期待し、入学生徒数は一時40余名に達したのであります」(50周年記念誌「愛川分校の追憶 旧職員 萩原静夫」)

その後、独立した校舎の必要性を感じた愛川町と近隣町村の協力で、1952(昭和27)年6月には愛川町半原字隠川に木造平屋建、瓦葺きの校舎が落成した。当時の学校の様子を引用しよう。

「新校舎は小規模ながら隠川台上に起立し、眼下に曲析した中津川の渓流を望み、背後に落葉樹林の山嶽が聳え、洵に風光佳なる自然の環境でありました。狭くも運動場あり、生徒は球技などを楽しみ、かって北相地区高校球技大会に出場し、バレーにおいて優勝した喜びもあります。又春はワラビ狩り、夏は鮎漁会、秋はキノコ狩りの行事を実施し、都市では味わえぬ本校のレクリエーションでありました」(同)

この頃、町当局や近隣中学そしてPTAからは、定時制課程である分校を全日制へ切り替えることを望む声が強かった。県への請願・陳情が何度か行われたが、実現を見ることはなかった。1955(昭和30)年には愛川町の全額寄付によって染織実習のための実習工場も完成し、産業教育振興法に基づく補助金で織機が据えられる。

また本校から校舎を移設し工場を増築するなど、施設の充実に力を尽くす一方で、早春から職員全員が手分けをして津久井、愛甲郡下の各中学に学校内容の宣伝に赴くなどして生徒募集に努力を重ねた。しかし、人学者数は減少の一途をたどることになる。理由としては地域の人口が少なく中学卒業者数にも限りがあるなかで勤労青少年を対象としなかったため応募者が減少したことや地元産業の不振、設備の不備などがあった。

1957(昭和32)年度末を以て生徒の募集が停止され、1960(昭和35)年、3月第7回卒業生を送りだすと10年の歴史に終止符を打つ。

愛川分校全景

松田分校全景

全日制課程へとの要望が強かったのは松田分校も同様であった。

「私が松田分校主任として赴任いたしましたのが昭和28年3月で、以来地の利を得て発展の一途を辿りましたが、ここの分校生徒も真の勤労青少年が皆無という状態であり、父兄の切なる要望により赴任そうそう通常課程切替え運動が開始され、県当局へ文部省へと陳情すること幾度かありましたがなかなか実現の運びに至りませんでした。

この間考えさせられましたのが先づなにより施設設備の充実こそ通常課程への切替えのポイントであると考え松田町当局は勿論のこと、関係市町村、PTA等の物心両面の多大な御支援援助により、実習工場一棟(五十坪余)を職員生徒の努力で竣工させました。

同工場の内壁モルタル仕上げのところが物語るように生徒諸君の手によって作られたものであるので、凸凹であり当時の苦心を雄弁に物語っているようであります。その後県当局のご理解により、理科実習室、準備室、製図室と続々施設設備の拡充に伴い、ついに昭和35年4月1日より待望の通常課程(建築科40名)を募集するに至りました」(同)

1961(昭和36)年秋には建築科実習室(木造33㎡)も完成するが、この年に開校した県立小田原城北工業高校への移転統合のため、翌1962(昭和37)年から松田分校建築科としての生徒募集は停止された。1963(昭和38)年、小田原城北工業高等学校への移転統合を以て、松田分校は発展的解消という形で幕を閉じた。

女子生徒

本校に初めて女子生徒が入学したのは、記録によれぱ1945(昭和20)年4月。機械科と電気通信科にそれぞれ25名が入学した。戦争末期で教室にも不自由していたが、既に閉鎖されていた二渓寮を利用して、2教室を作り対応した。空襲が激しくなる中、初めて迎え入れた女子生徒への気配りは、相当のものであったようだ。そのために、新しく女性の教員も採用された。

横浜大空襲で校舎が焼失してからは、連絡や通学が困難になったために退学したり、終戦後、女子の学校に転入させたりして、卒業までには至らなかった。次の女子生徒の入学は、新制高校発足後のこととなる。それでも、工業高校という性格上、女子生徒の数は圧倒的に少ない。女子生徒にとって居心地のよい環境を整えることは、共学が当たり前のこととなっても(なったからこそ)課題であったようだ。1960(昭和35)年12月24日「神工時報」にこんな記事がある。

「〈女生徒の希望を聞く会〉開かる

さる10月13日のHRの時間に全校の女生徒と生徒指導の村田先生と丸井(DⅠ担任)岩富(DⅢ担任)各先生が本館2階の図書室に集まって女生徒の希望を聞く会が開かれた。この会は、村田先生が本校の女生徒は40余名の少人数なのでとかく女子の意見や希望は無視されがちなのを考慮して設けたものである。

10月13日の会合では、服装のことで、制服を定めるかどうかということが話し合われ、色は学校の方針で紺系統にして形は一定の基準を設けるということに意見が一致した。同時に今後の会の運営は3年の女生徒が主になってやっていくことが申し合わされた。なお第2回目の会合は191月16日の放課後に図案科3年ホームルームの隣の室で3年の女子を中心に集まり懇談会が開かれた。その時、3年の男子生徒らに「女生徒をからかうのはやめてほしい」という意見が出た。また、「今後この会を続けていってもらいたい」というある女生徒の意見があった」

当時、女子の制服として定められた形はなく、女子の制服として正式なものが定められたのはさらに35年後、1995(平成7)年校舎の建て替えとともに男女揃って新しい制服が制定されるときのことであった。

校長の海外視察

県下の工業教育のリーダー的存在を期待される本校の校長は、何度か海外視察の機会を得ている。古いところでは1922(大正11)年秋山校長の中華民国視察があげられるが、戦後も第3代山賀校長と第4代副島一之校長が海外視察を行っている。

当時全国の工業高校校長が「産業教育振興法」の立法化運動に奮闘する中、山賀校長は、1950(昭和25)年、アメリカの招聘でアメリカ各地の工業教育を視察する。文部省による職業教育振興のための第3次教育使節団の一員としてで、工業高校の校長としては他に愛知工業高校の草ケ谷校長が参加している。

期間は10月24日から翌年2月8日までの3ヵ月半にわたった。副島校長は1961(昭和36)年、日本生産性本部から欧米視察に派遺されている。この時、副島校長は団長を務めた。団長自らがJPET(Japan Productive Education Team)と名付けた一行9名は1月4日、羽田から空路サンフランシスコに渡るとアメリカ各地の工業高校、工業大学並びに工業地帯の見学を行った。2月10日にワシントンで報告会を行った後、副島校長はさらに工業技術の視察のためヨーロッパヘ赴く。帰国後、『神工時報』に寄せられた報告から抜粋する。

副島校長 アメリカ・ヨーロパ記 専門教育徹底の外国

ロサンゼルスの学校、機械科(機械工作だけ)金属(メロウと聞こえる。溶接板金)印刷科(モノタイプ製版・写真版等)エレクトロニクス(ラジオ)タイプライティング等、みな手の技能に精出している。

ヘガースタウン(マリーランド州)有線テレビで48校をつなぎ、郡教育委員会にテレビ放送局専任教師20数人を置いている。放送局スタジオと小学校のフランス語、音楽のテレビ授業を見る。テレビの先生、教室の先生、生徒の三者、よく呼吸が合った的確な授業。高校の数学などもやっているが成果は疑問。

英国は工場に通っている青年を必ず学校に出さなくてはならない。3か月工場、3か月学校というサンドウイッチ方式に大変力こぶを入れて技術者養成につとめている。

ドイツのエッセンの工業学校・校長フィッシャ博士がいちいち実験装置を操作して熱心に案内。セラミック科(やき物から出て、半導体まで)原子核科など。アメリカの工高には機械電気と並んで食物・タイプ等もあるが、ドイツでは機械・電気の学校と建築・工芸の学校はハッキリ別の学校。ここも工場に勤めながら上級の勉強するのが本筋。