創立100周年記念誌 100年の足跡 神奈川工業高校(2)

創立100周年記念誌 100年の足跡 神奈川工業高校(2)

創立100周年記念誌「二渓の風に乗って」100年の足跡 「神奈川工業高等学校」としての歩み(2)です。

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創立50周年記念行事

「終戦直後、わたくしども工業教育関係の校長が県庁に呼ばれました時に、これからは日本は農業国になるのだ、デンマルクを見本にして平和国家を建てるんだ、工業などは、なべ、かま、すき、くわ位をつくるもの程度あればよろしいのだということを聞かされたが、わたくしどもは、とんでもない、これから本当の工業を興さなくてはならないのだ、ということを口をそろえて申しました」

1961(昭和36)年、創立50周年記念式典における副島校長の挨拶の一節である。敗戦当時、校地・校舎どころか、「工業学校」の存続すら危ぶまれた有り様が語られている。1945(昭和20)年5月の横浜大空襲で壊滅的な打撃を受けて以来、終戦直後の米軍による校地接収、他校の施設を借りての分散授業、バラック仮校舎の時期を経て、ようやく昭和34年の鉄筋コンクリート建て本館の竣工を見るまでの道のりは長く険しかった。こうして迎えた創立50周年は、様々な形で本校にかかわってきた人々にとって感慨ひとしおであったにちがいない。5月13日から15日にかけて行われた創立50周年記念行事は盛大なものであった。

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創立50周年記念の
体操選手による模範演技
創立50周年記念時の正門 記念式典
展示会 芸能祭

 5月13日(土)

 記念式典 午前10時 講堂記念式

 次第

開会の言葉

国歌斉唱

記念会長あいさつ

功労者表彰

感謝状贈呈

祝辞被表彰者代表あいさつ

校歌斉唱

閉式の言葉

 展示会(機械科・建築科・電気科・電気通信科・

 木材工芸科・工芸図案科・電子工業科による)

式後来賓のみ

祝賀会 午後1時 本館二階会議室(来賓)三階社会科合併教室(職員)

 芸能祭 午後1時~4時 講堂

 5月14日(日)展示会 午前9時~午後6時

PTA祝賀会 午前10時 講堂

同窓会総会および祝賀会 午後1時 講堂

芸能祭 午後4時40分

プログラム

合唱音楽部

校歌スリコ、ドニエプル河の嵐、箱根の山、若人の歌歌唱指導:北上夜曲

吹奏楽 ブラスバンド

軍隊行進曲、スワニー、西部の人々、ワシントンポスト、日本民謡集、コバルトの空、他

劇 演劇部

海の底の6人

招待試合 テニスコート

 5月15日(月)展示会 午前9時~午後3時

体育館開き 午後4時~5時

期間中は、生徒会各部の活動成果を紹介するクラブ展も行われた。会場となった講堂兼体育館は、記念事業の一環として、総額1800万円の建設費用のうち約450万円を講堂納付金の名目で県に寄付し、同年3月31日に竣工したものである。3回に分けて行われた祝賀会には述べ1390人ほどが参加し、半世紀の歴史をかみしめた。また、15日午後の体育館開きでは、オリンピック・ローマ大会(1960年開催)候補選手を含む男女9名の模範演技(徒手体操・鉄棒・平行棒・段違い平行棒・鞍馬・跳馬・マット運動)が行われている。

プールの完成と水泳大会

1962(昭和37)年3月、本校に初めてプールが完成する。それまで学校内にプールが無かったため、子安海岸や本牧海岸で行われていた水泳指導は太平洋戦争中、六角橋プールに場所を移して続いていた。25m、6コースのプールが校地南西の隅に完成したことで水泳の授業や部の活動は格段に便利になった。

水泳大会は1985(昭和60)年になると、場所を元町公園プールに移して行われるようになったが、1991(平成3)年7月に行われたのが最後となった。校舎の建て替えに伴い屋外プールの取り壊しが行われたことや、その後水泳の授業が選択になったことが重なって、復活することがなかった。

電子工業科の新設・工業高校の大増設・入学定員の増員

1956(昭和31)年7月発表の「経済白書」には、「もはや『戦後』ではない」との有名な一節が記されている。戦後の不況に喘いでいた日本の工業界も、1955(昭和30)年頃にはじまる高度経済成長に伴い隆盛を迎えると、工業技術者の需要数が急激に増加し、その確保に困難を極めるようになる。加えて新技術の開発や導人に伴って工業技術の内容も大きく変容した。

1960(昭和35)年には「国民所得倍増計團」が閣議決定されるが、それによれば、その後の10年で工業高等学校卒業程度の中級技術者の数は約44万人不足することが予測されていた。これを受けて、文部省は機械、電気、工業化学、建築、土木に関する学科を中心に、工業高等学校の入学定員を6年間で85,000人増員することを計画する。

戦後のベビーブームで誕生した世代が高等学校進学を迎える時期でもあり、高等学校生徒急増対策もあわせての施策であった。こうした中で、1962(昭和37)年4月1日付で、神奈川県立磯子工業高等学校が本校内に開校する。このほか県下では、小田原城北工業高等学校(1961年開校)、向の丘工業高等学校(1962年開校)、相模台工業高等学校(1963年開校)と、工業高校の開校が続いた。小田原城北工業高等学校の開校に伴って、翌々年、本校の松田分校が統合され閉校したことは前述のとおりである。

磯子工業高等学校は翌1963(昭和38)年10月1日を以て横浜市磯子区に移転するが、この年の4月、人学志願者の激増に対する措置として、本校の定員が1割増員されているのもこうした時代の反映である。木材工芸・工芸図案の2科を除く各科で増員が行われ、電気科は1学級(44名)増の定員88名となった。

1958(昭和33)年4月から本校に新設された「電子工業科」についても記しておかねばならない。当時、電子工業科を設置しているのは全国でも神戸と徳島にそれぞれ1校だけであった。新たに設置を希望する学校は多かったものの、設備その他の問題から結局本校に設置されることになった。正式に決定したのが1月下旬。全国的に注目を浴びる新設学科であったが、復興の途上にあるなかでその準備は容易なものではなかったはずである。「神工時報」では、新しい科の内容について、次のように紹介されている。

「基礎理論を目的に

科の内容としては通信科に似ており、兄弟のような科と想像していただきたい。異なる点は通信科はいわゆる弱電であって、電気を自由に使いこなし、有線、無線、外に電波を発する事によって通信をし、又その機械、成立を理解する科であるが、電子工業科は電子管(真空管)を使い、神経や頭脳のような働きをさせる、いわゆる電子管やトランジスターを用いた電子装置、電気計測器などの基礎理論を学ぶことが目的である」

この電子工業科は1964(昭和39)年の4月から「兄貴分」の電気通信科と統合される形で「電子科」(2学級・定員80名)として新しいスタートを切った。

産業デザイン科の誕生

時代の要請を受けてという点では、1966(昭和41)年に誕生した「産業デザイン科」にも同様のことが当てはまる。齢時中、廃科になっていた木材工芸科と工芸図案科は、新制高抑の発足と共に復活するが、1961(昭和36)年当時の両科の教育課程(専門科目)には、「工業デザイン」「工業経営」「億築一般」「機械・電気」(木材工芸科)・「工芸計画」「写真印刷‘(工芸図案科)等の名称が見られる。産業界の変化に伴って、教育内容も木材加工や家具製作、美術的なものから、新しい貳のへと変わりつつあった。木材工芸科と工芸図案科が学科の改変によって産業デザイン科として新しいスタートを切ったのは、名実共にこうした変化に対応するためであった。産業デザイン科設置当時の工業科目には「意匠製図」「絵画」「彫塑」などの他に、「工業デザイン」「商業デザイン」「材料工作」「写真」「印刷」などの科目が並んでいる。

1969(昭和44)年定時制

「神工時報」には「ある高校生たちの断面」という囲み記事の連載があった。1969(昭和44)年2月発行の紙面には全日制新聞部生徒の目で取材した、当時の定時制の様子が掲載されている。翻って、自分たちの学校生活を見つめているところもなかなか興味深いので、長くなるが引用する。

「現実に接した生活 厳しい生活、多い退学者

冬の日没は早い。5時ごろになるともう、周りは薄暗い。帰途につく全日制の生徒の影が東白楽駅に向かう中を、ポッリ、ポッリ学校に向う影がある。神奈川県立神奈川工業高校定時制の生徒たちである。

われわれ全日制生徒に一番身近な高校生でありながら、なぜかわれわれは定時制のことを知らないでいる。昼は働き、夜は学校へきて勉強するという、一人二役のような生活をしている彼らであるので、朝早くから出勤し、夜は四時間目終了が8時55分、それから帰途についても家につく時間は、9時半から10時すぎの人も多い。では、なぜこんなにしてまで高校へきて勉強するのか、その理由は人によってさまざまだった。

ある生徒は、次のように答えてくれた。今の世の中は、大卒が常識になっている。こんな社会では中学卒などといったら、どこまで昇級できると思う。最近実力主義の傾向が強くなってきたといわれているけど、まだ、学歴中心じゃないか。俺の家は、君たちみたいに経済力が豊かじゃない。かといって、奨学金がもらえるほど俺は頭もよくない。それに、奨学金なんて月給にくらべりや話にならないほど少ないじゃないか。

俺一人生活できないもんな。だから、この学校へきたのは、もちろん実力をつけるために工業を選んだんだけど、学歴がほしいから、というのも一つの理由だな。また、ある生徒は、つぎのようにもいう。僕は機械いじりが好きなので、中学を出てから、ある工場に働き、定時制の機械科に入った。学校の勉強は、大変だが、続けるつもりだ。

現在、定時制には約670人の生徒がいるという。昨年11月には695人が、今年の1月には680人に減っている。年間20~30人は退学していく。退学者はやはり、1年生に多く、上級生になるに従ってだんだん減っていくという。1年生では、いままでの義務教育の生活から、急に厳しい現実に接し、耐えられなくなるのであろう。その点、われわれ全日制はどうだろうか。ただなんとなく学校へきて、なにもやらずに家に帰り、テレビを見て過ごす。彼らの生活は、こんな甘いものではない。もっともっと現実に接しているのである。

定時制には9つの文化部と、12の運動部がある。クラブ加入者は、多い時でも100人程度だという。もちろん、この中には俗にいう幽霊部員も含まれている。いや、むしろ幽霊部員の方が多いようである。活動も不活発だというが、9時頃まで授業があるのでは、どうしようもあるまい。ほんとうに好きな人、やる気のある人だけしかクラブ活動はできない状態なのだ。いくらやる気があっても、肉体、精神的疲労や、時間の束縛によって、勉強ができず、退学する者もいるという。

彼らの授業態度は、欠席者が毎日10人程度。われわれでもクラブで夜遅くまで残っている生徒はよく見ていると思うが授業中に居眠りをしている者が、数人いることは否定できない。(これらは全日制も同じ)しかし、やっている者はやっているのである。昼間働いて疲れた体で夜また勉学にはげもうとする真剣なまなざしが、講義の先生にも向けられている。いま、一番人数の多いクラスは、建築2年。定員40名中在籍38名だという。そんなクラスでも、一日の出席者は、30名前後だそうだ。教科別に出席状況を見た場合、普通教科よりも専門教科の方が出席率が高いという。そんなところにも、彼らの、専門科目に対する勉強の意欲というものが感じられる。しかし、その反面、役に立つ教科だけ勉強するという、社会人らしい、現実的な態度さえ感じられた」

ひと足早く社会の荒波にもまれながら勉学を続ける当時の定時制の生徒の姿は、全日制の生徒にとっては、社会への「窓」でもあった。

遅刻と「脱帽登校」問題

同じ紙面には、特集として全日制の生徒の「脱帽登校」問題が大きく扱われている。当時の校則では、男子生徒には詰襟の制服と制帽を着用して登校することが定められていたが、この頃になると遅刻と並んで帽子を着用せずに登校する生徒の事が例年生徒議会や教員の指導委員会で問題となっていたようである。

新聞部のアンケートによれば、8割を超える生徒は制帽を着用して登校しており、着帽の必要性を認めるという回答は4割強、帽子を被って登校することにも4割を超える生徒は特に不満を感じていないと回答しているが、着帽制に反対するものとしては「戦前の軍国主義政策の遺物であり、全体を画一化する必要はない」服装や帽子の規定は「自由主義に反する。形式主義は伝統にかじりつく神工に真の発展をもたらさない」などの強硬意見も紹介されており、社会の趨勢に敏感な当時の高校生の一端をうかがうことができる。

学校の回答として「生徒からの強い要望がおこれば、今年度は無理であるが来年度にはそのことについて積極的に検討してみてもよい」との立場が示された。

記事は次のように締めくくられる。

「生徒諸君だまっていては規則は変わらないのだ。もっと積極的に行動し発言して、もう時代遅れとなった規則をもっとよい方向へと変えるように努力しようではないか。君たちが本当にその必要性をみとめないなら」

「脱帽登校」問題は翌年の紙面でも取り上げられており、教員や生徒にとっての大きな関心事になっていたようである。一方遅刻問題は、「これでよいのか神工生」の大きな見出しが日を引く。

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 写真 昭和29年2月26日 建築・木材工芸科実習工場竣工式
同 上

昭和28年5月に竣工した機械科実習工場と昭和29年1月、建築・木材工芸科実習工場が竣工した後

昭和29年9月竣工の第1期工事の校舎と建築中の北館(31年2月竣工)

昭和31年頃の北館完成後の校舎南館への連絡橋入口が見える

昭和33年1月竣工の南館まだ手前の本館(4階建て)できていない。この状態で左側のバラックに校長、事務部門を残して生徒は33年5月に新校舎へ移動した

昭和34年12月竣工の本館と校長室、事務部門が入っていたバラック建て校舎

昭和35年頃、体育館建築前の校舎全景

昭和35年頃の校舎全景、講堂兼体育館が建築中

昭和36年3月竣工の講堂兼体育館

「最近特に校内で問題になっている、遅刻問題、授業、学習について、特にあまり芳しくないことを生徒自身も気がついているし、先生方も痛感しているだろう。やがて今年も卒業式、終わると新入生が360名入学してくる。とかく後輩は先輩の悪い方が目に付きやすい。三年生は社会に巣立っていくにあたり、また在校生はいま真剣にわれわれの学校をいや生徒自身の心のゆるみを締め直さなければならないのではなかろうか」

1968(昭和43年秋、遅刻者の多きを見かねた生徒会の統制委員会が自主的に調査と「取り締まり」に乗り出す。以来4カ月、遅刻者の数は3分の1ほどに減ったようだ。

校舎復興の完了

1969(昭和44年7月、機械科実習室と建築科実習室の増築工事が終わる。本校の戦後の校舎の復興も、工業教育に欠かせない実習室が整ったことを以て、完結したといえよう。校舎復興の足跡をたどると、およそ次の4段階に大別することができる。

(1)昭和22年の仮校舎竣工から、昭和25年の実習工場竣工まで

(2)昭和27年の鉄筋本建築第一期工事から、昭和29年の実習工場建築まで

(3)昭和31年の北館一棟竣工から、昭和33年の商館、昭和34年の本館竣工まで

(4)昭和36年の体育館竣工より、昭和44年の機械科、建築科実習室増築まで

(1)、(2)の時期はまさに戦後の混乱からの復興期に当たり、計画の実現は文字通り関係者の東奔西走の働きによるものであった。(3)期になると経済の復興にしたがって県の教育予算も増額され、当初ブロック2階建てという予定であった商館が北館と同様鉄筋3階建てに設計変更された。また、翌年着工した本館は技術革新、オートメーション時代を反映して、単なる管理棟としてではなく電子科の設備を収容できる鉄筋4階建て校舎として竣工する。一方で昭和22年以来のバラック校舎とも完全に別れを告げた。(4)の時期には新しい武道館(柔剣道場)の建設と、それに伴う相撲場・部室の移転なども順次行われる。新しく建設された武道館については、「神工時報」82号に詳しい。

「新しい武道館の工事が昨年の11月18日より開始された。これは県が全額716万円の工費を投じている。武道館は鉄骨平屋建て、鉄板葺きで、建坪300平方メートルの内、床面積は240平方メートルと大きくて、柔道場または剣道場として使用したり、真中に間仕切りを取り付けて、柔道場と剣道場として両方使用するようになっている。

その周りには高さ5センチメートル、幅80セ80ンチメートル位の廊下がつけられる。付属施設として、20平方メートルの玄関、同じく20平方メートルの脱衣場、器具庫がつけられ、玄関には靴置場が、脱衣場には簡易ロッカーが約50程度取り付けられる予定。なお新しい武道館ができると古い武道館がいらなくなるので、それを取り壊し、そのあとにまた新しく部室と相撲場がっくられる計画になっている。

部室の方は、まだ検討中だがこれが決まり次第、工事が始められることになっている。部室の部屋割りの方は、図面によると、一階建てになり、部室の部屋数は21室位で、この部屋の大部分は、運動部が割当てられることになっており、その他に暗室、シャワー室、同窓会室、管理室、集会場、全定自治室、トイレ、その他ができる予定で部室1室の大きさは縦2.7メートル、横3.6メートルの8.7平方メートルと非常に狭い。相撲場の方は、今建設中の武道館の敷地にあったのが、古い武道館の隣に移され、部室が完成次第、その隣に移される予定」

部室は、生徒会活動やクラブ活動が活発になるにつれて校舎内の階段脇の小さな部屋などを全て活用しても数が不足するよぅになっていた。複数の部活が同居するなどの苦労をしてやりくりしていたため、新しい部室棟の完成を生徒職員は待ち望んでいた。1968(昭和43年5月に竣工した「生徒会館」は広さ394,262m。工費1,186万円は全額寄付によってまかなわれた。

給食棟の完成

1972(昭和47)年3月、それまで職員の手がけた花壇が四季折々の花を咲かせていた中庭の西隅に、新しく給食棟が完成する。定時制の生徒の給食のために、県費で建設されたもので、全日制の生徒も食堂として利用することができるようになった。それまで長い間、北棟中央の地下室が食堂として使われていた。ここは、もともとボイラー室として運転実習を行ったり、発生した熟を利用することを計画して作られた地下室であったが、結局ボイラーは設置されず、改造して食堂として使われていたのである。

湿気が多いのに加えて採光も悪く、おまけに手狭で昼休みには生徒の長い列が階段にまで連なっていたため、食堂の新設は生徒皆が望むところであった。新しい給食棟の完成に伴い、古い地下食堂は閉鎖され埋められた。

マラソン大会の変遷

全校生徒でのマラソン大会の歴史は古く創立直後まで遡ることができるが、戦後になって、学校周辺の道路は危険が伴うため、三ッ沢競技場周辺をコースとして行われることがしばらく続いた。5月の新入生歓迎マラソン、1月には卒業生送別マラソンと年2回開催されていたが、次第に自動車の交通量が増加し、三ッ沢競技場周辺もマラソン大会には適さなくなってきたため、1971(昭和46)年からは鶴見川河畔のサイクリングコースでおこなわれるようになる。更に1980(昭和55)年には場所をこどもの国に移して実施された。サイクリングコースの道幅が狭く、混雑時には危険を伴うこともあったため、一般の人々の通行に配慮してのことであった。

マラソン大会は2004(平成16)年まで続いたが校務組織の改編等の影響や、安全対策の問題もあって姿を消した。

2期制から3学期制へ

1977(昭和52)年、それまでの2期制が、3学期制に改められる。そのいきさつについては「神工70年史」に次のような記述がある。

「戦後の新しい教育方法を実施するなかで、それまでの3期制を改めて前期・後期の2期制とした。これは卒業学年の3学期は、ほんの僅かの授業時数しかないことが大きな理由であった。2期制では9月に前期が終わり10月1日が後期の始業となる。年間のテスト回数も3期制より少なくて実際に授業できる日数が多くなったり、夏冬の休業直前にあわただしく成績を出さなくてすむなど幾つかの利点が凍った。しかし夏期休業あけの9月早々に前期末テストがあったり、テストの間隔が大きいことなどは、だんだん生徒の学習実態とうまくかみ合わなくなってきた。そこで高校では県内でも稀な例として残っていた2期制(大学は大部分が2期制)を廃止することになった」

以来本校は現在まで3学期制を継続しているが、1992(平成4)年に週5日制が完全実施されるのに伴って、他の県立高校では授業時間確保を目的に、逆に3学期制を2期制に改める動きが見られるようになった。

この時期、修学旅行の実施時期についても検討が加えられている。それまで、3年生の秋に行われていた修学旅行を2年生の秋に変更して実施したのは、1971(昭和46)年のことである。

「3年生になると間もなく就職試験があり、それが秋まで続く状況があった。天候のおちついた秋、文化祭の準備にも影響しない頃に修学旅行を実施するのが常であったがどうしても就職試験の関係で参加できない者もいて、早い時期に行ったこともある。思いきって2学年で実施することになったが、この年は、3年生、2年生と2度の修学旅行があった」(神工70年史)

しかし、就職試験が10月に固定されたのに加えて、1976(昭和51)年に、体育祭の実施が秋に変更されたこともあって、翌年から修学旅行は3年生の春に実施されるようになった。1991(平成2)年度、2年生がスキー修学旅行を実施してからは、2年生の冬に出かけることがしばらく続くが、その後3年生の春に実施する形に戻り、現在に至っている。

校舎再建計画と県への要望書

戦後長い期間を経て復興発展を遂げた本校の設備も、20年余りを経てさすがに老朽化が目出つようになってきた。日進月歩の技術革新に対応することのできる充実した工業教育を保障するためには、設備の充実が焦眉の急であった。創立70周年を3年後に控えた1978(昭和53)年3月、「70周年構想委員会」が発足し、70周年を機会に教育環境を根本的に改善するために、校舎の再建が検討された。同窓会・PTAと共に全面的な建て替え(新築)を目標とした要望書が提出されるが、折から神奈川県は1973(昭和48)年から始まった「百校計画」の最中で、既設の高校の建て替えに予算を割く余裕はなかった。再度「学校施設改善についての要請」が11月8日付で提出された。

「本校は本県工業教育の発祥の地として輝かしい歴史をもち、幾多の人材を世に輩出し、また全国的にも有数の工業高校としての自負を持っております。しかしながら正直いって教育環境は今となっては県下でも劣悪な状態であろうと思います。3年後の昭和56年には、70周年を迎えようとしておりますだけに、県当局におかれましては本校の窮状について充分ご理解をいただきたく校舎、体育館、運動場の整備改善にっいて格別のご検討ご援助を賜りたく学校関係者連名でご要請する次第であります」(「学校の施設改善への要請」より)

1980(昭和55)年には、グラウンドの整備工事、1990(平成2)年には本館を除く外壁のリフレッシュ工事が行われたが、本格的な校舎再建計画は実現を見なかった。

創立70周年記念行事

1981(昭和56)年5月9日、創立70周年記念式典が行われる。また、70周年を記念して「神工70年史」が刊行されている。当時の校長であった大木茂松(第7代)は「刊行にあたって」と題して、次のような文章を寄せている。

「本史は当初50周年記念誌に続くものとして企画したが、作業にとりついてみて、これから10年後、つまり満80年を考えたとき、戦前の過去を体験し、事実を知るものが皆無に近いことを思い、ここで創立にさかのぼり、70年間をつぶさにふりかえり、まとめておく必要を感じた。紙面の制約や資料調査の不備もあるが、本史が後日、神工の歴史を回顧するときのよすがとなれば幸いと思う」

70周年記念誌

1990年、横浜商業に敗れ、惜しくも準優勝し表彰式

004年、横浜隼人を破り決勝進出を決める

詳細な年譜に、過去の記念誌の記述や、卒業生、古くから在職する職員の証言を添えたこの冊子は大木校長の言葉どおり、神工の歴史を語る貴重な資料となっている。

野球部県選手権大会2度の準優勝

強豪校がしのぎを削る神奈川県で、戟後、夏の選手権大会2度の準優勝を成し遂げた野球部の活躍は記しておかねばならないだろう。

1990(平成2)年7月30日、第72回全国高校野球選手権神奈川大会の決勝戦は共に公立校同士の対戦となった。横浜商業を相手にエースの左腕吉田は6回まで打率3割3分を誇る強力打線を零封の好投を見せるが、それまで2試合を投げ抜き試合前から痛みの走る肩は遂に7回に限界を迎える。試合は1対3の惜敗だったが、吉田は試合後のインタビューに「決勝戦でしかも相手はY枚、これ以上の試合はありません。満足です」と答えた。当時監督を務めていた建設科教諭の高橋唯吉は、この時のことを90周年記念誌の座談会で次のように語っている。

180センチメートルを超える選手が5人もチームにいました。こうした大型チームが準優勝の要因でした。グラウンドには恵まれていませんでしたが、道路反対側のお寺の私有地の坂道を借りて、足腰を鍛えました。ピッチャーにはランニングを毎日させました。本校は夏の試合では強くなく、実力は平年ベスト16ぐらいの力だったと思います。ピッチャーは130kmぐらいの球速で、パームボールが武器でした。これで横浜高校の鈴木選手(後にベイスターズ)以外は抑えることができました。打撃陣は川崎北高との準決勝戦で河原投手(後にジャイアンツ)を2回で降板させました。決勝戦では神工が押していたのに本当に残念でした。

2004(平成16)年、86回大会でチャンスはもう一度やってくる。この年、神工野球部は、ノーシードながら2回戟鶴見工業を13対0(5回コールド)で下すと、多摩(3回戦・6対1)武相(4回戦・4対3)平塚学園(5回戦・5対2)と勝ち進み、さらに準々決勝では横浜創学館(6対4)準決勝では第1シードの横浜隼人(4対11)に快勝し、14年ぶりの決勝戦で神奈川県下195校の頂点を争うことになった。対戦相手は好投手涌井(現西武ライオンズ)を擁する強豪横浜高校。4回戦以降、坂間・後藤投手の継投策と効率のよい攻めで勝ち進んできた神工チームだが、決勝戦では、初回スクイズで先制されると、さらに2回、4回と犠打で追加点を許し、5回には連続長打で4点の大量失点。涌井の好投に12対0の完封負けを喫した。しかし、その戦いぶりには称賛の声が送られた。

9回1死。代打で送ったのは今大会活躍した本杉、萩原の両2年生。西野監督がいう。「もちろん、ここまで頑張ってきた3年生を出したいという気持ちはあった。だが、かれらはきっと分かってくれているでしょう」王者の力を感じての大敗。神奈川工業はしかし、私学勢を破ってきた挑む姿勢を最後まで捨てなかった。(「高校野球」神奈川グラフ2004決勝戦を振り返る より)

新体育館竣工・創立80周年記念式典

1991(平成3)年、体育館の建て替え工事が行われる。創立50周年記念事業の一環として建設された旧体育館は、戦後の校舎復興のシンボル的存在でもあったが、30年間の役目を終える。校地南東側に新たに竣工した新体育館は鉄筋コンクリート3階建てで、面積は2,831.402m、1階には柔剣道場のほか、それまで校地の南西にあった土俵が移設され、ミーティングルームも設置された。この工事に伴って、1991(平成3)年度の体育祭は秋の実施が難しく、6月4日に時期を移して開催された。その後、校舎の建て替えの影響もあって、自校のグラウンドで再び体育祭が実施されるのは1996(平成8)年9月30日のこととなる。創立80周年式典は、この体育館の落成記念を兼ねて1992(平成44)年、1月18日に行われた。式典は午前10時からの第1部(全日制対象)と午後6時からの第2部(定時制対象)に分けて行われ、1部では「落語」、2部では全日制吹奏楽部のステージがそれぞれ記念行事として披露されている。

新築された体育館

戦後教育課程の変遷・「紀要」より

1976(昭和51)年12月発行の、神奈川県立神奈川工業高校「紀要」第1号は、当時の大木茂松校長の「あの頃のこと」と題した巻頭言から始まる。

研究集録を出そうという語は先頃から開いていたが、愈々発刊の運びとなったことは大変よろこばしいことである。生徒には常日頃学校は勉学の場であるとはいっても、教師に勉強の姿勢がなくては、その言も 迫力に欠ける。この小誌が「売家と唐ようでかく三代目」としないようにしたい。(後略)

アカデミックでありながらも、決して自己満足に終わらず、日々の実践に役立つものにしたいとの想いがうかがえる。理科教諭中島弥平氏の筆による編集後記には、以前存在した教師にょる研究論文集を、この時復刊させた事情が次のように記されている。

私が本校に着任した10数年前には「紀要」が発行されていた。いまでは50歳前後の人たちが自分の専門分野の研究論文を載せていた。それもいつの間にか消えてしまった。2、3年前からそう専門的に亘らないで高校教育に直接かかわる研究成果を印刷物として発表したい、それが本校に於ける教育研究の刺激となりより一層の発展に役立つだろうと考えていました。そうした発想で教育振興費の中にその予算を組みはしたものの編集作業の中心になるべき役割の人が決定していませんでした。そのため、そんなことを語り合った2~3の人が呼びかけて原稿を募集して募ったものをまとめました。(後略)

1992(平成4)年1月発行の第14号までが保存されており、論文のテーマは授業研究、生徒指導の在り方、生徒の健康から各自の専門分野の研究成果までと多岐にわたる。第7号(1983年5月発行)に掲載された、「本校の教育課程略史」(長谷川豊二は創立当時からの本校の教育課程の変遷をまとめたものであるが、戦後の教育改革から当時までの部分を再録する。

工業高等学時代の教育課程

昭和22年3月、教育基本法、学校教育法、同施行規則が公布され、戦後教育の基本原理と学校体系が定められ戦前の工業高校は、高等学校として、昭和23年4月に発足した。ここに現在までの教育課程のうつりかわりを、まとめてみると、つぎのようになる。

昭和23(1948)年度改訂…暫定的なもの

昭和24(1949)年度改訂

昭和31(1956)年度改訂

昭和35(1960)年度改訂…昭和38(1963)年度実施

昭和45(1970)年度改訂…昭和48(1973)年度実施

昭和53(1978)年度改訂…昭和57(1982)年度実施

とくに昭和23(1948)年度改訂は、暫定的で短命であった。24年度改訂から昭和53年度改訂の5次にわたる概要を表にすると表-4のようになる。

表-4

(1)昭和23(1948)年度改訂時代の教育課程

さきにふれたように最も短命なものであった。旧制の中等学校の教科課程の特色をひきつぎ、旧制中等学校が「高等普通教育又は実業教育を施す」とあったのが、新制高校では、すべて「高等普通教育及び、専門教育を施す」ことを目的とすると変えられたものの「高等普通教育を主とする高校の教科課程」と「実業を主とする高校の教科課程」とに区分の考え方は昭和18(1943)(前述)の考え方をひきつぐものであった。

これは、ほとんど、すべての新制高校が、旧制中等学校の施設と教員組織、生徒をそのまま移行させて発足させられることになったことに対応している。

表-5は、23年度当時の本校建築科の例を示す。これによると、「実業を主とする高校の教科課程」では、国語9、社会10、体育9単位の計28単位が、準必修として認められていることがわかる(本校では体育7単位)。

また、昭和45(1970)年度改訂まで、生きていた卒業までの単位数を「85単位と定める」こともこの改訂ではっきりさせられたことや、「自由研究」が予定されていることも特徴であった。

(2)昭和24(1949)年度改訂の教育課程

昭和23年10月「新制高校教科課程の改正について」、昭和24年1月「新制高校教科課程中職業教科の改正について」の通達があり、4月以降に「実施すべき教育課程編成の大綱」が示され、同時に、「新制高校教科課程の解説」によって具体化された。改訂の特色は、

1、大教科別による単元学習

2、選択教科・科目と必修教科・科目の区分

3、単位制の採用

の3点である。

1については、本校でも、昭和24(1949)年度と25(1950)年度に全国に先がけて、2ヶ年実施されており、昭和26(1951)年度には、いわゆる単元学習から、科目別に変更されており、この変化は、戦後本校の教育課雀を考える上で、重要な意味を持っている。

①大教科制、単元学習下の教育課程(24、25年度)

表-6から、

a 普通教科を主とする学校と職業教育を主とする学校に区分する教育課程を示す方法は廃棄され、その専攻によって最低限の国民共通の教養として、一定の教科目を共通必修とするという考え方が、ここに定まった。つまり、専攻する学科や課程のいかんを問わず、表に明らかなように、国語9、社会10(一般社会5とその他の1科)、数学5(いずれか1科目)、理科5(いずれか1科目、体育9の合計38単位を必修とし、さらに専攻する学科(工業など)では、最低30単位を修得することが要求された。

このような考え方は、その後の改訂においても科目や単位数こそ変更されているが、現在まで生かされている。

b 選択制は、旧制中等学校では殆んど考えられなかったし、

(表-5) 昭和23年当時の本校建築科の教育課程

他の資本主義国で、学校種別が分化している国では、選択制はあまり問題にならなかった。しかし、単線化した当時の日本では、高校教育という単一の目標をもつ教育課程として一元化し、差別をなくすという歴史的な課題を達成するための民主主義的な準則であった。

とくに、①社会的公民的な資質の向上 ②職業的能力を発達させ ③青年を個人として素質の許す限り発達させるといぅ新制高校の3つの主な目標を実現するための措置であった。

しかし、本校では、いわゆる学校選択であった。

c 1年次では、単位外活動として、ホームルーム、生徒集会、クラブ活動、勉強室を持っていた。

d 1年次(昭和24年)、2年次(昭和25年)において、職業教科を中心として大教科主義が行われ、3年次(昭和26年)では、これが解体して、小教科主義(教科主義)に移行していることを示す。他の課程において同様である。

昭和25年5月に発行された「学校要覧」の二、沿革のなかに、

24.4.1従来の科を廃止して、機械工作、精密機械、建築設計、電気機器、電気通信、木材加工、工芸図案の8コースを置く。同時に教科課程に大改正を加え、大教科制、選択教科制、単位制を採用す。

とあり、新制工高一本の姿になった本校の大改正であったことがわかる。

大教科制による教育課程の目指しているところは、「教育課程は、生徒の教育環境そのものであり、従って教育内容は、学問的な選択と配列に基づく教授要目でなく、生徒の活動を中核とする問題は単元によって構成されるべきで、生徒の価値ある経験を重ねることによって成長発達することを助長するのが、学問指導のねらい」であり、これがためには「分析的な科目建てはなるべく少ない方がよく、実習、学科が表裏一体をなして一つの単元を構成する如く考える。また、単元の内容は各学年に配当された具体的目標を総合して得られるようにしている」とある。

表を見ると職業教科の「電気」、「電気機器甲」「電気機器乙」がそれぞれで、細切れ科目を作らないという意味から「大教科制」と言われたのであろう。学習内容の選択とその配列は、職業分析によって得られ、適当に選ばれたブロックを単元とし、必要な手の技能(実技)とこれに関係のある知識(知識・理解)を同時に教えていったのである。

本校は、文部省産業教育研究指定校として他校に先がけて実践したのである。(昭和29年11月発表)

②昭和26年度以後の教科主義による教育課程(本校電気機器課程の例)表-7から

a 普通教科の必修については、国9、社10、数5、理5、保健体育9の計38単位はそのままである。

b 大教科制の実体はどうであったか。たしかに教科内容と教授法に関する過去の工業教育の反省から生れ、よい意図をその中に含みながらも、実際の学習指導に表われた効果は極めて不十分で、かえって卑俗な生活主義や実用主義となり、T万科学的・技術的な目を育てることを怠る結果となった。

その原因は、工業高校をとりまく環境に見出すことができる。戦災を受けた本校、また非戦哭でも老朽化した貧困な施設・設備の中での技術教育は不可能に近く、さらに教員定数の絶対的不足は大教科制による教育の推進にとって致命的であった。また、知識や論理性の軽視、学問的なものに関する感情的反発などを特徴とする「生活単元方式」は、知的なものへの尊重と、その系統的獲得は、文化遺産の継承における正しい態度であるはずなのに、問題発見など教授法上の問題に惑わされて、知識体系を固定的なものとしてつかみ、その改造と発展の方向に向わず、これを放棄する方向に走ったのである。

当時現場の教員は、いち早くそのことを見抜き、現場からの多くの批判と検討を加え、大教科制をしりぞける方向に運動を起したのであった。

c これらの反省のなかで、改善された教育課程の要旨はほぽつぎの通りである。

第一に、「実習」を総合実習な考えにもとづいて、独立して設けたこと。また、視聴覚教育の一環として、さらに学科と実習の結合をはかっていこうと考えたこと。

第二に、普通教科を含め、各教科間の連繋に留意した。

第三に、入学当初より、将来の職業に関する希望も一応はっきりしているし、修業年数や大ワクとして単位数の上からも広範囲に選択する余裕がないため、各課程ごとに、選択教科目の選択を必修に準じて決め、3年次において7?8単位の余地を残した。

d 文部省は「高校指導要領」(試案であり、昭和26年(1951)年版による) のなかで、教科目名を変えずにかなり自由に科目の内容や性格を変更して教科の実態を操作しうる余地をつくり出したことは、注目してよい。また工業に関する科目は、当時44科目にすぎず、これからの弾力的運用が、可能であった。

(3)昭和31(1956)年度改訂の教育課程

a 教育課程については「高校学習指導要領一般編」に述べられているように、いかなる課程でも、国語では「国語甲」、社会では「社会」を含む3科目(本校では「社会」、「日本史」、「世界史」)、理科では2科目(本校では物理・化学)、数学では「数学I」、保・体では、「体育」・「保健」、工業に関する科目では30単位以上、さらに特活を履修させないといけない。

(表-8)

b 昭和24年度改訂当時の大教科制や選択制はなくなり、必修としての学校選択制度が取り入れられた。また普通教科の科目名も応用数学とか、社会科の科目等にみられる一部変更、保健と体育の完全分離、さらに、職業教科目名、科目数も大幅に変わり、細分化を目指していることがわかる。

工業関係法規は、1~3単位であったが、その他のどの科目も最低2単位以上の履修を義務づけており、学校現場で採択の教科日の自由度は、相当制限されることになった。

c 昭和24年度の「学習指導要領」はとくに(試案)であり、一つの例示であると考え現場で教育課程をかなり自主的に編成できたが、この31年度改訂以後は、(試案)ではなく、拘束力を持ち始めたのである。

d 本校では昭和33年に、電子工業科が新設されている。

(4)昭和35(1960)年度改訂の教育課程

a 「学習指導要領」によると、すべての生徒に履修させる教科・科目は、国語のうち「現代国語」(本校では7単位)および「古典甲」(本校2単位)または「古典乙Ⅰ」、社会のぅち「倫理・社会」(2単位)、および「政治・経済」(2単位)を含めた4科目(本校ではあと2科目は世界史A=2単位=と地理A=2単位)、数学のうち、「数学I」(5単位)=本校では他に応用数学(6単位)、理科では2科目(本校では、物理B=5単位、化学A=2単位)、保健・体育のうち「体育」(7単位)および「保健」(2単位)、外国語のうち1科目(本校では「英語」(9単位)となっており、音楽を除けば、昭和33年当時の教育課程と大きな変動はない。

また、工業に関する科目は35単位以上、事情が許せば40単位以上とあったが、本校では49単位を履修させている。(表-99)

b とくにこの改訂で、大きく変えられた教科は、「社会」であった。とくに「倫理・社会」をすべての生徒に学ばせる意図については、当時最も大きな論争点となった。戦後、社会科が創設され、「民主主義」から始められた科目も内容も大きく変えられ、道徳教育導入の高校版とされた。一方技術革新の波にのって「自動制御」など新しい科目が登場してきているのも特徴。

とくにいわゆる多様化路線に従って、工業に関する科目は、前回の改訂の科目数より倍増の感があり、156にも及んでいる。

C 昭和39年4月1日には「電気通信科・電子工業科」を廃止し、「電子科」(2学級)が新設され、昭和41年4月1日には「木材工芸科土芸図案科」を廃止して「産業デザイン科」が新設された。

(5)昭和45(1970)年度改訂の教育課程二部現行)

a すべての生徒に履修させる教科・科目としては国語のうち「現代国語」(本校では7単位)、および「古典甲I」(2単位)、社会のうち「倫理・社会」(本校では2単位)、および「政治・経済」(2単位)の2科目ならびに「日本史」(3単位)、世界史および「地理A」(2単位)または「地理里のうちの2科目。数学のうち「数学一般」または「数学I」(本校では6単位)理科のうち「基礎理科」または「物理⊥(本校では3単位)、「化学Ⅰ」(本校では2単位)、「生物Ⅰ」および「地学Ⅰ」のうち2科目。(表-10)

保健体育のうち「体育(本校では7単位)および「保健」(2単位)、芸術のうち「音楽Ⅰ」(本校では2単位)「美術Ⅰ」(本校では、建築科と産業デザイン科で2単位)、「工芸Ⅰ」および「書道Ⅰ」のうちの1科目となっている。

また職業教育を主とする学科は、35単位を下らないようにすることとあり、本校は40単位をとっている。これは35年改訂時亜単位であったのと比べれば、大幅減となったといえる。

b さらに、教科日の細分化が続いている。工業に関するおもな学科としては21となり、科目数は164にも及んでいる。また電気科の「電気工学Ⅰ」L「電気工学Ⅱ」「電気工学Ⅲ」、電子科の「電子工学Ⅰ」「電子工学Ⅱ」「電子工学Ⅲ」のように、小科目を融合した科目も表われた。

実際には、従来の小科目を寄せ木細工式に集めた感がある。

c 全体として一層指導要領による拘束力が強まり、全国的>に特色のある教育課程編成ができにくくなった。

d 本校においては、とくに「必修クラブ」問題で分会教研が大きな力を発揮し、全国的に、いわゆる「必修」とさせない交渉の糸口を作った。

(6)昭和53(1978)年度改訂、昭和57(1982)年度実施による教育課程

a 必修科目の大幅減が特徴である。国語においては、「国語Ⅰ」(4単位)、社会においては「現代社会」(4単位)(本校では、とくに「地理」を履修)、数学で「数学Ⅰ」(4単位)、理科では「理科Ⅰ」(4単位)保健体育では「体育」(7単位)、「保健」(2単位)、さらに芸術で2単位の、普通学科で計7科目27単位は、前回改訂にくらべれば、明らかである。工業においては、35単位以上だったものが30単位以上となっている。新制高校初期の教育課程における6科目謂単位に比べても低く、史上最低のものである。

しかも「各教科・科目の特質及び生徒の実態から履修困難なら、その単位数を一部減ずることができる。」とか、専門科目によって、普通科目の代替を認める措置とか、弾力的運用が目立っている。高校教育内容の切り下げと一層の多様化をすすめる方向に向かっている。(表-11)

b 本校ではとくに「教育課程研究委員会」(昭和52年~55年)が中心に、新学習指導要領を批判的にうけとめ、「工業基礎」「工業数理」を安易に形式的にとり入れることは問題だとし、当面は、これを教育課程に入れない。また、「ゆとり」の提起に対しても「単位減」でなく、学習内容を精選し、十分時間をかけて学習させることだとし、給時間数としては、前回改訂時と同じ単位数を確保し、いわゆる自主編成において実効をあげた。

c 選択制については、前回改訂後に、機械科が、先駆的な形で、数学と工業において部分的に行ったことを受け、今回改訂をテコに、数学と工業との問の学校選択を成功させるために「教育課程編成委員会」(昭和56年発足)で、検討を進めているが、学科間での歩調の一致をかちとるまでにはいたっていない。

d 工業学科は13、また科目数は64と縮小された。

校舎建て替え計画

校舎の建て替え計画は思わぬ形で実現されることになる。1990(平成2)年、神奈川県は単位制普通高校の設置を計画するが、その単位制高校の校舎と本校の校舎を一体で本校の敷地内に建設、併せて本校の改築問題を解決しようというものである。他校と一体化した校舎。しかも相手は県初の「新構想高校」である。単独の改築を当然のこととして期待していた本校関係者にとっては、驚きと不安が大きかった。

「噂の新構想高校の計画も、私たちの知らないところで着々と進み、ついにその叩き台としての図面が提起されるに至った。まだ検討の初期段階のこの図面を見てみよう。新構想高校併設の図面では、現在の図書館のあるすぐ隣に10階だての神工新校舎ができるらしい。そして、二ッ谷小学校の真向かいに新構想高校の校舎と体育館が作られて、ふたつの学校の間にはきまる形で2棟のやや低い建物が建設され、ここには共同使用される図書館、食堂、プールなどのある9階建てと3階建ての建物が建つ。当然グラウンドは校舎の北側の陰に作られるわけだ。

ということは、陽射しの方向にででーんと今の倍以上ある校舎ができる。夏はすずしかろうが、冬はさぞさむかろう。カルシウム不足による骨折捻挫の増発は以後さらに続くことと見える。そして気になる校舎内だが、たとえばM科関係は3、4階を埋めており、1階にも同様に実習室が設けられる。M科に限らず、どの科にも、その科のみの階ができ、不足分を他の階でカバーするようだからE科は10、9階が主、M科同様1階にも実習室があり、またA科は6階と一部が1階、D科は8階で、7階はAとDが半々でわけられている。つまりどの科も一か所に集まる為、今のように荷物をかかえ、遠い道程を暑い中、寒い中、行き来する必要はない。また上下には、3台のエレベーターが役に立ってくれるはずだ。更に冷暖房完備、天気気候に関わらず、快適な学校生活が保証されるはずである。

だが本当によいのだろうか、まず、8時35分あたりに登校する生徒には非常にいやな学校であろう。どんなにあがいても一番近いM科の教室でさえ、2階にある。遠いE科は10階に。1クラス滑り込み人数を3人としたって、15人エレベーターが5基ないことには、毎朝多くの遅刻者がでてくることだろう。しかもエレベーターは押した者勝ち、はやく押したって、早くおりて来る保証はまるでない。『エレベーターのボタンで遊ばないでください』なんて幼稚園なみの注意も連呼されることだろう」

1992(平成4)年3月2日発行の「神工時報」は、こんな記事で埋まっている。タイトルは「隣人は、問題児?-『構想』具体化進む-」。この時点で、生徒にも新しく建設される校舎の様子が示されていたことがわかる。こうして明らかになってきた新校舎の配置と予想される問題点に、生徒一流のユーモアで迫っている。彼らの予想したエレベーターの混雑という問題は的中し、現在も朝の打ち合わせ後、2階の職員室からHR教室に向かう担任を悩ませているが、実際にはこれにもまして調整しなければならない問題が数多くあった。1コマ50分授業の本校と90分授業を行う新構想高校。両者が食堂、図書館、プールを共用するためには、様々な工夫と配慮が必要であった。「1993(平成5)年4月9日、地鎮祭と共に着工。建て替えは、従来の校舎で学校生活が続く傍ら、グランドに新校舎の建設を行う形で進められた。この年から3年間を本校生徒として過ごした現電気科教諭西田悟は、「初めの1年は新校舎建設の槌音を聞きながら、残りの2年は住み慣れた校舎が取り壊される音を聞きながらの学校生活だった」と当時のことを振り返る。

写真 現校舎建築中

正門の校名板

新しい制服とロゴ

校舎の建て替えが決まった当時、男子生徒は黒の詰襟の学生服、女子生徒は「紺のブレザーとスカート」という以外特に制服のデザインに指定はなかった。校章と科章(科と学年を表したもの)をつけることが義務付けられていたが、だんだん学生服を着ないで登校する生徒や校章・科章をつけない生徒が目立ち始めていたところへ、「新構想」高校が制服を採用しないことが明らかになった事もあって、同じ敷地内で生活する「神工生」に生徒指導や防犯上の観点から制服の着用を徹底させる事が課題となった。そんな中から制服の改訂と女子の制服の制定を行う方針が決まる。

1993(平成5)年、「制服検討委員会」が設置され、制服の改訂に向けての動きが始まる。他校と異なる特徴的なデザインで、しかも生徒が好んで着用するようなものを目指して検討が進められた。デザイナーブランドの制服を売りにする学校も出始めていたが、価格面の配慮からその道は取らなかった。エンブレムをつけないかわりに、従来の校章と科章を一つにまとめることが検討され、現在のような襟章が誕生した。校章の背景には各科の頭文字(機械:M machine、建設:A architect、電気:E electric、デザイン:D design)があしらわれている。さらに「赤・青・緑」の学年色で区別されており、学校内では一見して所属学年と科が識別できる工夫が施されている。

現在、神奈川総合高校と本校の門柱を飾るローマ字のロゴは本校デザイン科職員だった小暮武のデザインによるものである。もっと斬新なものをイメージしていた吉田寿校長はすぐには採用を決定しなかったということだが、神奈川総合高校の吉崎久治校長はこのロゴの採用に賛成。結局両校おそろいのロゴが仲良く並ぶ事となった。

新校舎完成・引っ越し

1995(平成7)年3月完成した新校舎への移転が始まった。旧校舎での生活を続けながら同じ敷地内への引っ越しであったから、業者の手を借りずに運べるものは、職員の手で徐々に新しい校舎に運び込まれていたが、13日から17日にかけては、ホームルーム教室の机椅子を除いての本格的な移転作業。22、23両日には生徒を対象とした新校舎の見学会が行われている。生徒用の机と椅子は23・24の2日間をかけて生徒の手で新しい教室に運び込まれた。併せて両校舎の大掃除も職員と生徒の手で行われている。窓の取り扱いからパルコー、屋上の使用に関する注意、清掃方法等「取り扱い説明書」の抜粋が生徒にも配布されているのは、今までにない設備を備えた高層ビルならではのことであった。「新しい校舎をきれいに使おう」の思いのもと、新生活がスタートした。

創立90周年記念行事

2001(平成13年、創立90周年を迎えた本校は11月14日、横浜文化体育館で記念式典を行う。同日「ロイヤルホールヨコハマ」で祝賀会が催された。式典に合わせて創立90周年記念誌「神工」が発行されている。この中で、現在も校舎9階の窓に取り付けられている校名表示についてのいきさつを、電気科教諭井上隆徳(61回電気科卒)が次のように綴っている。10階建ての新校舎の前に立ち、何処にも「神工」のロゴや学校名の表示がありません。

そこで、3年生の課題研究授業の担当になり、授業の中で「神工」のロゴを製作することを提案したところ、10名の生徒が選択してくれることになりました。2名づつペアを組み「神工」と「電気科」の文字が平成12年10月に、完成しました。皆で完成の喜びを味わい、母校を愛している気持ちが生徒に伝わり、まさに教師冥利に尽き、母校に戻った喜びを噛みしめました。

「神工」の文字はバックを黒にして文字を白で塗り、輪郭を250個の電球で埋めました。毎日午後6時から10時まで、24時間タイマーで点灯します。「電気科」の文字も同様に稼働しています。生徒の自由な発想で製作させました。「神工」ロゴが完成し、次は校名表示を考えていたところ、同窓会が援助して下さる事になりました。今度は創立100周年に向けて、駅などにある看板を念頭に置いて製作することにしました。外側の木枠の部分を7個製作して、10名の生徒は卒業していきました。

翌年新3年生に課題研究授業で校名表示看板の製作を提案し、5名の生徒が取り組んでくれました。製作担当に電気科平井芳信先生も加わって頂きました。

パソコンから教育文字字体を出力し乳白色のアクリル板にOHPで文字を投影しながら下書きをして、文字をマスキングしてから、黒のアクリルペイントで文字を塗って完成しました。木枠の中には20Wの蛍光灯が2灯取り付けてあり、反射させるためにアルミ板が取り付けてあります。立派な校名表示板が完成しました。

定通併修・3修制の導入

2003(平成15)年は本校の定時制にとって大きな節目の年となる。この年の入学生から、修業年限4年で修了する従来の形に加えて、通信制過程の併修を利用し3年で修了する「3修制」を導入したのである。これによって本校定時制課程に在籍しながら通信制課程の単位を併せて取得することによって3年間で卒業することが可能になった。この制度の導入に先立ち、2002(平成14年7月に通信制課程の協力校として県立湘南高等学校の通信制課程と併修の契約を締結した。2006(平成18)年3月2日、この制度を利用した初の生徒機械科27名、建設科14名、電気科21名が卒業を迎える。

県立湘南高等学校の通信制課程は、2007(平成19)年度をもって県立横浜平沼高等学校通信制と統合し、神奈川県立修悠館高等学校に移管されたため、現在は同校との併修を継続している。

2001(平成13)年ころの風景

90周年記念誌から

さんフェア神奈川2009

 本校生徒の原画が
 採用されたポスター

2009(平成21年、全国産業教育フェア神奈川大会がパシフィコ横浜をメイン会場として開催された。この年第19回を迎える大会のポスターには、前年度本校デザイン科を卒業した梶川大輝の原画が採用された。11月14、15の2日にわたる期間中、本校は横浜文化体育館を会場に行われた「全国高等学校ロボット競技大会」とパシフィコ横浜展示ホールBの運営にあたる。横浜文化体育館では、本校全日制職員がロボット競技の副審と記録を担当し、また、県予選を勝ち抜いた本校生徒3チームが競技に出場した。

毎回、開催県の風物を取り入れて競技内容が設定されるが、この大会では足柄山の金太郎伝説に因み、「金太郎ロボットが熊ロボットにまたがり、山に見立てたスロープを登り、まさかりを担ぐ。その後、大木を表すポイド管を倒して橋を架け、それを渡り、台の上にまさかりを置き、刀に持ち替える。武士となった金太郎ロボットは山を下り、鬼の障害物を乗り越えて土産を取って、母親のいるスタートエリアに戻る」というものだった。定時制職員が運営を担当した横浜展示ホールBでは、ものづくり体験コーナーの他、高校生の作品展示・堅冗などが行われた。両会場とも多くの本校生徒が補助員として運営を支えた。

東日本大震災

2011(平成23年3月11日、東日本を巨大地震が襲う。10階建ての高層建築でしかも神奈川総合高校とつながるという複雑な構造の本校は、特に5階より上のフロアが激しい揺れに見舞われた。当日は学年末試験後の特別時間割によりテスト返却が行われる時程だったため、地震の発生した午後2時48分には既に帰宅している生徒も多かったことが幸いし、人的被害は免れた。しかし、首都圏の交通マヒは夜中まで解消されず、神奈川総合高校の多目的ホールで一夜を明かすこととなった職員・生徒は本校側だけでも100名を超えた。翌日の昼までには交通機関も復旧し、全員が無事帰宅したが、大規模災害時の対応の在り方については根本的な見直しが必要であることを痛感する結果となった。

機材の倒壊・破損、ジョイント部分(エクスパンション)の損傷等、施設・設備の被害は予想以上に大きく、週明け14日は復旧作業のために臨時休業とせざるを得ない状況だった。その後も電力不足による交通機関の混乱等の影響を受けて、登校時間を通常より1時間遅らせ午前9時40分とする措置が修了式まで続けられた。