学校沿革 

学校沿革について 

神奈川県立工業高等学校(旧神奈川県立工業学校)の沿革です。

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明治~大正

神奈川県立神奈川工業高等学校 (旧、神奈川県立工業学校) 沿革

明治44年(1911年)

4月27日 文部省告示第159号をもって神奈川県立工業学校を開校する旨告示される。

5月10日 県告示第146号で本校を横浜市神奈川町に設置、翌45年4月より開校の旨告示される。

6月7日 福岡県立福岡工業学校長、杉本源吾、が初代校長に任命される。

明治45年(1912年)

1月30日 第1回入学の生徒募集を広告する。

4月29日 第1回入学式を行う。(機械科45名、建築科22名、計67名)

5月1日 授業を開始する。

大正元年

7月30日 明治天皇崩御により授業を休止する。

10月16日 生徒・職員、青山斎場に参拝する。

大正2年(1913年)

3月8日 教育勅語謄本が交付される。

4月14日 文部省告示第110号をもって、徴兵令第13条並びに文官任用令第3条第3号により認定される。これにより本校卒業生は、中学校と同じく、志願による一箇年の陸軍現役並びに判任文官用の資格を得る。

4月22日 神奈川県令第54号をもって本校の学則を改定し、開校記念日を5月1日とする。

5月1日 開校記念式典を行う。

大正3年(1914年)

4月14日 神奈川県令第26号をもって本校の学則が改正され、別科を新設し施工は4月1日よりとする。別科は修業年限1年、入学資格高等小学校卒業程度。

4月20日 別科の入学式を行う。(機械科12名、大工科7名、家具科2名)

5月1日 開校記念日は皇太后の大喪中につき式典は行わない。

5月19日 本校寄宿舎規則を定める。

6月23日 寄宿舎を「二渓寮」と命名する。(命名、鵜木教諭)

7月8日 石原県知事が本校を視察する。

11月21日 本校舎が竣工する。落成記念式典を行い、文部大臣代理、県知事代理、県会議長、横浜市長、等317名が参加する。

大正4年(1915年)

2月23日 神奈川県令第16条をもって学則の一部を改正し、電気科、図案科を新設し、家具科を建築科より分立させる。

3月22日 第一回卒業証書授与式を行う。(卒業生、機械科33名、建築科18名、別科16名)

3月30日 杉本源吾、校長が退職(在任期間3年10ケ月)し、秋山岩吉、教頭が第2代校長に任命される

10月31日 天長節の祝賀式典を行う。

11月10日 天皇即位の大礼のため拝賀式典を行う。

大正5年(1916年)

3月17日 神奈川県令第17号をもって、神奈川県立工業学校付属補修学校の学則を定める。入学資格高等小学校卒業程度、修業年限1年、夜間授業とし、機械科、建築科、電気科、普通科を置く。

4月11日 神奈川県立工業学校付属補修学校の開校式を行う。

6月24日 建築科の実習で、横浜商業学校記念図書館の上棟式を行う。

7月18日 家具科の実習で、羽二重検査所の主要家具一切の製作依頼に応ずる。

大正6年(1917年)

3月24日 卒業証書授与式を行い、第2回生として53名が卒業する。付属工業補修学校は、第1回生として72名が修了する。

3月26日 神奈川県告示第73号をもって、作業資金設置規定を定める。生徒の特別実習のため、大正6年度一般会計繰入金を基金として設け、生徒の実習として建築工事その他物品製作の受託に応ずるための材料購入費にあて、作業による収入は基金に繰り入れることにした。実習にて大正15年迄に製作したものには、本校校長住宅、Y校の大典記念図書館と銃器庫、都田村役場、住宅2棟、県下中学校の物理化学実験台、羽二重検査所の卓子、衝立、大倉陶園と女子学習院の机等がある。

3月30日 神奈川県令第19号をもって神奈川県立工業学校付属補修学校の学則中、一部を改正する。

4月27日 神奈川県令第32号をもって学則の一部を改正し、別科を廃止する。

大正7年(1918年)

2月8日 神奈川県内小学校長、師範学校長25名が本校を視察する。

3月11日 チリ政府派遣教育視察員レビー氏夫妻が本校を視察する。

大正8年(1919年)

3月18日 神奈川県立工業学校付属工業補修学校の学則を改正する。

第3条、本校ニ機械部、建築部、電気部、図案部及ビ普通部ヲ置キ更ニ機械部ヲ機械学、工具及ビ製作法、原動機、機械製図ノ4科ニ建築部ヲ家屋構造法、建築用材料、規矩法、仕様見積法建築製図ノ5科ニ電気部ヲ電気機械、電気応用、発電所、電気磁気、電気製図ノ5科ニ図案部ヲ図案法、工芸美術史、図画、図案実習ノ4科ニ普通部ヲ国語、工業数学、工業理科学、英語ノ4科ニ別ツ。科目制、期制に改められる。各科別のワクは固定的ではなく、時間割さえ都合がつけば他科の科目が習得できた。

4月1日 神奈川県立工業学校の学則を改正する。定員300名を350名に、授業料月額50銭を1円20銭に改める。

5月7日 皇太子(昭和天皇)成人式のため奉祝式典を行う。

大正9年(1920年)

2月17日 神奈川県令第12号をもって本校の学則を改正する。夏期休業を8月1日から31日まで、冬季休業を12月25日から翌年1月7日迄とする。従来は、それぞれ8月9日から23日迄と、12月27日から翌年1月4日迄。

10月30日 教育勅語煥発30年により記念式典を行う。

11月1日 明治神宮鎮座祭により休業とし、遙拝式を行う。

大正10年(1921年)

4月1日 実業学校令改正により修業年限5年とし、定員600名とする。この改正により中学校と同資格となり上級学校進学が出来るようになった。右のほか夏期休業は7月25日からとし、更に学科課程及び毎週教授時数を改める。

4月12日 付属工業学校は分離独立して、神奈川県立工業補修学校と称す。

大正11年(1922年)

3月16日 校旗を選定する。(図案課教諭、杉山知太郎 作)。

4月23日 校歌を選定する。(作詩、国語課教諭、浦井喜久造、作曲、岡野貞一)。

5月1日 開校10周年記念式典行事を行う。学校を開放して生徒の製作品展示会と製作品即売会を催す。観覧者、1万978名におよぶ

8月16日 秋山岩吉校長が中華民国を視察する。

10月30日 学制頒布50周年記念式典を行う。

大正12年(1923年)

1月8日 木造2階建の新館を本館南側に増築し落成する。

2月15日 逓信省告示第181号により大正10年3月以後に本校電気課を卒業する者には電気事業主任技術者第三種の資格が与えられる。

9月1日 関東大震災の被害甚大であったため休業する。この日は、朝から雨をともなった強い風が吹いていた。その風雨も10時ごろまでにはやみ、残暑の厳しい日差しが、ジリジリと濡れた舗道や家並に照りつけた。市民の多くが昼食の卓に向かおうとしていた、その瞬間この大災害は起こったのである。被害は、東京、神奈川、静岡、千葉、埼玉の1府4県に及んだ。

10月8日 授業を再開する。 

11月11日 神奈川県立職業補導講習所(大工職)本校に開設され。秋山岩吉校長が事務取扱いを兼務する。

大正13年(1924年)

1月26日 摂政宮(昭和天皇)御成婚。

8月1日 校誌「震災記念号」を発行する。

大正14年(1925年)

3月30日 神奈川県立職業補導講習所が廃止される。

6月1日 同窓会会報「神工時報」が創刊される。

大正15年(1926年)

10月10日 本館改築工事(木造モルタル2階建)完成。

昭和

昭和元年(1926年)

昭和2年(1927年)

4月14日 神奈川県立工業学校学則が改正される。

11月30日 本館を除く建物の改修工事が完成する。

昭和3年(1928年)

11月10日 秋山岩吉校長が多年教育に従事し、功労顕著と言うことで、文部省より表彰される。

12月15日 第5学年生及びラッパ鼓隊が宮城広場で御親閲を賜る。

昭和4年(1929年)

2月11日 御親閲記念綬、授与される。

昭和5年(1930年)

5月8日 運動場の改修工事が完成する。

昭和6年(1931年)

5月1日 創立20周年記念式典行事を行う。規模は10周年に同じ、観覧者16,601名におよぶ。

8月4日 神奈川県立工業学校学則が改正される。(学科課程)。

昭和7年(1932年)

昭和8年(1933年)

昭和9年(1934年)

10月27日 実業教育50周年記念式典行事をおこなう。校内を開放して設備や実習状況、成績品を公開、恒例の製作品即売会を行う。入場者15,000名におよぶ。

12月10日 校友会雑誌「二渓苑」を創刊する。14年3月に第7号が出ているが、いつ終刊になったかわからない。題字は前後を通じて秋山校長、表紙図案は2号まで、安藤良宏先生の手に成る。

昭和10年(1935年)

9月1日 青年学校令により併設工業補修学校を廃し、神奈川県立工業青年学校を設置する。

神奈川県立工業青年学校則(抜粋)

第1条 本校ハ青年学校令ニ依リ青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛練シ徳性ヲ函養スルト共ニ工業及実生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ以テ国民タル資質ヲ向上セシムルヲ以テ目的トス

第2条 本校ハ神奈川県立工業青年学校ト称シ神奈川県立工業学校ニ併設ス

第3条 本校ニ普通科、本科及研究科ヲ置キ本科及研究科ヲ機械部、建築部、電気部及図案部ニ分ツ

第4条 教授及訓練期間ハ普通科及本科ニ在リテハ各2年、研究科ニ在リテハ1年トス

昭和11年(1936年)

4月21日 県令第33号により神奈川県立工業青年学校学則を改正し本科、研究科を設置する。              

第3条 本校ニ本科及研究科ヲ置キ本科ハ之ヲ機械科、建築科及電気科トシ研究科ハ機械科建築科、電気科及図案科トス

第4条 教授及訓練期間ハ本科ニ在リテハ4年トシ、研究科ニ在リテハ1年トス

昭和12年(1937年)

3月23日 県令第16号により学則を改正し、第二部を新設する。生徒定員は本科900名

第10条 本科及第二部ニ入学ヲ許可スヘキ者ハ品行方正志望確実ニシテ左ノ各号ニ該当スル者ナルコトヲ要す。

一、 本科 年齢12年以上満15年以下ニシテ尋常小学校ヲ卒業シタル者、

二、第二部 中学校ヲ卒業シタル者若ハ之ニ準スヘキ者、本科の学科課程、毎週教授時数表を改めるとともに第二部のそれを新設した

3月31日 秋山岩吉校長が退職(在任期間22年)し、山賀辰治、石川県金沢市立工業学校長が第三代校長に任命される。

10月1日 第二部の授業を開始する。(この年に限り修業年限は6ケ月とする)。

昭和13年(1938年)

4月1日 家具科を木材工芸科と改称し、機械科の一部を分離して精密機械科を設置する。

6月6日 神奈川県立青年教員養成所養成規則により、その工業科を設置する。

昭和14年(1939年)

4月1日 男子19才青年学校義務化と同時に本科を4年制に移行し図案科のみ研究科として残す。

5月1日 神奈川県立第二工業学校を本校に開校する。箱根報国寮ができ勤労作業を核とした集団訓練が行われる。箱根旧街道「畑宿」にあり、心身の鍛練として三泊程度の宿泊訓練をおこなった。県下各学校から代表生徒が参加したり、学校単位で利用することもあった。作業は寮の庭整備のための石運び、薪割り、炭焼きなどであった。夜は精神訓話を聞くことになっていた。

昭和15年(1940年)

4月1日 県令第19号により学則を改正し従来の本科を第一本科とし他に第二本科・第三本科を設置する。第二部は継続設置する。

学則改正抜粋

第2条 本科ニ第一本科・第二本科・第三本科及第二部ヲ置キ左ノ各科ヲ設ク。

第一本科-機械科・建築科・木材工芸科・電気科・図案科・精密機械科

第二本科-機械科・建築科・電気科  第三本科-建築科

第二部-機械科・電気科

第3条 修業年限ヲ左ノ如ク定ム

第一本科5年 第二本科5年 第三本科2年 第二部1年

5月1日 神奈川県立第二工業学校を神奈川県立平塚工業学校と改称し、平塚市平塚浜岳へ移転する。

昭和16年(1941年)

4月1日 神奈川県立川崎工業学校を本校に開校する。研究科を廃止し企業内青年学校を預かる特設科を設置する。本科は、3科あったが、特設科は機械科のみで、募集人員56名、そのうち修了者50名であった。この科は18年迄続き、企業工場内の青年学校生徒を本校で預かったものである。個人記録などによると、戦争末期には工場内へ戻った。

5月1日 創立30周年記念式典行事を行う。 観覧者は延1万8000名におよぶ。

10月7日 県下中学校報国団マラソン大会で優勝する。

12月23日 文部省令79号第2条の規定にもとずく神奈川県訓令第61号により、第一本科・第二本科の修業年限を3ケ月短縮し繰上卒業を行う。臨時規定第5条・第7条に基づき上級学校進学者の為に3ケ月の臨時補修科を設置する。

昭和17年(1942年)

4月1日 県令第28号により学則の一部を改正し第一本科の木材工芸科・図案科、第二本科の建築科を廃止し他の各科の定員を増加する。第一本科の木材工芸科・図案科の両科と第二本科の建築科を廃止して、他科の定員を増加し、総定員1,580名となった。

6月17日 神奈川県立青年学校教員養成所臨時養成科が廃止される。

昭和18年(1943年)

1月21日 勅令第36号をもって中学校令が公布され、明治依頼存立していた中学校令・高等女学校令・実業学校令の三勅令が統一し一元化される。

6月25日 学徒戦時動員体制確立要綱が決定される。

6月29日 神奈川県立実業学校則が制定され、修業年限を4年とする第一本科・第二本科の別を廃止し、第三本科を新たに第二本科と称し、第二部は廃止する。精密機械科は機械科に合併し、新たに電気通信科を設置する。

10月12日 教育に関する戦時非常処置方策が閣議決定される。

昭和19年(1944年)

2月15日 内政部長通達により、実業学校修了者の上級学校進学は修了者の概ね一割に止め、推薦書を添付することとなる。

4月1日 神奈川県立工業青年学校を廃止し、神奈川県立工業学校第二種を設置する。これに対し第一本科を第一種と称した。

9月30日 神奈川県立川崎工業学校が川崎市平間に移転する。

昭和20年(1945五年)

3月27日 4年制・五年制の生徒が同時に卒業する。

4月19日 決戦教育措置要綱、戦時教育令が公布され、授業は全面的に停止される。

5月29日 横浜市一帯に大空襲があり、本校も全焼する。第二種は当分休業とする。

7月27日 神奈川県立横浜第二中学校(現、翠嵐高等学校)の校舎を借用し、第一種の授業を再開する。

8月27日 神奈川県立横浜第二中学校より神奈川県立横浜第一高等女学校(現、平沼高等学校)に移転借用し、授業を継続する。

10月1日 第一種建築科・電気科・電気通信科は帝国自動車工業株式会社付属青年学校校舎(鶴見区市場町)を借用し、機械科は神奈川県立商工実習学校(南区大岡町)を借用し、分散授業を行う。

昭和21年(1946年)

1月8日 始業式を午前と午後に行う。

4月1日 第一種は五年制に復活する。電気通信科は募集を停止し、機械・建築・電気の三科として定員750名とする。1・2学年は大岡分校(商工実習)に、3・4・5学年は鶴見分校(帝国自動車株内)に配属する。戦災後授業を停止していた第二種が市立栗田谷小学校(現・栗田谷中学校)を借用して授業を再開。機械・電気を廃止、建築科のみ定員160名となる。

昭和22年(1947年)

4月1日 6・3・3制実施に伴い新制中学校を併設する。第一種は募集を停止し、第2、3学年は新制中学に編入し、第4、5学年は旧制工業学校のままとする。 第二種は機械科・電気科を復活し、建築科とともに三科とする。新入生は新制中学3年に編入し、第2・3・4年は旧制工業学校のままとする。

9月1日 旧校地に建設中であった仮校舎の第一期工事が竣工し、鶴見(帝国自動車株)・大岡(県立商工実習)・栗田谷(市立栗田谷小)の各分校を引き揚げ、罹災後2年にしてようやく旧校地に全生徒を収容する。

9月26日 仮校舎竣工の祝賀式典を行う。

12月1日 神奈川県立工業学校総合実習工場(工場長 山賀辰治・本校校長)を、戸塚区吉田町1163に開設する。

昭和23年(1948年)

4月1日 旧制工業学校を新制工業高等学校と称し、第一種を全日制課程とする。入学資格は新制中学校卒業とし、修業年限は3年とする。在校生は該当学年に編入する。木材工芸科、工芸図案科を復活し、此の2科だけ生徒を募集する。定員は機械科80名、建築科40名、電気科40名、木材工芸科25名、工芸図案科25名とする。第二種は定時制課程として発足する。修業年限は機械科、建築科、電気科とも4年とし、入学資格は全日制課程と同じとする。

昭和24年(1949年)

3月18日 新制高等学校第1回生(通算35回生)84名が卒業する。(機械科39名、建築科19名、電気科11名、電気通信科15名) 定時制第1回生(通算35回生)86名が卒業する。(機械科49名、建築科16名、電気科21名)

4月1日 併設中学校が消滅し、工業高等学校一本となる。

6月16日 南側別館が竣工する。

昭和25年(1950年)

3月1日 愛甲郡愛川町立中学校に分校仮事務所を設置し、定時制染織課程第一学年生徒昼夜間合計50名の募集を開始する。

4月1日 神奈川県立神奈川工業高等学校愛川分校が開校する。

4月28日 足柄上郡松田町に定時制分校を設置し、建築科、木材工芸科の課程を置き、第一学年生徒昼夜間合計50名を募集する。仮校舎を松田町立松田小学校(足柄上郡庶子209)において直ちに授業を開始する。

5月1日 愛川分校を神奈川県立織物指導所(愛甲郡愛川町半原4,408)内に移転し授業を開始する

5月26日 神奈川県立神奈川工業学校松田分校の開校式を仮校舎松田小学校講堂において行う。

5月31日 P・T・Aの援助により実習工場396㎡が竣工する。

10月24日 山賀辰治 校長が文部省より全国工業教育者の代表として、アメリカへ派遣される。

昭和26年(1951年)

2月8日 山賀辰治 校長がアメリカ視察を終わり帰国する。

2月27日 松田分校の校舎建設に対して松田町より校舎敷地4,950㎡(足柄上郡松田町惣領1,427)が提供される。

6月1日 創立40周年記念式典を行い、祝賀会、展覧会を開く。

11月20日 愛川分校の建設敷地として愛甲郡愛川町半原字隠川に町有地7,748㎡を決定する。

昭和27年(1952年)

3月31日 愛川分校の夜間部は生徒募集を停止する。

4月1日 松田分校の夜間部は生徒募集を行わず、昼間定時制建築課程、木材工芸課程合計50名を募集する。

5月10日 鉄筋本建築第一期工事として機械科実習工場(425.7㎡)変電所(52.8㎡)が竣工する。

5月25日 愛川分校新校舎(木造平屋建、瓦葺き278.85㎡)の工事が完了する。

6月19日 愛川分校が新校舎に移転する。

7月26日 松田分校は足柄上郡松田町惣領1,427に新校舎第一期工事分が竣工し、直ちに新校舎に移転する。

昭和28年(1953年)

3月31日 神奈川県立工業学校総合実習工場を閉鎖する。

5月11日 本建築第2期工事として、機械科実習工場(765.6㎡)が竣工する。

昭和29年(1954年)

1月30日 本建築第3期工事として、木材工芸科実習工場・建築科施工実習工場(699.6㎡)が竣工する。

3月10日 男女共学制実施後、本校初の女子生徒(工芸図案科)2名(通算40回生)が卒業する。愛川分校第1回生(通算40回生)25名、松田分校第1回生(通算40回生)31名が卒業する。

5月16日 山賀辰治 校長が退職(在任期間17年2ケ月)し、副島一之 神奈川県立横須賀工業高等学校長が第4代校長に任命される。                                     

昭和30年(1955年)

1月15日 愛川分校の実習工場(9㎡) が竣工する。(愛川町の寄付による)。

昭和31年(1956年)

2月10日 北館一棟(鉄筋コンクリート3階建、5,322,636㎡実験実習室)が竣工する。

3月2日 松田分校の実習工場(165.3㎡)が竣工する。

昭和32年(1957年)

2月16日 生徒手帳が復活する。

3月31日 愛川分校の昼間部の生徒募集を停止する。

昭和33年(1858年)

1月21日 南館の一部が竣工する(鉄筋コンクリート3階建)。

4月1日 電子工業科(定員40名)を新設する。これにより第1学年は7科8学級、定員290名となる。

5月1日 松田分校の特別教室(397.9㎡)が竣工する。

5月25日 南館1棟(鉄筋コンクリート3階建、3,415.9㎡普通教室)が竣工する。

昭和34年(1959年)

9月30日 愛川分校の敷地並びに校舎は神奈川県より愛川町に移管され、分校は神奈川県立織物指導所に移転する。

12月1日 本館一棟(鉄筋コンクリート4階建3,250.5㎡)が竣工する。

昭和35年(1960年)

3月31日 愛川分校を閉鎖する。

4月1日 松田分校の定時制は生徒募集を行わず、新たに全日制課程の建築科を募集する。定員は40名とする。            

昭和36年(1961年)

1月8日 副島一之 校長が日本生産性本部より欧米視察に派遣される。

3月15日 副島一之 校長が帰国する。

3月31日 体育館兼講堂(鉄筋1,009.8㎡)が竣工する。

5月13日 創立五0周年記念式典を行い、体育館開き、芸能祭、展示会を行う。

9月10日 松田分校の建築科実習室(木造33㎡)が竣工する。

昭和37年(1962年)

3月31日 プール(25m×14m、6コース) が完成する。松田分校建築科の生徒募集を停止する。

4月1日 定時制機械科を1学級増として、3学級とする。神奈川県立磯子工業高等学校を本校に開校する。

昭和38年(1963年)

1月18日 神奈川県緑化推進委員会より、昭和37年度緑化指定校に指定される。

4月1日 入学志望者の激増に対する臨時処置として木材工芸科・工芸図案科を除く各科の募集定員を1割増員する、電気科は本年より1学級増加して、2学級定員88名とする。本年度入学者より新教育課程を実施する。

10月1日 神奈川県立磯子工業高等学校が横浜市磯子区へ移転する。

3月31日 松田分校を閉鎖する。 

4月1日 電気通信科・電子工業科の生徒募集を停止し、新たに電子科2学級(定員80名)を設置する。

昭和40年(1965年)

6月15日 通商産業省令第52号により、昭和26年3月以後、本校電気科を卒業した者は、実務経験によって、電気事業法の規定に基ずく主任技術者第三種の免状を申請出来ることになる

12月1日 副島一之 校長が退職(在任期間11年6ケ月)し、中村春雄 神奈川県教育庁参事が第5代校長に任命される。

昭和41年(1966年)

4月1日 木材工芸科・工芸図案科の生徒募集を停止し、新たに産業デザイン科1学級(定員40名)を設置する。

昭和42年(1967年)

3月31日 柔剣道場(300㎡)が完成する。

昭和43年(1968年)

4月1日 建築科は募集人員を増加し、2学級定員80名とする。

5月22日 生徒会館(394.26㎡)が竣工する。生徒会活動やクラブ活動が活発になっても部室の数はすくなかった。校舎内の階段傍の小部屋などを、フルに活用しても足りないので同居したりして苦労していた。生徒、職員の希望が実ってやっと生徒会館が建てられたが、この費用1,186万円は全額寄付によった

昭和44年(1969年)

3月21日 運動場に野球用バックネットが、井上正一氏(機械科2回生)より寄贈される。

7月1日 プールに浄化装置の取付けが完成する。

7月7日 機械科実習室(鉄筋2階建582㎡)、建築科実習室(鉄骨2階建219.6㎡)の増築が完成する。

昭和45年(1970年)

9月1日 中村春雄 校長が退職(在任期間4年9ケ月)し、斉藤滋 神奈川県立大船工業技術高等学校長が第六代校長として任命される。

9月21日 校庭の散水装置が完成する。

昭和46年(1971年)

1月23日 全校マラソンを鶴見川河畔のサイクリングコースで行う。全校生徒でマラソンを行った歴史は古い。戦後、学校周辺(本校~小机町)の道路は交通量が多く危険の為、三ツ沢競技場の周辺を走るのが暫く続いた。5月に新入生歓迎マラソン、2月に卒業生送別マラソンと年間2回実施されていた。交通量が増えて三ツ沢も適当でなく なったので、鶴見川サイクリングコースに移ると共に年1回の行事となり、1回はハイキングに振り替えられた。

5月8日 創立60周年式典行事を行う。

10月10日 修学旅行を2学年の秋に実施する3年生になると間もなく就職試験があり、それが秋迄続く状況が有った、天候の落ちついた秋、文化祭の準備にも影響しない頃に修学旅行を実施するのが常で有ったが、この年は、3年生・2年生と2度の修学旅行が行われた。

昭和47年(1972年)

3月17日 給食棟(228㎡)が完成する。北館中央の地下室が長い間食堂として使われていた。ここはもともとボイラーを設置して運 転実習をすると共に、発生した蒸気を他に利用する計画であった。しかし、ボイラーはおかれずにここを改造して食堂としていた。昼休みには生徒の長い列が階段にまで連なっていた湿気の多い室で、明かりとりにつかっていた地下5mほどの窓下外側の溝から、ポンプで溜まり水を汲み上げるような有様だった。それでも生徒の憩いの場であった。食堂を別棟に建ててほしいというのが神工生の宿願であったが、ここにやっと定時制の生徒のために県が給食棟を建てることになり、その施設を全日制も利用できるようになった。

昭和48年(1973年)

4月1日 本年度入学者より新教育課程を実施する。

9月1日 斉藤滋 校長が退職(在任期間3年)し、大木茂松 神奈川県立向の丘工業高等学校長が第7代校長として任命される。

昭和49年(1974年)

3月30日 給排水の改修工事が完成する。

昭和50年(1975年)

3月31日 運動場周辺の防球ネット工事が完成する。

昭和51年(1976年)

4月1日 教育の校務分掌規定を改め、一人一分掌制度を実施する。

10月24日 体育祭を秋に実施する。これまで体育祭は5月に行われてた。その準備期間に上級生と下級生の交流が得られるプラス面もあったが、入学間もない新入生は応援指導が激しすぎたり準備のため落ちつかず入学当初であるにもかかわらず学習する習慣をつけにくい等のマイナス面も認められた。また準備では人数の関係から全員では当たれないため負担が偏る状況もあった。そこでなるべく秋の文化祭に接近して実施すればこれらの難点も解決できるというこうから、何回も学校と生徒会とでも話し合いをもち、やっと体育祭が秋にもちこまれた。

昭和52年(1977年)

4月1日 これまでの2期制を改め、3学期制を実施する。戦後の新しい教育方法を実施するなかで、それまでの3期制を改めて前期・後期の2期制とした。これは卒業学年の3学期は、ほんの僅かの授業日数しかないことが大きな理由であった。2期制では9月に前期が終わり10月1日が後期の始業となる。年間のテスト回数も3期制より少なくて実際に授業できる日数が多くなったり、夏冬の休業直前に慌ただしく出さなくてもすむなど幾つかの利点があった。しかし夏期休業あけの9月早々に前期のテストが有ったりテストとテストの間隔が大きいことなど、だんだんと生徒の学習実習とうまくかみ合わななってきた。そこで高校では県内でも稀な例として残っていた2期制(大学は大部分2期制)を廃止することになった。

昭和53年(1978年)

3月31日 南館校舎前の防球ネットが完成する。

4月1日 定時制電気科2学級が定員減となり1学級とする。

4月10日 修学旅行を3年の春に実施する。46年から修学旅行は2年生の時行っていたが、就職試験が10月に固定されたのに加えて、体育祭が秋にもちこまれたので、再び3年生にもどして、1学期、それも天候や学校行事を考慮して春に実施することになった。

昭和54年(1979年)

2月28日 校庭の廃水側溝が完成する。

4月1日 機械科3年生に数学Ⅲと機械実習の選択制を実施する。定時制機械科三学級は定員減のため二学級編成とする。

昭和55年(1980年)

11月14日 グランド整備工事が完成する。

12月18日 全校マラソンの会場を子供の国に移して実施する。鶴見川畔でのマラソンはサイクリングコースを利用するため道巾がせまいので混雑したときは走りにくく、更に一般の人がいた場合危険なこともあるので、子供の国周辺のマラソンコースに変更した。

昭和56年(1981年)

5月9日 創立70周年記念式典行事を行う。

6月15日 生徒の指導方法をめぐって生徒が授業放棄する。校則に関し服装等みだしなみの指導方法にて対立。

9月1日 大木茂松 校長が退職(在任期間8年)し、村川憲太郎 神奈川県立向の丘工業高等学校長が第8代校長として任命される。

昭和57年(1982年)

4月1日 新指導要領施工に伴い、本年度入学者より新教育課程を実施する。

11月17日 中学3年生に対して新たに1日体験入学を実施する。 

昭和58年(1983年)

6月9日 「チャイム着席」運動が実施され話題となる。授業開始5分前チャイム(予鈴)にて一斉着席運動を実施する。

昭和59年(1984年)

3月1日 卒業式を3年生(卒業生)のみの参加に変更して実施する。

昭和60年(1985年)

4月1日 村川憲太郎 校長が退職(在任期間3年7ケ月)し、玉置英生 神奈川県立向の丘工業高等学校長が、第9代校長として任命される。本年度入学者より電気系をくくり募集し、2年次より電気科、電子科を選択させる。本年度入学者より、定員1割程度を推薦入学者とし、学力検査を経ないで入学させる。

7月18日 水泳大会を元町プールに移して実施する。

10月16日 新興宗教の強引な勧誘問題が発生し、被害生徒の救済が課題となる。

昭和61年(1986年)

4月1日 生徒急増につき、入学定員を各科1学級当たり1名(後に2名)の臨時増とする(4年間)。 

昭和62年(1987年)

9月5日 卒業生の就職決定時期が早まり、この日より推薦書類提出、9月15日より選考が実施される。

10月18日 定時制の体育祭を復活して実施する(通算10回)定時制発足当時、体育祭は全日制と一緒に(昭和25年~33年)実施していた。

昭和63年(1988年)

4月1日 玉置英生 校長が退職(在任期間3年)し、神戸昭夫(電気33期) 神奈川県立松陽高等学校長が第10代校長として任命される。普通科職員の一校在職期間が最大限15年となり転勤者が増す( 職業科職員も1年遅れで適用される) 。学科改編に伴い、本年度入学者より産業デザイン科とする。

昭和64年(1989年)

昭和

平成元年

3月25日 定時制課程第1回スキー教室を実施する( 新潟県三俣スキー場) 。

4月1日 本年度入学者より、電気科、電子科を統合して電気科4学級とし、2年次よりコースを選択をさせる。

平成2年(1990年)

3月15日 校舎外壁関係のリフレッシュ工事( 本館を除く) が完成する。

4月1日 神戸昭夫 校長が退職( 在任期間2年) し、二宮要蔵 神奈川県立相模台工業高等学校長が第11代校長として任命される。

6月16日 定時制課程本年度入学者より、1年生に野外教育活動を実施する。

平成3年(1991年)

1月15日 修学旅行を第2学年の冬にスキー修学旅行として実施する。

4月1日 学科改編に伴い本年度入学者より建築科を建設科とする。全日制 電気科を1学級減じて3学級(定員120名)とする。定時制定員を減じて機械科70名、建設科、電気科各35名とする。

5月18日 4週5休の試行が始まり授業のない1日となる。

6月4日 体育館工事がグランド使用に影響するため、体育祭を春に移して実施する。

平成4年(1992年)

1月18日 創立80周年記念式典行事を竣工した新体育館にて行う。(体育館竣工に合わせ1年遅れ)

4月1日 二宮要蔵 校長が退職(在任期間2年)し、吉田寿(電通39期)神奈川県立商工高等学校長が第12代校長として任命される。

平成5年(1993年)

4月9日 新校舎改築工事着工(地鎮祭)

平成6年(1994年)

平成7年(1995年)

3月1日 全面改築により新校舎(鉄骨鉄筋造10階建)が竣工する。神奈川県立総合高等学校が併設された。

4月1日 吉田寿 校長が退職(在任期間3年)し、久保倉清 神奈川県立相模原工業技術高等学校長が 第13代校長として任命される。

平成8年(1996年)

3月27日 全面改築によりグランド整備が竣工する。

9月30日 体育祭を新装なった自校内グランドで4年ぶりに実施する。 

平成9年(1997年)

平成10年(1998年)

平成11年(1999年)

4月1日 久保倉清 校長が退職(在任期間4年)し、須藤篤也 神奈川県立生田高等学校長が第十14代校長として任命される。

平成13年(2001年)

4月1日 須藤篤也 校長が退職(在任期間2年)し、海野範幸 神奈川県立小田原城北工業高等学校長が第15代校長として任命される。

11月14日 創立90周年記念式典 (横浜文化体育館) と祝賀会 (ロイヤルホールヨコハマ) を施行。式典参加者約1,500名、祝賀会参加者約400名。

14年(2002年)

平成15年(2003年)

4月1日 海野範幸 校長が退職(在任期間2年)し、梅田政勝 神奈川県立平塚工業技術高等学校長が第16代校長として任命される。定時制過程で本年より従来の4年卒業と通信制併設の3年卒業の選択制を採用。

平成16年(2004年)

平成17年(2005年)

4月1日 梅田政勝 校長が退職(在任期間2年)し、井上尚行 神奈川県立相模原工業技術高等学校長が第17代校長として任命される。

平成18年(2006年)

3月2日 定時制過程で初の三修制卒業生を送り出す。(機械科27名、建設科14名、電気科21名)

10月21日 県立高校同窓会22校で第1回「青春かながわ校歌祭」を県立青少年センターにて開催本校同窓会も参加(参加者同窓生50名、在校ブラスバンド部員20名)今後毎年開催予定。

平成19年(2007年)

3月6日 平成18年度生として、373名(全日制 299名、定時制 74名)の卒業生を送り、創立以来総計 2万9千名の卒業生になる。

4月1日 副校長制度導入により、下釜信三 県立神奈川総合産業高等学校が初代副校長として任命される。

平成20年(2008年)

4月1日 井上尚行 校長が退職(在任期間2年)し、渡部憲治郎 神奈川県立向の岡工業高等学校長が第18代校長として任命される。

平成21年(2009年)

4月1日 渡部憲治郎 校長が転職(在任期間1年)し、伊藤武志 神奈川県立川崎工業高等学校長が第19代校長として任命される。

平成22年(2010年)

平成23年(2011年)

3月1日 東日本大地震。特別時間割で生徒の大半が帰宅していたので、人的被害はまのがれたが、施設・設備・機材の被害は予想以上に多く、週明けの14日は臨時休業とせざるをえなかった。

5月1日 創立100周年記念碑除幕式・記念植樹式

11月11日 パシフィコ横浜 国立大ホールにおいて創立100周年記念式典・講演会、ロイヤルホールヨコハマにおいて祝賀会を挙行した。

平成24年(2012年)

平成25年(2013年)

4月1日 伊藤武志 校長が転職(在任期間4年)し、後藤博史 神奈川県立磯子工業高等学校長が第20代校長として任命される。