同窓会の回顧記 ~建築科34・35期の会~

同窓会の回顧記 ~建築科34・35期の会~

神奈川工業建築科34・35期の同窓会回顧記です。

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(9)臨戦体制と軍事教練の思い出

私達は、中津にあった陸軍飛行場に勤労動員の命令で、約一ケ月滑走路の整備や土木工事を連日行っていた。昭和19年、6月にサイパン島が玉砕陥落した。米軍はそこに大規模な飛行場を建設し、11月頃よりB29により本土偵察飛行を開始した。

ある日、兵隊が壕の中に対空機関砲を据えて真剣な顔で操作して居るので、後で班長に聞いてみると、軍だけの警戒警報が出たと言っていた。その時の話では、既に軍の上層部には本土空襲が近い、と判断しているとの事であった。
私達は、中津にあった陸軍飛行場に勤労動員の命令で、約一ケ月滑走路の整備や土木工事を連日行っていた。昭和19年、6月にサイパン島が玉砕陥落した。米軍はそこに大規模な飛行場を建設し、11月頃よりB29により本土偵察飛行を開始した。

ある日、兵隊が壕の中に対空機関砲を据えて真剣な顔で操作して居るので、後で班長に聞いてみると、軍だけの警戒警報が出たと言っていた。その時の話では、既に軍の上層部には本土空襲が近い、と判断しているとの事であった。

11月末、中津飛行場から、続く学徒動員で既に上級生が居なくなっていた学校に帰って来た。教練の時間に教官が何を思ったのか、武器庫に在る三八式歩兵銃の手入れを行うとの事、皆初めて銃を持てると喜び、教官に銃の分解を教えられて油布で清掃を始めた時、空襲警報のサイレンが鳴ると同時に当方上空に敵機一機が見えた。これが初めて見る敵機B29で高々度を南に向って飛行している。校庭の南、東横線の向こうにある消防署の望楼からは我々に向かって「退避!退避!」と叫んでいるのが良く聞こえる。既に上空を通り越してしまって居たので、退避はしなかったが教官は慌てて、「早く銃を格納しろ!」と言って職員室に行ってしまった。しかし、組み立て方を教えないままで行ってしまった為、苦労しながら組み立てて事無きを得た。今まで盛んに防空演習をやって来たが、これが本当の空襲となると皆が慌ててしまったものだった。年内は小規模な空襲はあったが大きな被害は出なかった。やがて12月には、私達も鶴見の帝国自動車に、本格的な勤労動員に駆り出されて勉強どころでは無くなっていった。

(10)帝国自動車での勤労動員

昭和19年12月11日午前9時、私達はかねてより命令が下されていた勤労動員を受けて、鶴見市場にある帝国自動車工業㈱に集合。直ちに入社式、身体検査等を受けた。私達は建築科出身の先輩でもある遠藤先生の指揮下で勤労作業に当たる事となった。

この帝国自動車は、いすゞのシャーシーにトラック、バス、移動修理車等のボディー艤装が主体の業務とする軍需工場であった。昭和19年12月11日午前9時、私達はかねてより命令が下されていた勤労動員を受けて、鶴見市場にある帝国自動車工業㈱に集合。直ちに入社式、身体検査等を受けた。私達は建築科出身の先輩でもある遠藤先生の指揮下で勤労作業に当たる事となった。

この帝国自動車は、いすゞのシャーシーにトラック、バス、移動修理車等のボディー艤装が主体の業務とする軍需工場であった。私達は、四つのグループに分かれた。組立仕上、機械木工、保守営繕、弾薬箱製造等である。電気溶接の光に目を真赤にする者、本工場の騒音と水屑や粉塵を全身に浴び、安倍川餅の様になっても必死に頑張る友。横殴りの粉雪が舞う工場の屋根を修理する営繕班の仲間、将に縁の下の支えの作業。重い弾薬箱に手を挟み、血を流し乍ら頑張り続ける友人も、皆それぞれ戦争の勝利を信じ、母校の名前を汚す事があってはならないと、唯々一心にその課せられた仕事に励む日々であった。然しこの間、私達仲間に大きな不幸が起きてしまった。重労働である機械木工班所属の一人が、手押しブレーナーで右手の人差し指を切断する痛ましい事故に遭ったのである。

お国の戦争遂行の為と言うが、クラスメートから公傷者が出てしまった事は、我慢強くて世話好きの彼に、60年を経た今でも心から申し訳ないと思い続けているが、何とも残念でならない。事故の直後に彼のおふくろさんが、「うちの子は人差し指をお国に捧げたが、この先々、事ある毎に本人は苦しむのだろう。その時は皆さん後押しをしてやってね。」と、私達に語られた言葉は今でも忘れられない。彼は家業の塗装業を立派に継ぎ、五代目も見事に育て上げて今も尚、車を、時には単車を駆使して東奔西走の毎日を送っている。一切一言も、指の事故について触れた話しは聴いた事は無い。勤労動員中の数多い教訓中の教訓と私達は受止めている。

(11)空襲前夜

昭和20年に年が変わると警戒警報の発令は毎日のようになり、B29が偵察飛行や嫌戦思想啓蒙作戦の宣伝ビラや電波妨害用アルミ箔を投下、P51ムスタングが機銃掃射に飛来した。

3月10日夜半、東京に300機程のB29による大規模な空襲があり、横浜からも焼夷弾を落とす様子が良く見えた。やがて東京の空は真赤になり明け方まで燃え続けた。これ以降昼夜を問わず空襲が激しくなってきた。

4月、我々は3年生になった。学校に行っていないので何の感激も無い。4月に入ると川崎工業地区にも被害が出て、とうとう自動車のシャーシーが来なくなり、今までのボディー組立作業か出来ずに他の作業を始める始末となった。5月になると、空襲は全国的にも頻繁になり、毎日警戒警報と空襲警報が鳴りその度に省線(国鉄)と京浜電車が止まってしまうので、工場の行き帰りにはよく線路の上を歩いた。途中、鶴見川の鉄橋を渡る時は、木製の枕木が等間隔でなく、下を見ると水がとうとうと流れていて怖い思いをした。

横浜市内にも所々小規模な被害が発生していたが、5月24日、25日東京に連続して夜間空襲があり、再び空は真赤に染まり何かやり切れない気持ちになった。それでも我が家は焼けていないので、まだこの戦争には勝つと信じて毎日を過ごしていた。そして、5月29日、横浜大空襲の朝を迎える。

何故、『横浜大空襲』と言ったのか。サイパン、テニアン、グアム島から発進したB29戦略爆撃機が517機と、初めて磋黄島から発進したP51護衛戦闘機の101機とで編成された戦爆混成部隊の大編隊による、昼間爆撃であって後にも先にも無いからだ。
如何に、米軍の物量作戦が凄いかが分かる。もっとも、終戦になって進駐軍が上陸して来てからはもっと驚く事になる。何でこんな国と戦争をしたのが呆れ果てる事となった。

(12)横浜大空襲の日

昭和20年5月29日朝、何時もの様に勤労動員で鶴見に在る帝国自動車に出勤する為に7時過ぎに家を出た。既に「南方面より敵概数艇団が北上中」の東部軍管区情報はラジオを通じて知っていたが、どの都市に向かうのか分からなかった。

昭和20年に年が変わると警戒警報の発令は毎日のようになり、B29が偵察飛行や嫌戦思想啓蒙作戦の宣伝ビラや電波妨害用アルミ箔を投下、P51ムスタングが機銃掃射に飛来した。

3月10日夜半、東京に300機程のB29による大規模な空襲があり、横浜からも焼夷弾を落とす様子が良く見えた。やがて東京の空は真赤になり明け方まで燃え続けた。これ以降昼夜を問わず空襲が激しくなってきた。

4月、我々は3年生になった。学校に行っていないので何の感激も無い。4月に入ると川崎工業地区にも被害が出て、とうとう自動車のシャーシーが来なくなり、今までのボディー組立作業か出来ずに他の作業を始める始末となった。5月になると、空襲は全国的にも頻繁になり、毎日警戒警報と空襲警報が鳴りその度に省線(国鉄)と京浜電車が止まってしまうので、工場の行き帰りにはよく線路の上を歩いた。途中、鶴見川の鉄橋を渡る時は、木製の枕木が等間隔でなく、下を見ると水がとうとうと流れていて怖い思いをした。

横浜市内にも所々小規模な被害が発生していたが、5月24日、25日東京に連続して夜間空襲があり、再び空は真赤に染まり何かやり切れない気持ちになった。それでも我が家は焼けていないので、まだこの戦争には勝つと信じて毎日を過ごしていた。そして、5月29日、横浜大空襲の朝を迎える。

何故、『横浜大空襲』と言ったのか。サイパン、テニアン、グアム島から発進したB29戦略爆撃機が517機と、初めて磋黄島から発進したP51護衛戦闘機の101機とで編成された戦爆混成部隊の大編隊による、昼間爆撃であって後にも先にも無いからだ。如何に、米軍の物量作戦が凄いかが分かる。もっとも、終戦になって進駐軍が上陸して来てからはもっと驚く事になる。何でこんな国と戦争をしたのが呆れ果てる事となった。

(13)終戦へ

5月29日の空襲以後我々のクラスも大きく変動した。50名のクラスメイトの内で、半数は住む家や教科書衣類等を全てを失って焼け出され、それぞれの疎開先や親類を頼って転校して行き、残った者は30名余になってしまった。既に食料事情は極端に悪く、配給も途絶えがちで食べ盛りの子を持った親達は苦労したと思う。衣食住の全てを無くしたのだが、気持ちだけは挫けず勤労動員を続けたけれども、無残に焼け落ちた母校を目の当たりにしてから全くの放心状態で、唯々、命令に従って黙々と作業を続けていたのだった。

空襲以後、工場に車のシャーシの入庫が少なくなるとトラックも戦時型となり、エンジン部はエンジンを覆うボンネットだけ、ラジエターは剥き出し、ライトはラジータの前に1個、ブレーキは後2輪だけ、運転席も荷台も全て木材で作って出荷した。それでも仕事が有れば良い方で他の職場では本来と違って弾薬箱の製作を行った。何故かラワン材だけは豊富に有った。

6月末には沖縄も玉砕した。「いよいよ本土決戦に備えよ」との命令が有った、もう日本全体の国力は殆ど底をつき、戦力は残っていない有様だったと戦後確信するのだが、それでも最後の勝利を信じ毎日工場に通った。

8月9日ソ運が対日参戦、「日本は大丈夫なのか?」と2、3の者と話合った。

この頃、空襲で電車が動かず、徒歩で10時過ぎにやっと工場に着いた。ところが、今日は停電で作業が出来ないので、帰って良し」との事。

「折角苦労して工場まで来だのに」と、がっかりした。工場の傍らに、爆風で落ちた未熟な梨の実が拾い集められており、それを1つ貰って帰った。

8月14日夜、明15日正午に重要放送が有るので全国民は放送を聞くように、とラジオは知らせていた。疎開先の数家族が集まり何の放送なのか暫く議論したが、結局は、「最後の一人まで戦え」、と言う政府の放送だろうと、結論を出して床に就いた。

15日朝、横浜駅京浜電鉄のホームで乗換えの際、級友と合流した。その時折山下から来ている友が「今日の放送は、日本が降伏する知らせだ」と言う。「そんな馬鹿なと誰しも思ったが彼が言うには、昨夜より降伏の噂で新山下町の部隊が決起し、今朝早くトラックにて東京方面に出動して行ったのを、近所の人が見聞きして町中うわさになっているとの事。厳重な言論統制下でも、「人の口には戸は立たない」の例え通り、半信半疑で向上に向かった。工場に着いても仕事は無く、12時前に「事務所前に集合」の号令にて、集合整列して正午を待った。

ラジオを一段高い所に舞き、その前に事務所の幹部職の方と職員、我々学生だけ、総員50名位。何時もは大勢で式典を行ったが、この頃は出勤するのは少人数になっていた。

やがて正午、アナウンサーの前置きがあり「只今より天皇陛下のお言葉があります」と告げられ、統いて。

『朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ処置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク、朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ』で始まる勅書の朗読が畏くも天皇陛下の声で行われた、いわゆる玉音放送であった。全国民誰しもが天皇陛下の声を聞いた事が無い。

何か我々と違った鷹揚のあるアクセントなので違和感は有った。

『ナンジ臣民是レ克ク朕カ意ヲ體セヨ』

で終わった。この間、直立不動の姿勢で聞いていた。勅書の中頃で意味が分からない所もあったが、ともかく日本が降伏し戦争が終わった事は理解できた。

全ての行事が終わり、何時もの弾薬箱を作っている所に皆集まり、これからどうなるのか話合ったが結論は出ず、終業の時間まで過ごした。周りは全く静かで皆敗戦のショックに落胆していたのだろう。こんな混乱の中でも電車は動いていたし人々は落着いていた、日本民族の優秀さや勤勉さは、こんな所にも現れていたと感心する事しきりである。

8月28日朝、県庁前の日本大通りに集合した。連合軍司令長官マッカーサーが税関ビルを使用する等の事から、県庁から海岸通り周辺の主な建物内外の物品片付けと清掃作業に動員3日間程これにあたったが、これ等一連の行動に関しての細かい指示や連絡なども含み、何時、何処で、誰が、誰から指示を受けたのか不明だった。軍隊も警察も組織で動く機関は機能せず、結局我々学生の所に作業が回ってきたのだろう。

未経験の大混乱のうちに右に左に動き回る様な日々であった。しかし終戦後60年を経た今、私達はあの混乱に巻き込まれて命を落とさなかった事は、不思議でも有り幸せな仲間だなと、感謝している。

(14)仮設校舎で授業再出発

昭和20年8月22日頃から8月30日迄、山下町海岸通り付近のビルを清掃後、9月から県立第一高等女学校(現、平沼高校)で間借りし授業を開始、帝国自動車㈱の青年学校での授業は10月からと、目まぐるしい経過の中で色々と対処、所詮詳しい事は知る由も無いがとにかく混乱の真っ只中での毎日でした。

最初は机、椅子も無く荒木の床に胡坐をかき講義を聴いたもので、授業は午前と午後に別れ四時限であった。

昭和21年1月から5月まで午後、6、7月は午前、8月26日から翌年3月までが午後の授業。昭和22年4月から1日7時限授業が復活した。二部制の時の定期試験等は、午前組が二時限、午後組が二時限でテストを受け、午前中四時間で試験が終了すると言う具合でした。

昭和22年7月31目、一学期が終った日に間借り校舎で、「終業式兼校舎返還感謝式」と言う儀式を、帝国自動車の青年学校で厳かに行われた。県立工業学校創立以来で最初で最後の、前代未聞の式に私達は列席したのである。

昭和22年9月1日、焼け跡で戦災復興中であった仮設校舎の第一期工事が完成した。

この戦災復興工事を指揮監督した方は私達の先輩で建築科三期卒業の下田節二氏と建築科26期卒業の和田平氏でした。

当時は、占領車の統制下で建築資材が入手困難を極める中、大変なご苦心を母校復興に捧げられたと私達は伺っている。

焼け出されてから2年3ケ月、お先真っ暗だった私達は、仲間同士で励まし合いつつ、やっと間借り授業から自分達の校舎へ戻る事ができました。仮校舎は木造の平屋建てで、屋根は原型セメント瓦葺き、外壁は下見板張りクレオソート塗仕上げ、室内の床は杉板張り、天井、壁の内装はソフトテックス張りでした。冷暖房は無く、全ての窓硝子には盗難防止の為に、白ペンキで「神工の文字が1枚1枚化書かれた校舎でした。一期工事の完成が9月、まだ暑く校舎の内外共、蒸し風呂状態、11月になったら校合内は隙間風が通り抜けて風洞実験室の様でしたが、自分達の校舎に入る事が出来た安堵感と慶びを私達は得る事が出来たのだった。

(15)仮設校舎で授業再出発

戦災からの復興第一期工事は、昭和22年9月1日に完成し、9月6日には始業式が行われた。私達は、これに先立って7月11日と12日に校舎周囲の地均しをして、7月14日から18日にかけて学校敷地の平板測量を行ない、8月2日は帝国自動車の仮校舎から机椅子等をトラック4台に分けて運んだ。21日は机、椅子の破損状況をチェックし、更に9月11日にも久里浜から机、椅子を搬入している。何れも、暑い盛り夏休みを返上しての作業でした。

私達建築5年生のホームルームは、北側棟の西端、廊下の行止まりで、一般教室の二つ分の広い部屋であった。この部屋は時によっては集会室として使用された多目的教室であった。天井、壁はテックス貼り仕上げの殺風景なガランとした中で、私達20人程度の生徒に講義をされた先生も、失礼だが、さぞやり難かっただろうと思う。冷暖房も無く冬場はオーバーを着たまま、足元の隙間風は非情にも冷たかった。とにかく、衣食住全てが無い中で、先生も生徒も全員が毎日暑さ寒さを凌ぐ事、身体労働する事、遠くの道のりを歩く事、そして上司者の指示にすぐに従う事、何事も我慢し耐え、目的を持つ事、等は私達年代の者に共通した心構えとして、戦中戦後にかけて育まれてきたものだ。母校、県立工業高校の旗印「質実剛健」そのものではなかろうか。

(16)抄話二題

昭和23年1月26日より週5日の授業とする事が、軍総司令部のマックナマス大尉の提言により、遠距離通学者の比較的多い我校で、テストケースとして実施される事となったのだった。

然し、これが何時まで統いたか定かではないが、今思えば時代の先取りであった様だ。

②長髪OK!

話は前後して恐縮だが、昭和22年6月20日先生を交えて論議した、中に「髪の毛を伸ばしたい、坊主頭を強制する時代ではないのだから、頭髪の形は自由にすべの声が強く出た。そして「建築科には親が、職人や職方をなどを集めて仕事をしている家庭が多い、今は学生で修行中だがやがてリーダーになるので貫禄を示す必要がある?坊主頭では引け目を感じる」今思うと笑止千万な理屈だが、先生は検討を約束してくれた。それ以来クラスで「貫禄を付けやがって」の言葉が流行になった。やがて長髪がOKの指示がなされた。これは時代の魁になった様な、笑い話だろうか。

--◇--

「終戦の混乱期五年生中学校から新制三年制高等学校へ強いられるなか、勉学に勤しんだ同期の仲間たち」

☆第34期(旧制)昭和23年3月卒業(37名)

大水正憲・大塚敬助・岡田九二六・奥津秀夫・金川康雄・山田勤・黒川新太郎・鈴木榮一・高橋忠好・山崎一昭・吉原秀夫・(物故者)石井富美雄・小林(土志田)禎吾・山田彰・湯沢功

☆第35期(新制第1期)昭和24年3月卒業

伊藤礼次郎・小川要・大貫重利・金子文比古・河合良蔵・小長谷四郎・小林博弥・近藤喜代弘・斉藤潔・田村和夫・平迪明・高宮勲・竹延和夫・常盤義和・平本直一・穂積朋美・村上昭一・矢野試(物故者)鈴木繁

☆第35期(新制第1期定時制)昭和24年3月卒業

相沢榮一・山室栄一・(物故者)小林和夫

(17)クラブ活動の再出発

我が県立工業の課外クラブ活動と云えば、先ず相撲、柔道、マラソン等ではなかったろうか、終戦後これらも復活した事は勿論だが昭和21年7月14日、全国中等学校野球犬会神奈川県予選の第1回戦が早朝8時15分から商工実習グランドで始まった。対戦相手は市立川崎工業であった。ユニフォームやストッキングは揃わず、スパイクでない運動靴、マークは左腕にKTS、左袖にはTの横棒の左右にKとSを配したものを付けていた。外野の後方はとうもろこし畑で外野手は間を抜かれようものなら、ボールを探すのに大変苦労した様だった。試合は8回コールド12対1で勝った。戦後初めて校歌を高らかに歌い、皆明るい笑顔で喜びを分かち合った光景は、昨日の様に思い出す。

戦後夜話の早かったバスケット部は、私達建築科5年生が主力で、他に機械、電気、電気通信科の1~5年が熱心に活躍したが、ここも総てが無い無いづくし、先ずコーチは不在で、コート、リング及びボード、ボール、靴は無く素足であった。皆が思い思いの服装で、バレーボールを使ってパスの練習から始めた。コートは滝頭、子安、日枝、共進、蒔田、大岡の各小学校を米軍に頭を下げ放しで借用し続けた。(当時は駐留軍が体育館等を厚生施設として使用、その為、米軍の許可が必要だった。)

放課後、大急ぎで市電に飛び乗り目的地に行き、4時~6時迄練習、練習後コートを拭き掃除して7時30分頃、真っ暗のコートに礼をして帰路につく、照明の使用は許可されなかったので、特に日暮れの早い冬季には大変困った。このような毎日を繰り返して頑張った。

チームにとって一番嬉しかったのは、頼みの綱であるコーチを、元の神中(現、希望ヶ丘高校)OBの浪崎さんが、私達の気持ちを快く承知して下さって無報酬、手持弁当で引き受けて下さった。バスケットの基礎からフォーメーションに至る迄、真剣に休日返上の特訓でした。この有難い特訓に報いる為には、神奈川県下で一位のチームに成る事しか無かったのでした。

昭和22年10月24日、県大会で浅野、Y校、三中を破り決勝戦を湘南と対戦、僅少差で準優勝。その結果、国体出場は果たせなかったが、あの苦しい練習とコーチの浪崎先生の教えは、私達当時のバスケット部員一同、60年後の今も脈々と生き続けている。

平成11年の2月20日、当時のバスケット部員は浪崎先生を囲み謝恩会を催した。先生は私達の指導終了後、横浜市立の小、中学校の教諭、教頭、学校長の要職を無事退任され悠々自適の中にあって尚、長年神奈川県バスケットボール協会の会長も続けられていた方でした。

この様に、色々の立場を超えて、多くの立派な方々から戴いた訓育ご援助に対しては、当時の神エバスケット部員一同は心から有難く感謝申し上げて居ります。

残念な事に、その浪崎宏先生は、平成12年8月15日に、多くの教え子を残され静かにご逝去、実に神奈川工業をご自身の母校と同様に愛し、私達を終始親身に導いて下さったのでした。ここに共々若き日の先生を偲びバスケット部員一同、亡き先生に喪心からご冥福を、お祈り申し上げます。

神工復活第一声を挙げたバスケット部のメンバー
〔前列左から〕堤・篠原・平・田村・坂本〔中列左から〕山田・鈴木・飯山・飯塚〔後列左から〕丸山・鎌田・奥津・浪崎先生・笹尾先生(円内)山室

バスケット部の事ばかりで大変失礼しましたが、テニス、卓球、サッカー或いは新聞部等々も復活し、皆、道具や着衣、材料それに資金等総てが無い益い尽くしの中で、各部共張切って学校生活に喜びを感じ明るく競い合っていたのが思い出される。そして各部それぞれ、バスケット部と同様に、素晴らしい出会いに恵まれ卒業後社会に出ても、その出会いと経験を充分活用され、日々を送られて居られると思う。

(18)おわりに

私達の学校生活が終わった頃は、世界情勢からして、明日の事も想像出来る状態ではなった。
太平洋戦争終結60周年の節目でもある。平和な今日を振り返ると、戦中戦後育ちの私達はひたすら国の為戦争、復興、そして高度経済成長の激動中で、一心に協力しその箱もの造りを使命の建築技術者として、己を忘れて社会に仕えて来た様に思う.

衣食住の総てが無い時代から、品物の豊富な時代へと大きく変わった夢のような世相となった今、時として面食らってしまう。だが私達は決してあの復興の努力、苦心だけは忘れ去る事は出来ない。更に技術者の一人として、沢山の方々の指導とおカ添えを戴けて大変幸せで、私達一人では何 も出来なかった。そして、母校の校訓にある「質実剛健」を常に心して毎日を過ごした成果が、及ばずながら今の姿ではないかと、自画自賛の様だが、私達同期はそれぞれ実感していると思う。

私達、建築科34期で神奈川工業高等学校道築科新制第1期(通算35期)生一同は、近々創立100周年を迎える母校のお陰で、その「天与の使命」を終わらんとする今、恩師の先生、社会の上司、先輩、友人、そして家族の皆にも「本当に有難う御座いました。」と言えるのが嬉しい。

終わりに大変失礼ですが、この回顧の記事を会報に取り上げて戴けた事を、同窓会長はじめ、事務局長、同窓会役員の皆様色々とご配慮を戴き、有難う御座いました。同窓会の発展を同期生一同、心より祈念し失礼いたします。
文責 建築科34・35期 金子文比古、矢野誠一、相澤榮一朗