私の半生記 工藤又二(建築19回)~

私の半生記 工藤又二(建築19回)

私の半生記 工藤又二(建築19回)です。

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◇内地帰還編◇

子供のオムツ以外は、ほとんど手離してペシャンコになったリュックは支給品で一杯になった。いくつか各種の予防注射を受けた。

天下晴れて娑婆に出た12月8日の朝は宵だった。冷たい街を行く人の目、また厄介者が増えたぞ、そう言っているような気がする。今からはすべて自弁で賄わなければならない。博多駅から、何時に出発するか分からない鹿児島本線上り門司行に乗った。小倉で日豊線に乗替えて中津へ向かう。当時、無秩序混乱の汽車は本数も少なくのろのろ巡行である。着ぶくれた人間と背負い切れない荷物を抱え、デッキにぶら下がる人、窓からの乗り降りは当り前、殺気立った乗客はわれ先に、これに乗り遅れればいつ次の便があるか分からなに民族の大移動のさ中だった。

中津に着いた。既に夕刻だった。無理すれば宇佐なる妻の里に辿り着けるかも知れないがその気力もなく、また連絡の手段も交通の便もない。小さな旅館に泊まった。みすぼらしい引揚者、その頃みすぼらしくない人はいないが、一見して引揚者と分かる私達は、フトン部屋と思える一室に冷たいせんべいブトンにくるまって寝た。せんべいブトンでもフトンに寝られたのは安東出立以来初めてだった。朝鮮で仕入れたお米を提供してその晩と翌朝、ご飯になって戻ってきたのは半分の量だとひがんで見た。翌朝、宿を出て散髪屋に入った。このままの汚れたヒゲ面ではとても里には帰れない。散髪屋さんは親切だった。始めから何回も何回も洗髪してからでないとハサミは使えない。ひどい汚れに私は恐縮して何度もお礼を言った。ここから妻の里、宇佐郡横山村大字上元重への直通便はない。

妻のカンで歩けば3時間はたっぷりかかるだろう。先張り順路とて再び日豊線に乗った。4つ目の豊前善光寺駅下車(次は柳ケ浦と言えば大体の地理はお分かり頂けよう)豊前善光寺からは懐かしい軽便鉄道に乗って、四日市市へ(四日市市から実家までは徒歩で3㎞はある)私にとっては2度目の妻の里訪問になる。見覚えのある静かな田園風景が開けて、戦争など何事も無かったような顔で私達を迎えてくれた。本来なら王道楽土の大陸から錦を飾って故郷へ入りたいものを、この姿村人に見られたくない妻の案内で裏道を選んで懐かしのわが家へ。

戸を開けて一歩土間に入った。正面奥の台所に居合わせた目の悪い義母は実娘の「母ちゃん」の声にも気が付かない。逆光線のせいもあった。この平和な里にも町の方から引揚者の物売りが絶えず訪れている。大きな荷物を背負った子づれの親子も物売りと間違えられた。「ハテ、私を"母ちゃん"と呼ぶ女は文子より他にないが…」とつぶやく、「ばか者、文子じゃないか」と叫んで義父が奥から飛び出して来た。終戦直前から3年近く、音信不通。生死不明の娘一家と両親との涙の再会だった。

妻の里がこの九州大分の農家であった事は、私達にとっては非常に幸いだった。母屋から離れて庭先10mの湯殿、薪で焚かれた五右衛門風呂が第一のご馳走、凡そ50日あまりの積りに積った垢落としに疲れ果てて招かれた座敷に上がれば純白米の夕飯の膳が第2の極楽、廃残さながらの私達が里の両親に賜れる唯一最高の土産は、なんといっても孫娘美智子1歳2ケ月の健やかな姿だった。乳離れしたばかりでの長い流浪の旅にも耐えに耐え、よくぞここまで生き延びていてくれた。道中子を失った親も多いと言うのに。義父母一家にとって私達3人の生還は何にもましての喜びだった。だが義弟俊司のフィリピンミンダナオ島での遺骨の還らぬ戦死はこの時初めて聞かされた。家には嫁入り前の義妹と、私とは11歳違いの義弟が居た。積もる話は明日として暖かいフトンに手足を伸ばして死んだように夢の世界に沈没して行った。

妻の故郷義父母の家、この中山家は今でこそ宇佐市に編入されているが、何十年この方横山村の中枢の地に在る。と言っても賑やかさなど夢にも感じられない片田舎である。ここは角地で、前はこの付近だけが役場と学校のための広い道で、道の向かいは自分のたんぼが開けその先々まで見通されるたんぼ続き、4m程の横道の前は兄弟5人が遊び学んだ横山小学校、道奥当家の裏手に村役場、反対方向2百mも行けば郵便局、日用品の店々がある。役場の裏には宗林寺という菩提寺がある。校庭の裏手から登った斜面は村の墓地、その前面にこの村の共同墓地がある。明治38年日露戦争から大東亜戦争まで98基の墓石が整然と並び戦没者が祀られている。義弟もその中の一人で墓碑に、「中山俊司」昭和19年南方12025部隊に編入、昭和20年7月4日ミンダナオ島ウマヤン川にて戦死(25歳)淳心院釈俊高と誌してある。私は何回かこの地を訪れ、義父母健在の折は必ず義母と共に義母亡きあとは一人でよくここで若くして逝った犠牲者を想いしんみりとしていた。

農家の朝は早い。朝寝は翌日だけで次からは仕事はしなくても家人と共に起き、朝の食卓に着く日課となった。いつ迄か先の見通しはつかないが親子3人の居候生活が始まった。文子にとっては勝手知った我家同然、水を得た魚のように動き出した。娘美智子はこの家の飼犬メリーと忽ち仲良しとなり広々とした家と庭先を飛び回って遊べる理想的環境の中で先ずは健康的に育って行くであろう。問題の多いのは私で、道中北朝鮮での上陸作線?で化膿した足の治療に医者通い、衰弱した身体もストレスの無いこの良環に救われてメキメキ回復してくれれば、いつまでも甘えてはいられない。ぼつぼつ農業のお手伝いが始まった。農家の一番の働き手とていえば農耕馬である。庭先のお風呂場の隣に馬小屋がある。ちょっと後足が不自由な雌馬が飼われている。

1月今は農閑期だが、農業には農閑期にして置かなきゃならない仕事がある。1年がかりで作った堆肥をかごに入れ、馬の背に振り分けて積み離れたたんぼや畑へ運ぶ作業のお手伝い、義父について行った竹薮、しの竹を刈り大束にして50㎏は有ると思える荷を義父が担ぎ私は30kg位の束を担がされた。義父に較べれば相当軽い筈なのに私には精}杯、必死の思いで担ぎ帰って何に使うのかと思えば、玄関横の大分古くなった袖垣の修理が始まったそのお手伝い。次の日は弁当持参でかなり離れた雑木の山へ行く。既に切り倒された急斜面の根元14cm5mmの薪にする雑木、之を下へ下へと投げ落とす作業。昼となれば義父と二人きり、白然もおかずにして義母の作った弁当。飲みものは100m下の渓流の水を弁当箱で汲みに行くのは私の役目。戻って来るまでに水は半分に減るが、之で二人には充分。夕刻までかかって散乱した雑木を林道近くに集結してあとは明日を待つ。翌日は足の悪い馬を連れて行く、まとめた雑木はつたのひもを使い、義父は巧みに筏に組む。ロープで馬に曳かせて林道を下がって行く。林道と言っても狭い、雨が降れば一時的に川となる。慣れているとは言え馬も通りにくい急傾斜の道である。その繰り返しで麓に雑木の山を築いて置く。いずれは荷車で運ぶのであろう。

2月も半ばを過ぎた頃、この辺は暖かい気候で二毛作なのであろう。秋の稲作の収穫のあと蒔かれた麦も既に10cmほど伸びて春の歌を歌い出している。遊び気分で始めた「麦踏み」。この単純作業が実は重労働だと知った。30分も足踏みすれば汗びっしょりになる。「麦踏み」話しには聞いているが実演は初体験。土から顔を出したばかりの芽を思い切り踏みつぶすことによって、分けつを早め丈夫に育つとは人間も動物も一緒だと悟る。野にも山にも行かない日は、納屋の前でのまき割り作業が持っている

長さ40cm位に義父が鋸で引いた丸太を斧で割り、軒下に積んで乾燥させ炊事用、風呂場用一年中の燃料になる。まき割り作業はスポーツ気分で結構面白いと思うが、職業として百中やらされたら忽ち音を上げてしまうだろう。義父は百姓仕事すべてに長けた篤農家と言える人、働き者で人望も厚い。村では区長と言って土木の担当で道路、水路、橋などの維持管理の役目をしている。お酒も好き、煙草も好き、濃いお茶も大好物。納屋続きの一室に内緒で「どぶろく」を造り、朝に晩に嗜んで居た。私も時々お相伴になった。白酒に似て甘味もあり下戸の私の口に合うと思うが、すすめられない限り自分で手を出すわけには行かない。何し何しろ居候の身である。

私が碁を打つと言う噂が村人に伝わり、隣家の大邸宅の助役はじめ数人が「碁打ち」の居ることが分かり1、2回熱心な誘いに乗ったことも有ったがその方の趣味を持たない義父の手前、外出は遠慮すべきものだと思っていた。農業には日曜も祭日もない。まして私の今の身分、命ぜられれば出来る限りの力で義父の手助けをしよう。よく晴れた日に裏庭でまき割りに熱中して居た。多分、日曜日でもあったのであろう。役場に勤める父の親しい知人がやって来て、私に碁を打ちに行こうと誘う。

私は見てのとおりの作業中だと断る。川谷さんは(この村には川谷姓が多い)義父に向かい、今日は是非私を解放してやってくれと頼む。川谷さんは家の事情を良く知っていて、半ば強引に呼び出さなければ私が碁に出れないことを承知している。義父は人情厚い勘の良い人、すぐ川谷さんの意図を汲んで「ここはいい、すぐ行きなはれ。」と言う。

私にも少しのためらいはあるがイソイソとして川谷さんについて行く。碁仲間が3、4人集まって個人の家、適宜の手合割で遊んで来たが、その様子を熱心に聞いてくれたのは義母と妻の文子で、私が囲碁と言う高尚?な趣味で近所の有名人とお付き合い出来ることを喜んでくれた。私のわずかな体験は農業のほんの一部を垣間見たに過ぎないが、身体が資本とは何処の世界でも言われるが、農家ほど身体を体みなく動かす仕事は他に少ないと実感する。何しろ朝が早い。私の今は頭は空っぽで労働する。お腹は空く。食事が待遠しく、おいしい。

夜の食事が済めば、もう眠くって眠くってそれこそ、バタンキューの世界に入る。引揚げ道中の辛苦で栄養失調の私の身体は、この好環境のお陰で今迄以上に体重も増え絶好調と思わせた。ところがである。

3月に入った。いわゆる木の芽時、今は花粉症で悩む人も友人の中にも時々見掛けるが幸い私にはその気がない。私の欠陥は眼にある。潜在していた持病がドッと吹き出して来た。子供の頃から毎年のようにこの時季になると悩まされて来ているが、今回は引揚げの労苦がたたったのか、特にひどくその対策はいよいよの上京を控え急がなければならない。病名は眼瞼縁炎という。

症状は朝、目覚めたとき目が開かない。目やになら水で洗えばすぐ溶けるけれど、私の目は上瞼のまつ毛の根元から出た膿が下瞼のまつ毛とくっついてしまって離れない。とりあえずの対策としては、ぬるま湯に朋酸を溶かし、脱脂綿を割箸で挟んで洗うのだが、固まった膿はなかなか取れない。無理に取ろうとすればまつ毛は、みな抜けてしまう。朧は赤く人前に見せられない顔となってしまう。近所に目医者は居ない。義母は病名は知らないが若い頃からの眼病で中津の有名な生島病院に時々通っている。ここからはおよそ15㎞の道のりだけれど、私も毎日の病院通いが始まった。

私のメモによれば3月2日生島病院初診14円、バス片道6円50紙、診療費は以降4円ずつで済むが交通費の方が高い。引揚げ以来約3ケ私の現金収入は0である。衣食住と言うが食、住はただ同然、衣は下着位のもの、その他医療費は若干かかるが、引揚時の交換の、1人千円の新円は結構使いでが有ると思ってのは錯覚で、之で食料費、住宅費を払っていたら、たちまち行き詰っていただろう。お金は大切なもの、少しでも節約したい。通院のバス賃を減らすため片道を歩いた日もある。短区間でバスを乗り捨ててあとを歩く日も多く、たった1日だが往復歩いた日もあった。

春先の陽の光が眩しくて黒眼鏡を掛けていた。或る日のこと、村道を離れて小川の土手、持参の弁当を開いていた。今はこの通院が仕事だった。私服の刑事2人が私の前に立った。何事か事件を追っているのだろう。そろそろ春耕の季節、いい若いもんが昼日黒眼鏡で人目を避けるように弁当を食っているのだから怪しいと見えるのは当然だと理解できる。私は身分を証明するものは何一つ無い。懸命に事情を説明してやっと開放された。職務質問を終え2人は失望して去っていた。

後味の悪い思いで私は急いでその場を離れ、家路に向かった。帰宅して暫くそのことが賑やかな話題になった。3月24日迄1日も休まず生島眼科に通い治療に務めたが、快方に向かったものの完治は成らなかった。私にはこの目は現在の医学では直らない、という妙な確信がある。過去何回か医者にかかり、なお完治しなかった実感が残念ながらそう思わせるのだった。だが、このしつこい眼病は後に横浜に帰ってから「お灸」によって文字どおり完治したのだがそれは後の話。

(内地帰還編おわり)

◇上京編◇

当地へ帰還して暫くした時だった。ようやく連絡のとれた父からの便りで知る東京・横浜の情報は予想どおり、ますます深刻だった。両親一家6人は数回に渡る横浜空襲で焼け出され、東京・大森の焼け残った妹一家の一室で間借り生活をしていた。同時に終戦の年、軍籍を解かれた兄は陸軍病院を転々として最後は茨城那珂郡での死亡と知らされた。未成熟の弟妹を抱え、年老いた両親は二男である私を唯一の頼りとしているに違いない。

私も当然一家の柱とがるべき責務を自覚している。いくらかの迷いはある。此処に居れば衣食住は一応保証される。職も義父の力で何とかなる。私達をずっと此処に居させたいという義父母の親心は痛い程分かる。目の前に苦難の待ち受ける束京・横浜へ娘も婿も、この可愛い孫娘こそ、尚更やりたくないと言う。戦災の傷跡果てしない飢餓の都心へ何で火中の栗を拾いに行かねばならないのか、自分達の生活を良く考えろよ、と言ってくれる義父も私の親兄弟思いを見抜いてくれる。いくら止めても止まらないと思うが、今の身体ではとても無理だ。暫くのんびり田舎の空気を吸って体を恢復するのが先決問題ではないか、何も急ぐことはないと言ってくれる。事実、丙種合格、国民兵の私の身体はボロボロになっていた。長い引揚げ道中ただ気力だけで頑張ってきた。私にとってはこの宇佐郡横山村での4ヵ月の静養は、初めて農業の体験をしながら体力の恢復と心の充電の貴重な期聞だった。4月初めをメドに私の単身東京行を決めていた。

3月30日妻一人に見送られ、見馴れた道を食料を主に大きなリュックを背負って歩いて着いた。四日市町からはおなじみの軽便鉄道で豊前善光寺へ日豊線は午後2時出発小倉からは鹿児島本線で門司へ、(夜は走らない列車、たぶん駅で仮眠したのであろう)翌31日午前4時30分門司発、午後9時大阪着(またも、おちおち寝てもいられなかった)4月1日午前4時30分大阪発、午後7時30分横浜着。以上はこの頃から記し始めた私の一行日誌の記録であるが、当時列車に時刻表は有って無きに等しく、大分から横浜迄丸3日かかっている。残念なことに汽車賃はいくらか、何を食べたか、何処で寝たか、全く記録も記憶もない。

ただただ、列車が駅に着くたび降り乗りの先を争う大混乱の中でしがみつく思いで(それでも懐かしい)焦土と化した横浜に辿り着いたのだった。その夜は大森池上徳持町の両親一家の寄宿先焼け残った妹一家の一室に寝た。翌日からは一刻も休んでは居られない。幸い九州で宇佐八幡宮のご加護を受けて腹一杯の充電をして来た私の身体、自分で言うのもおかしいが八面六背の動きが始まった。その時明治14年生まれの父は65歳、現在ではそれ程老け込む成でもないが戦災で徹底的に打ちのめされ、横浜での生活の根拠を失い、長男を国家に奪われ、頼りとする二男は満州で生死不明、続く長女、次女言一女は健在ながら嫁ぎ先でー様の戦災者生活。病弱だった三男は戦時中昭和17年19歳の若さで病没。当時20歳の四男を頭に四女、五男、六男(11歳)の未成年を抱えて、もう測量事務所の再建は絶望とあきらめていた。

翌日、弟(五男)の案内で横浜市鶴見区東寺尾の父の友人、稲垣家を訪れた。稲垣さんは私が大連時代朝鮮京城市下水課に勤務、熱心に私を京城に呼ぶ工作をしてくれた人、私も一時は心を動かしたが、変身して上司に従って結婚、満州国安東行を選んだ過去の経緯があり少なからず負い目を覚えている人。しかし稲垣さんは鷹揚な人柄で父とは親友、子沢山の父に同情して、幸い焼失を免かれた自宅の一室を提供してくれることになった。止むを得ず東京に疎開した父の収入の元と言えば、これも疎開した地主の賃貸料(地代)の集金人となり、売上の何%かの手数料稼ぎを主としている傍ら、本業の土地の測量だが、何と言っても横浜を離れては生きて行けない。東京からの横浜通いは横浜に基地を再建しなければと痛感する毎日だった。

一時は絶望した父も私の帰還で希望を待ち始めたが、肝心な横浜の根拠も放棄してしまっていた。
永年住み慣れた土地は借地。家は自分のもの。ここは今も同じ西中学正面の前。戦争だけなわの時、学校を助けるため強制疎開させられ家は取毀された。行先は幸い世話なっていた吉田町に住む地主さん。吉田町は伊勢佐木町に続く危険度100%と言われる界隈とて、保土ケ谷の安全地に引趙したあと、留守番がてら大邸宅に住むことになった。

案の定、昭利20年5月29日横洪大空襲で物の見事に焼出され、生命からがら東京へ避難したのだった。強制疎開学校付近も類焼で、たとえ取毀されなくても一様に焼失免れなかった。そのお陰で学校は助かっていた。

再建不能と思った父は60坪の借地をこの一角に住む、Sさんと言うポス的な人に無条件で渡してしまった。終戦後、父の宅地は完全な野菜畑になっていた。私は稲垣さん快諾?を得て少しでも早く横浜に移らなければと思うが、翌日は測量の手助けをしてくれている母の従兄弟の菊次郎さんに会いに、私の頼りになれる従兄弟の川合さんに帰還報告。白楽に住む大地主の市原家

訪問帰還報告。それから問題のSさんを訪れた。その時、土地の復権は容易ではないと覚悟されられた。
それにしても、先ず転入手続がなければ食料の配給が受けられない。翌日は大森区役所へ行った。転入は書類不備で押し戻された。しなければならない用件は山程迫っている九州でお世話になった義理堅い田舎の人30数軒へお礼の手紙を書き送るも一仕事、主だった顧客の家へ私の帰還報告に駈けずり回り、頼りになるであろうこの近辺に住む学友(神奈川工業)の西沢君、山田君を訪ねた。東玉川町に住む西沢君は幸いに西沢組という看板で土建業を営んでいた。西沢君に頼み、池上徳持町から横浜の東寺尾へ引越荷物の運搬をお願いした。

大田区役所へ、のっぴきならぬ理由書を出して転人は承認された。大森区役所へ行き大田区役所へも行き大田区役所で漸く転入できた。何故か大森と大田と混乱している私の記録、実は大森区と蒲田区が合併して大田区となった。それはいつだったか妹夫婦に聞いても知らない。この文を書くに当たってその時期を確認して3月15日が合併の日と知った。若干の混乱が有ってもおかしくない時期だった。

転入をあわてなければならぬ理由は、先ず食糧の配給に係る、勿論衣料その他日用品の主なるものは配給切符制度で、転入者を極度に押さえる政策の中での強行突破が成功したのだと思う。次には横浜在住の旧友を尋ね、私の健在を告げ友好の復活をお願いした。そして横浜市鶴見区への転入手続を始めた。ここでも再度の交渉で承認された。なけなしのお金で材木などを購入、弟妹の協力を得て荷造り4月13日(日曜日)天森から鶴見へ牛車で引っ越した。戦災者の身、いくらも荷物は無いが、それでも家族6人+1人の生活必要品、牛車1台で用は足りた。牛車ということで御者付きだった。私達は勿論、歩きどうしだった。これまでもこれからも私の服装は兵隊服に戦闘帽姿だった。誰にも私はてっきり復員兵だと間違えられた。ただ挙手の敬礼はしなかった。

◇再興編◇

稲垣家は高台の住宅地、家族は少ないが5LDKほどの立派な家、その中の床の間付き8帖の客間、廊下の前は南向きの庭(当時は何処でも野莱畑になっていた。)何しろ7人家族を一室に住まわせるには此処しきゃない。稲垣家にとっては随分ご迷惑だったと思うが、切羽詰った工藤家再興の足掛けとして兎にも角にも横浜の一角に「とりで」はできた。

転入手続、追いかけて移動は横浜への手続は済ましたが、食糧その他配給が発効する日まで日数がかかる。大田区役所、町内会、組長宅、引き揚げ連盟へ引き揚げ届、米屋、酒屋へ、粉類、グリーンピース等配給ものの受領に頻繁と東京往復の連続だった。やがて配給ものは地元の鶴見区役所に移ったが足りない。食糧は只ただ飢えを凌ぐだけのものだった。

不幸中の幸いは、吉田町は類焼で直撃弾を受けたわけではなかった。庭に掘った防空壕に家財道具の一部と測量屋にとっての生命の綱、古いトランシット1台、Yレベル1台、平板一式が残っていた。その平板が唯一の稼ぎ手となって活躍し出した。既に使い古したその平板は三脚に取り付けたらそれっきり水平移動かなわぬ構造。整置(水平)致心(求心)定置(方向)もすべて三脚だけで操作しなければならない。当時は平板測量とは、そう言うものだと信じてその技術を体得して行った。勿論長年その道のベテランである親父からの伝承技術である。

内業は、家族雑居の8帖間の一角に蜜柑箱を置き平板を載せ野取り原図上スケールにて三斜計算、決まったところで墨入れ、墨は硯で磨る。斜線は朱墨を磨って入れる。原図を完全に仕上げてからトレース仕上げとなる。地積計算は専ら算盤以外には無かった。原図用のケント紙が有ったかどうか知らないが手には入らなかった。模造紙を平板の大きさに切って使っていた。厚紙を平板に貼るには卵白を用いよと教えられている。又は水貼りでも良いと言われているが、それは何日間も1枚の原紙で地形測量などをする時の心得であろう。われわれのような一筆測量をやる調査士(調査士は未だ誕生していない)は或いは邪道であろうが四隅を画鋲で止めて済ませていた。その証拠に既に使い古した生き残りのわが家の平板の四隅は画鋲による孔だらけで貼る度に画鋲の位置を変えなければならない。トレーシングペーパーは有ったがトレース原図そのものを依頼者に渡すため、しっかりした和紙に仕上げた。所在地番、地積(坪表示)縮尺、調査年月日はすべて筆、墨で手書きした。

親父の時代から何処の測量師もそのような習慣だった。従って筆跡を見れば誰さんの測量図だと瞬時に読み取れた。和紙の図面は永久保存がきくので珍重がられ、青写真で成果図を渡すようになっても地主さんによっては、和紙の原図を要求する人も居た。この和紙のトレペはこうぞ(楮)みつまた(三椏)など繊維を含むため青写真にうつすのには白っぽくなり不適当なので透明に近いうすいトレペも併用したが、墨で書く太字の部分が乾燥すれば収縮して芳しくない、と思っていた。今は昔、ふた昔も前の話である。

その間、大勢の家族、特に食べ盛りの青少年を抱えている。配給の食糧で足りる訳がない、やみ米、やみの食料を買い足さなければ生きて行かれない、と言ってもお米は統制品、有っても高値でとても手が出ない。しかも配給品以外に持っているのが見付かれば経済警察に勿ち「御用」となる。農家に伝(つて)のあるお得意先では報酬の代わりに食料(主としてさつまいも)などで補うことも多かった。

東寺尾かは京浜急行の花月園駅で乗車横浜駅を経て戸部駅又は日出町駅が職場への近道。職場と言い根拠地となっているのは、実は父が焼出された家から50~60mの道を隔てた筋向い、吉田町10番地に5階建都市財蓄銀行の建物がある。鉄筋、耐火構造なので幸い焼け残った。

現在は静岡銀行の看板となっているが、このビルの所有者は3階に事務所を構える故田辺徳五郎(市会議長迄やった人)社長の率いる田辺合資会社という不動産管理会社で、工藤測量事所はそこの専属みたいな存在だった。みたいと言うからには完全な専属ではないが代々の社長、子飼いの社員(番頭さん)共強い信頼関係で結ばれていた当事務所は都南ビル内という名称を使わせて貰っていた。実際は田辺合資会社の中に工藤測量所の席はなく、実際は現住所(昔も今も)六畳間の一室で内工業をやっている。世は戦火復興の真っ只中。測量の仕事はいくらでもある。ああそれなのに当事務所には残念ながら根拠地がない。

田辺合資会社から情報は貰える。父は地代の集金人として絶えず歩いている。その守備範囲はほとんど南区内に限られている。私も現場の終了後も地主宅を訪問して御用聞きをしている。仕事の注文受けと食料確保の切実な願いを込めて…未だ未だ電話などとても引けない。わざわざ東寺尾まで尋ねてくれる依頼者は滅多に居ない。

それにしても八帖間の一隅での内業製図は大家族を押し退けての場所取りはつらい。何とかならないものかと、私が帰還早々に訪れた従兄弟の川合圭一君は、西区久保町の借家に叔父、叔母一家と同居している。久保町は幸運な町で、あの関東大地震の折も今回の大空襲でもなお焼け残った町として横浜でも有名な界隈に在る。

川合圭一君は叔母の連れ子で、叔父は四男坊、私の親父は次男坊で私一家と同様の子沢山、私と圭一君とは二歳違いの戦病死した兄と同じ歳、子供の頃から兄弟同様に寝食学寮遊びも共にしていた密接に関係にある人、叔父は朝鮮で警察官をしていた。いつからか親父の口ききで都南財蓄銀行の行員として集金係りをしていた。

太っ腹の叔父は叔父一家の口減らしの為に圭一君を預かっていたものと思う焼け残りの家を再三訪れるのは単なる表敬だけではない、付加魂胆があった。垂涎の的は古びた木遣りの立ち机だった。当時金も無いが物は更に無い。漸く交渉成立して、ある日2人の弟を手伝わせてリヤカーを借り天下の国道をテクテクと久保町から東寺尾へ運び込んだ。勿論いくらかの謝礼はした。さて、何処に置くか、窮すれば通ずるという幸い廊下の隅の庭に面した一坪のサンルームがあった。物置として何も可もブチ込んであったものを片付けて机と椅子の置ける隙間を作った。蜜柑箱から一歩前進のわが事務所となった。

間借生活に悩みは尽きない。トイレの問題である。稲垣家は数部屋をもっているのでトイレもーケ所ではないと思うが客間に近い上の方のトイレである。急に7人家族が用を足すのである。もう厚かましさを通り越した我々でも矢張り気が引ける。遂に畑になっている底の片隅に深さ1m程の素掘りの穴を掘って主として夜陰にじょうじて用を済ます。満杯になったら土を埋めて次を掘る。夏も近い頃なので星空を仰ぎながら満州での井戸堀現場を思い出している。

入浴は週に一回程数百m離れた銭湯に行く。四男の弟は器用で缶詰の空きカンで四角い鉄板箱を電極を通しいろいろ混ざった粉でパンを焼き常食した。スイトンも常食の献立の一つだった。5月の初めの頃、クラスメートの山田が君が進駐軍の車にはねられて重傷入院と知らされた。10日程して彼の訃報を聞いた。

事後、事後となって見舞いも告別にも行けなかった一奥さん宛に丁寧なお悔やみの手紙を送った。噂には聞いでいだが進駐軍とは、とても恐ろしい在だと思った。晴天はもちろん曇句でも降らない限り必ず横浜へ出る。何しろわがテリトリーは中区南区西区、神奈川区の一部と限られている。ここ鶴見では島流しに会ったようなもの。乗物は京浜急行から市電、あとは歩き、ほとんど父と二人、平板と小道具、三脚とポール3本、時には木杭ももって、それは専ら私の役目。ポール三脚は明日の現場を考えお得意さんに預けて行く、親父は本業?の集金に回る。

時々は親父と二人中国人の店へ行ってコッペパンを食う少量の白砂糖をおまけに付けてくれる。それがこんなに美味しいものかと如何に飢えていたかを知る。食い物を求めてよく野毛へ行く、桜木町の屋台で一匹10円のふかし芋を食べた。家族と同じ配給の雑炊、スイトンだけではとても働けない、と健啖家の父の言い分、私も同感だった。

合間を見て元の古巣へ行って見る。何度見ても同じ無残なジャガ芋畑である。素人にしては上出来だと思う。当然にわか百姓は主食になるものしか作らない。ぐずぐずしていたら、職権で畑に地目変換されそうだ。(税務署管理の土地台帳の時代、職権うんぬんは冗談だった。)思いはいつか懐かしい昔の我が家の間取りを描いている。

自分はこの辺で眠っていた父はこの辺で仕事をしていた筈だ。切歯辣腕とはこういう時に使う言葉だ。充分の闘志を胸に秘めてSさんを訪れる、Sさんは同地番の一角、道路に面した一等地を確保して早くも住んでいる。地主は同じTさんだ。我が家の跡地の畑は余分のものだ。私は父と同行し、執念を燃やしてSさんに懇願、説得を繰り返した。

父は時局を絶望して放棄したと言うが何かの保証を貰ったのだろうか、そこがはっきりしないが、たとえ貰ったとしてもそれは当然お礼で一時使用のためと解釈すべきだ。現に元の権利者が家なき一家として放浪している、加えて二男一家が引き揚げ者として住み家を求めている。之が救えなければ社会の正義はない元をただせば国のため学校を助けるための強制立ち退きだったここで焼き出されたのなら生きている限り戦争が終れば当然バラックを建てて住んだにいない問題はジャガ芋畑にされてしまった事だ。開墾労力もあろう、種代もあろう、毎日の世話もあろう、肥代もあろう、肥料は主として下肥だったと思う、その愛着が手放したくない気持ちにさせている。地主のTさと両者の話し合いさえ付けば無条件で私達への復権を認めている。その点は安心して良い。問題はSさん次第だ。

私は時間はかかっても必ず復権は成ると確信して市の住宅課へはとうから交渉に行っていた。市は戦災復興予算で最小限10坪の住宅建築の用意が有る。ただ当然、敷地の条件が完備していればの話私達は死活問題、粘りに粘ってようやくSさんの回答を貰ったとりあえず半分の30坪(北側部分)を返す。権利金1500百円、ジャガ芋の収穫後と決まった。1500円が高いも安いも言っていられない。

30坪有れば10坪の住宅は建つ、私は市の住宅課、土地課へ飛んで行った。具体的交渉に移った。その頃の市役所は本庁舎の跡形もなく仮住居は野毛山公園の隣り現老松中学校在った。私は住宅課、S家、地主のT家を何回か往復して10坪住宅建築契約にこぎ着けた。10坪と言っても自由に間取りが設計できるわけではない。数個の雛形がある。その中の八畳と四畳半の二間の家を選んだ。市から敷地の視察があり、何日迄に整地完了せよとのお達し、Sさんを急立ててジャガ芋を除き平坦地を造った。測量はお手のもの、完全な測量図を既に提出済である。九州大分の妻とはたえず情報の交換はしているが、この状況実家の両親達はさぞハラしていることだろうと思う、が根拠地再建のメドがついた事を喜んでくれているに違いない。上京以来我が家再建の使命感で猪突猛進の形で突っ走ってきた私が、続く心労と栄養不足で九州での充電も切れかかって来たのか、スタミナ不足を実感する日が来ていた。

月日は10月に入っていた。市から建築敷地整地を急ぐことを催促、私は点検、完備していると報告、市から10日着工。20日完成の予定という。なる程吹けば飛ぶような木・平・スレート葺きだ。着工すれば完成は早いと知る。その折り九州からの知らせ、フィリッピンミンダナオ島で戦死の義弟俊司の遺骨が帰還、葬儀があるという。何を置いてもいかなけりゃならない。わが家建築のメドは付いた。心は残るが後は父にまかせて九州行の急行に乗った。

北海道夕張炭杭に勤める機械畑の義兄も帰省して若くして異国の地に玉砕した弟の無念の思いを面談と共に改めて涙の通夜、葬儀、初七日も済まし、会聾者への返礼、近隣へのご挨拶、田舎のことすべてねんごろに執り行い、離れ離れになった親兄弟揃うのも、お国のために異国の空に花と散った弟の英霊の引き合わせと別れがたい気持ちは誰が同じであった。それにしても横浜に最小限の住居ができていれば一遍に事が済んだかもしれなかった。

私達親子三人揃って郷里滞在もこの機会が大切と、両親のすすめで祈願の耶麻渓の見学に行き、親戚周りと続き、北九州方面の企業へ出張を兼ねた義兄の行動にも合わせ意外と長逗留となってしまった。福岡小倉方面の出張を終えた義兄と私は一緒にお別れしようと思う矢先、横浜の父からの便りで懸案の住宅が完成したとの知らせが来た。農家の風習、歓迎の日、旅たちの日には必ずお餅を搗いてお土産代わりに持たされる。

妻と娘にもう暫くの辛抱だと言い聞かせて義兄と共に再び別れの日を迎えた。この時は只ただ一緒に住めることが幸せと単純に誰しも思うのが常識だが、現実はこれが苦難の第一歩だとは、ばく然とした覚悟はしていたがそれほど深刻には受け止めていなかった。横浜へ着いた翌日、夕張へ帰る義兄を上野駅に見送り、新築の家を検分、次に打つ手を考えさせられる。

外形は出来た家だが建具はまだ、畳も半分はこれから、電気、水道とも何度も停電、故障だらけ。そろそろ冬の訪れわたしの身体は赤信号、風邪気味、終日臥床の日、早寝静養の日下痢の日、ガタガタと崩れて行く不調と闘いながら市住宅課へ、建築施工業者へ、関東配電へ、水道局へと何度往復したか分からないくらいだった。11月中旬工業の学友鶴見朝日町に兼業の運送業を営む中丸君にお願いして引越し馬車を頼んだ。快諾してくれた。学友とはこうも有り難いものだとつくづく思うのだった。

漸く東寺尾の「とりで」から安普請ながら古巣の「本丸」へ復帰できた。稲垣さんとはその後も長らく持ちつ持たれつの交流もあり「やどかり」のご恩は一生忘れがたい人となった。これから再起への苦難、まだ続くのだが苦労の連続を語ることが果たして価値あるものか、何しろ当分暗い物語ばかりで、やめてくれと言われそうだが読みたくない人はページを閉じれば良い。

私は満州まれの娘の希望で書き始めた一文の筆はまだ止まらない。いつしか81歳に突入した今、「若者は未来を語り、老人は過去を語る」その通りを実行している。町和23年1月13日出発、ふた度三度の九州行きとなった。いよいよ最愛の妻と娘を暖かい里の両親の羽交いの手から引き裂いて、あえて茨の環境にさらさなければならないが、これも運命。何もかも不足の時代を生きた私達は決して一人ではない。誰もが同じような辛苦を超えて生き抜いて来ている。

今の豊かな物資溢れる世の中が不思議に思える。その中にかくされている何か落とし穴があるような気がする。徳川家康の遺訓「人の一生は重き荷を負いて遠き違を行くが如し…」之は終わりの言葉のつもりだったが、もう一回調査士資格の取得まど書いて、わが半生記を一段落としたいと思います。

完結に当っての御礼

故工藤又二氏(建築19期)は、戦後同窓会復活期に尽力された一人として、本会運営の助言に一生を捧げられた。本稿は1998(平成10年)以来、10年間に亘り人生の集大成ともいうべき稿を贈られた。完結にあたり、鬼籍にある大先輩に感謝の念を心に、合掌して御礼申し上げる次第である。

(編集部一同)