県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 3年制工業学校の頃
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2代秋山岩吉校長


2代秋山校長
初代杉本校長が福岡へ戻ったのち、第2代校長となった秋山岩吉は、1898(明治31)年に東京工業学校附設工業教員養成所の木工科を卒業し、熊本工業学校勤務を経て開校当初の本校に赴任する。1922(大正11)年夏には中華民国の視察を行い、また、建築教育の専門家として標準教科書編纂の作成に関わる委員として名を連ねるなど、校長職について以来25年間の長きにわたり、本校のみならず、神奈川の工業教育を牽引した。そうした功績を認められ、1928(昭和3)年には文部省より表彰を受けている。その人となりを、過去の周年誌から引用する。
「秋山校長は最上級生全部を集めて毎週修身を講じて居られた。一年間で全部の生徒を覚えてしまい、卒業生の就職先についてもよく承知していた」(50周年記念誌「三十八年の回顧」 副島一之)
「厳格で又寛容なしかも格勤な方、年額六七万位の少ない予算をよく切り廻わし、電気、図案の二科を増加し定員三百名の陣容をととのえ敷地増加、工場増設、職貝増員などに専念奔走された。一方夏期休業は八月八日より同二十四日迄あったのを、八月いっぱいに廷長、土曜六時間を四時間とし以って他校と運動その他の行事が協力円滑に運ばれました。尚同窓会を設立し次第に今日の基礎を作りあげたうみの親育ての親でもありました」(50周年記念誌「創立当時の思い出 旧職員 仙波昇作」
「校長宅に在校生徒の名前を書いた札がならんでいました。よく名前を記憶されていました。卒業生についてもよく動向を知っておられました」(50周年記念誌「五十年五月の空は かわりなし」旧職員 岡田義祐)

野球好きで、放諜後や夏休みのグラウンドでは野球部の練習を見守る姿がよく見受けられ、夏休みに選手を公舎に招いて食事をしながら激励することもあったという。囲碁・釣り・謡曲・俳句など多趣味な人でもあった。勇退後も、菊名の自宅を訪ねる卒業生は多く、還暦を記念して1938(昭和13)年、学校玄関前に銅像が建てられた。二渓苑6号に掲裁された祝辞集から引用する。
本日此処に諸先生並に先輩諸氏のご尽力に依り芽出度く秋山先生寿像除幕式の挙行を見るに至ったことは本校生徒として心から喜びに耐へない次第であります。
先生は御在職二十余年、其の間本校の発展改善の上に貢献せられた功労は多大なものでありまして、本校が今日押しも押されもせぬ全国有数の工業学校として質実剛健を以て世に聞え、又社会に幾多の人材を輩出したといふことは偏へに先生の御人徳の賜でありまして、先生が県教育界の香宿として重きをなした所以であります。又先生は吾々に対して慈父の如き優しさを以て直接、間接に御指導下され、吾々も又子の如き親しみを以て先生に接したのであります。先生の風格、自然に備はった温容風姿は本校の円満な明るい外観風貌をそのまま代表した様なものであります。前述の事柄に照して此処に先生の寿像除幕式を見るに到ったことも当然の現象と言はなければなりません。
今や全国津々浦々に迄、工業立国が叫ばれてゐる時に際し先生の御勇退を見たことは吾々としても遺憾措く能はざるところがあります。然しながら吾々は朝夕先生の御寿像に接し以て御教訓を思ひ出し実行してこそ真に先生の御趣旨にかなふものと確信し、それが先生に対しての報恩の第一であると思ひます。此の機に於て衷心より先生の多年の御苦労に対して聊か謝意と敬意を表して本日の祝辞と致します。(機械科 安芹芳雄)
この銅像には、戦時下の供出で撤去され「出征」してしまったという後日談がある。

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