県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 神奈川工業高校1
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分散授業・校地接収

27日、1、2年生を県立横浜二中(現:県立横浜翠嵐高校)から県立第一高女の校舎に移して授業が継続されるが、動員先から3、4年が戻ってくると教室はとても足りなくなる。結局、9月いっぱいで県立第一高女を引き払うと、建築科・電気科・電気通信科は帝国自動車工業株式会社附属青年学校鶴見区市場町)、機械科は県立商工実習学校(中区大岡町、現:県立商工高校)を借用しての分散授業が始まった。一方で、10月はじめには平川町の校地が進駐軍に接収される。

「焼け跡整理に懸命の努力をしていたころ、突然進駐軍の刑務所として接収され、我々の手作業と異なりブルドーザー、トラック等で短期日に焼材、焼機械の撤去を終え、整地後プレハブ式の舎屋を急造、米人、特に黒人兵が多かったが多数を収容し、有刺鉄線を張りめぐらし、外部との交流を遮断、無気味の様相を呈した。時には彼等の一部が脱出、近隣の民家ヘ侵入、金品を強請するなどのトラブルがあり相当の不安を抱かせた。生徒を指揮して校庭周囲を整理中の小生は、彼等の投石をしばしば受け責任者に抗議した記憶がある。敷地の片隅には校長のバラック建ての住まいがあり、山賀校長が頑張り、校庭を守り続けていた」(「神工70年史」より旧職員 鈴木信之 記)

1946(昭和21)年になると、戦災後授業を停止していた第二種の授業も栗田谷国民学校を借用して再開される。第一種は1・2年生を商工実習学校、3年生以上を帝国自動車附属青年学校に分散して収容することになった。このころから、前者は大岡分校、後者は鶴見分校と呼ぱれるようになる。

こうして何とか全ての授業を再開することはできたが、その実態は厳しいものだった。大岡分校では生徒を一度に収容するだけの広さがなく、午前午後にわけての2部授業が行われていた。また、運動場も使用時間と範囲を制限せざるをえなかった。一方、鶴見分校は窓ガラスも満足に入っていないという老朽化した建物で、特に冬の寒さは身に応えた。なにより物資の不足で授業に必要なものをそろえるにも苦労する。勿論、実習など行えるはずもなかった。漸く再開した夜間の2種の授業も、電力不足による停電で、たびたび中断しなければならないような有り様であった。こうした窮状を見かねて、1947(昭和22)年5月31日に大河原宇吉氏を会長とした、「学校後援会」という組織が発足した。

「何しろ、教室の窓には建具が一本も嵌っておらず、雪の日など教室の中まで雪が吹き込む有様だったし、前にも記した様に、先生方はチョークや答案用紙にも事欠くといった状態だったのですから、私達教師の側も真剣でしたが、それ以上に集まった父兄方も熱心に討議して下さって、結局「後援会」という名前で発足することになりました」(50周年記念誌「思い出すまま」旧職員 岸田林太郎)

ところで、戦後の改革を主導したGHQは日本の実業教育、特に工業教育のあり方についてどのようなプランを持っていたのであろうか。教育改革の大きな指針となった「アメリカ教育使節団報告書」にはこんな一節がある。

「日本は、その家庭、都市、工場、および文化施設を再建するために、教育された精神ばかりでなく、訓練された腕を必要としている。日本の民主主義にとって、熟練した、職に就いている、知識豊かな労働者ほどのすぐれた保証はないであろう。それは、単に産業的資産であるばかりでなく、道徳的な資産でもある。そのような民主主義のとりでを築くために、日本の教育者は、道具を使って働く者たちに対しても、頭脳のみで働く者に対してと同様の尊敬の念が抱かれるよう、力を尽くさなければならない」(1946.4 アメリカ教育使節団報告書1、日本の教育の目的および内容職業教育 村井実訳)

この記述を見る限り、戦後の復興と「民主主義」社会の建設のために、職業教育、なかでも訓練された腕をもって道具を使って働く知識豊かな労働者(工業従事者と言い換えることができるであろう)の育成は重要視されこそすれ、決して軽視されるものではなかったはずである。ところが、職員・生徒が一日も早い校舎復興を希望する一方で、学校の存続自体が危ぶまれる状況が訪れていた。

「本校は終戦直後米軍の収容所に接収されました。その後市の都市計画で遊技場をつくる案があるとの情報を聞いたので同窓会に働きかけ、学務課長に3回も陳情に行きました」(50周年記念誌 同窓会座談会 旧職員 神代 量平)

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