県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

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戦前のクラブ活動

戦前に組織されていた「校友会」は、クラブ活動を中心として構成されたもので、体育関係では剣道・柔道・弓道・陸上競技・野球・庭球・龍球(バスケットボール)・排球(バレーボール)・蹴球(サッカー)・水泳、文化関係では音楽部・喇戦鼓笛隊、園芸部、談話会、史学研究会、書道会があり、文化関係の部は一括して学芸部と呼ぱれていた。

過去の記念誌から当時のクラブ活動の様子を拾ってみる。

「生徒が己の趣味、性格、体力等によって自分に適した好きな運動が選べるようにいろいろな種類の運動があってもよいと考えて弓道部を創設する事に努力した。大射教場の創始者阿波見鳳先生は仙台の方であったが特に神工道場に見えて直接指導された事もある。弓道部員は実に真面目でよく練習を怠らなかった。弓道部に入ったら学力も共に向上させることが信条でなければならないと石川先生は口癖のように部員に諭された。当時の弓道場は運動場の東横線寄りに的場と射場があり夜間でも練習出来るよう電灯がつけられ射程も規程の十五間、県下に誇る堂々たるものであった」(50周年記念誌「17年間の想い出」 旧職員 吉田甫十)

創部当時の弓道部の様子である。

当時「徒歩部」の名で呼ばれていた陸上競技は、部の選手であるなしを問わず盛んで、昼休みには校庭で一般生徒が走り高跳びをする光景も見られたようだ。そんな中から、庭球部であった木材工芸科の豊田克文は4年生の春、各区対抗槍投に出場し、優勝したことをきっかけに陸上競技で活躍することなる。

「手始めとして5月5日上井草で行われた関東学連主催の関東中学校対抗陸上競技で槍投に優勝し全く思いがけぬ喜びを昧わいました。その後、弘明寺の高工主催関東中学校大会に出て、雨中、当時の日本的選手栗原(伝)、吉沢、鎌師の加藤君と争い見事一位となり、一躍神工の名を関東に知らせる事が出来ました」(50周年記念誌「徒歩部の想い出」 木16豊 田克文)

豊田はその後東京電燈に就職し実業団大会で活躍したのち、早稲田大学に進み陸上競技を続ける。

1924(大正13)年創部された野球部は、1935(昭和10)年に初の県代表となる。後に神工球児として初のプロ野球選手になった桜井七之助は左腕の本格派で、藤沢中、日大四中、神奈川二中を連投で破り、決勝戦では小田原中を下して県大会優勝を果たす。本校野球部は県下中等学校17校の頂点に立ったのである。このとき球場から学校まで、優勝旗を先頭に徒歩で凱旋し、その後図書室で祝賀会が行われる。しかし、当時は甲子園出場には甲神静大会を勝ち抜かなければならない。本校応援団は自転車で笹子峠を越えて山梨へ駆けつけた。甲府市県営球場で行われた大会で、韮崎中、静岡中を下すものの、決勝戦では甲府中に5対4で敗れ、惜しくも甲子園出場を逃した。仝国大会への出場はならなかったものの、戦前戦後を通して本衿野球部が唯一県代表となった記録である。

1935(昭和10)年には、前年に生まれた生徒のサークルが「青史」という機関誌を創刊している。これは1943(昭和18)年までに9集が発行されている。

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