県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

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軍事教練の開始

1925(大正14)年4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布され、この年から現役の配属将校による「軍事教練」が始まる。学校に現役将校が配属され、生徒に直接指導を行うことについては、当然全国的に反対・抵抗の動きもあったが、本校においては、それまでも「兵式体操」の名称で訓練が行われ、前述のように年―度の「発火演習」等も行われており、心理的抵抗はそれほどなかったようである。とはいえ、現役の将校が学校に配属され、生徒の指導に当たるということは大きな状況の変化であった。

戦前から商業デザイナー、絵本作家として活躍し、50代半ばで取り組んだ「ファーブル昆虫記」の絵本をきっかけとしたライフワークから、「日本のプチファーブル」といわれた熊田千佳慕(本名:熊田五郎)が、1924(大正13)年図案科に人学している。幼少時は病弱で、学校嫌いだった熊田も、工業学校時代は野球、テニス、陸上などに夢中になり、特に1番・ショートのレギュラーを得た野球には熱中したようである。こうして充実した学校生活を送る中、おっとりと育った熊田は、軍事教練にだけには馴染めなかった。しかし、最終学年の秋の、こんな体験が後の「熊田千佳慕」を育てることになる。

10月の中旬、富士山の裾野で、発火演習が行われました。

例によって、学校を出るときは、ラッパを先頭にかついでの行進です。今回は、図案科も三八式の新しい銃をかついで格好よく、大満足。汽車で富士山に向かい、滝ケ原の演習場に到着しました。裾野は、すっかり秋色に彩られています。長い家屋の兵舎で軍装をとき、演習がはじまりました。

今日はいつもの演習とはちがって、銃には火薬の入った空砲を使用します。音だけですが、たいへんな衝撃。ボクはこの音が苦手で、弾は友だちにあげ、自分は空っぽの銃でのぞみました。

最後のイベントは、敵軍が小高い丘陵に陣をかまえ、この敵陣を占領すべく、総攻撃。味方は左右に長く広がり、発砲をはじめます。ボクは耳をふさいで、目の前の草むらをながめていました。

銃火のはげしい音も耳に入らず、目の前には、ただ静かな草むらがあるのみ。秋なので、コオロギなどが、チョロチョロ目の前を行き交います。ここだけは、静かな平和が流れていました。

茫然とそのシーンに見とれていたとき、突撃の号令がかかり、みんなは銃に剣をつけ、敵陣目がけて走りだしました。ボクが気づいたときには、もう誰もいませんでした。

あわてて飛び出そうとしましたが、いまごろのこのこ出ていけば、教官から大目玉をくらうことは必至。とっさにボクは芝居気を出し、銃を杖にして、片足を引きずりながら、ヨタヨタと歩きはじめました。

教官はおどろいて、

「熊田、どうした!」

そこで五郎君、

「実戦では、こんな兵隊もいると思いまして…」

教官は感動して、「よくやったぞ、熊田」とほめてくれました。

この件で、教練の成績は甲に。「芸は身を助く」といったところ。

演習は、アクシデントもなくおわりましたが、このときボクは、生涯にかかわる大きな啓示を、神から授かったのです。地面にはいつくばって草むらをみつめているとき、これが虫の目で見た天国だと感じました。このとき、神様から「虫の絵は、虫の目の高さで描く」という画法を授かったのです。

これは、のちにライフワークとなる、『ファーブル昆虫記』の絵画化の仕事のポリシーになりました。(熊田千佳慕著「横浜ハイカラ青年記」 フレーベル館 より)

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