県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

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関東大震災

1923(大正12)年、関束一帯は大きな震災に見舞われる。関東大震災である。

「午前11時58分、突如として遠雷のような大浪の押し寄せるような鳴動を感じた。この異様な音に聴耳をたてる間もあらず、激烈な上下動は上下も水平もないあらゆる震動をごっちゃにしたような一大激動となった。教員室に居た先生方は無意識に飛び出した。飛び出すといっても普通に駈け出したわけではない。まるで電気にかかったように体の自由は奪われ歩くことも這うことも出来ず、もがきながら出たわけだ」 (50周年記念誌 「17年間の想い出」)

当時電気科教諭として勤務していた吉田甫十は、当日の様子をこのように振り返っている。当日は2学期の始業式に当たっていたため、大方の生徒は学校を後にしていたが、帰宅途中に被災したものも相当数あった。それでも、人的被害は生徒の犠牲者1名、教職員に死傷者はなく最小限にとどまった。

しかし、校地と校舎の被害は甚大であった。校舎の周囲は至る所で泥水が噴出し、テニスコートのあたりには直径10メートルほどの穴が開いた。生徒食堂は倒壊し、本館の階段は地中にめり込む。講堂の土台周りには大きな亀裂が生じ、内壁の石膏もほとんど剥がれ落ちてしまった。正門の門柱は、一本が転倒している。学校周辺の被害も大きく、あちらこちらから上がった火の手は学校近くまで迫るが、幸い本校校舎への廷焼は免れた。このような状況の下、授業は8日まで休止を余儀なくされる。

倒れた門柱 波打つ玄関付近 つぶれた生徒食堂

この震災の直後に、「朝鮮人暴動」「富士山大爆発」等の流言が広がった。そのため、水野内相は戒厳令を施行する方針を決める。震災による混乱を防いで人心の安定と被災民の救護をはかるために軍隊の力を借りるという、いわゆる行政戒厳であった。陸軍は2日から3日にかけて東京地区への配備を終え、孤立していた横浜地区にも3日から4日のあいだに海陸両路から警備隊が到着した。本校寄宿舎は警備隊として派遣された佐倉連隊の駐屯所となった。

生徒や卒業生による、震災に関する生々しい記録は、「震災記念号」としてまとめられ翌1924(大正13)年8月に発刊されている。

被災した校舎の復興も進み、1926(大正15)年10月には本館の改築工事が完成する。木骨鉄網コンクリート2階建ての校舎には、工費約100,000円が費やされた。本館以外の校舎の改修工事も1927(昭和2)年11月には完了した。

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