県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 創立前史
戻る

設置計画の紛糾

1906(明治39)年11月、神奈川県臨時議会で県立工業学校用地として横浜市南太田町字霞耕地ならびに西中耕地計9,545坪を購入する案が可決される。ここは元陸軍甲府連隊区司今部がおかれていたため通称「兵隊山」と呼ぱれていた場所で、当時は陸軍省の管理下にあった。現在の南区清水ヶ丘近辺の丘陵である。購入金額は47,725円67銭、内、市部負担が18,110円46銭、郡部負担が29,615円21銭であった。翌年3月には、隣接する官有地723坪を買い足すことも認められた。ところが実際の購入は、「陸軍省ノ都合ニ依リテ急ニ買入レル事ガ出来ナイ」との理由で買い足し分も併せて翌年度に繰り廷べられることになる。

当時の県議会は、横浜市選出議員を中心とした市部会と郡部の議員で構成された郡部会から成っていたが、横浜市のに業振興に有利な「南太田」案が可決されたことは、特に橘樹郡(現在の川崎市全域と横浜市鶴見区、神奈川区、保土ケ谷区)選出の議員の反発を買い、市部会との間に対立が生じる。工業化の遅れていた横浜は、振興策としての誘致に懸命であったし、郡部会はすでに開発の進んだ工業地帯であった鶴見から子安一帯に工業学校が設置されることを期待したのである。

11月5日、県議会開会式で周布公平知事が工業学校設立の早期実現を希望する旨の演説をおこない、同24日には市郡双方から5人ずつの交渉委員を選出し、話し合いでの解決を図るが、結局不調に終わる。市部会と郡部会の対立に加えて、郡部会内では政友会系議員と非政友会系議員の対立も表面化していた。12月4日の県議会では県予算臨時歳出部の工業学校費が、ついに「延期ノ精神デ」全額削除されるにいたる。

こうした中、橘樹郡部会は、南太田の用地に対して代替地を提供することで、工業学校を郡部へ誘致しようという動きを見せた。無償で用地提供の申し出があった子安村(現神奈川区子安)、城郷付(現神奈川区羽沢付近)、保土ケ谷村(現保土ケ谷区)、生見尾村(現鶴見区鶴見近辺)のうち、子安、城郷、生見尾三村の提供地を候補地として知事に上申し、更に該当地が不適当と判断された場合は他の候補地を選定することを加えて意見書として提出することを決定する。「該敷地に就ては本郡内に設置さるべく従前よりの行かかりとなり居る事なれば、此際本郡は一致の行動を採りて飽くまでその意志を貫かん事を望む」との方針で議論された末の結論であり、その思いには並々ならぬものがあった。翌年11月、橘樹郡会議長から提出された候補地(東神奈川駅近辺と小机駅近辺)と南太田の現工業学校用地との比較検討を要請する建議郡部選出議員から提出される。

この年、同時に南太田の用地に早期建設を目指す動きも進められていた。12月3日、神奈川県議会では市内南太田の県有地に2,150坪、10,750円の追加購入が認められ、県議会参事会において、教室その他の費用を要する部分については明治44年度に建設を延期するも、宿直室等の着工を認可し、そのための予算11,731円あまりを次年度予算として上程することが決議される。しかし、この決議は県議会では郡部議員の反対多数によって否決され、予算は全額削除されることなった。工業学校の建設予算は3年連続して上程され否決されたわけである。ここにおいて、南太田に工業学校を建設する計画は事実上頓挫した形となる。

事態が進展したのは翌年の12月であった。神奈川県議会で工業学校の建設に係る予算を3ヵ年継続で拠出することが認可され、44年度着工、45年度開校との計画が発表される。このとき決定された予算計團は次のような内容であった。

明洽44年度 38,199円21銭

明治45年度 32,275円31銭

明治46年度 22,024円96銭

計   92,499円48銭

問題となっていた用地については、郡部会市部会双方からの歩み寄りが見られた。県議会で用地決定に関する質疑が行われる中で、橘樹郡選出議員から「先年橘樹郡ヨリモ敷地ヲ提供シタル事モゴザイマス、又橘樹郡ニ御指定ニナレバ寄附金ヲスルト云フ事モアリマス(中略)橘樹郡ヨリ先年希望シマシタ意思ヲ徳義上容レルト云フ考ヲ以テ、適当ナル敷地ヲ選定セラレル事ヲ希望」するとの意見が提出されたのに対して、市部選出議員からは「現在ノ御指定地以上、ヨリ以上ノ上地ガ有リマシタラバ、縣理事者ガ公平ナル御判断ヲ以テ御選定ニナルノニ何等ノ事情ニ拘束セラレザラン事ヲ希望」すると意見が述べられている。

記念誌トップへ

※同窓会ホームページはこちら



(c) Kanagawa Kougyoukai