県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 戦時下の学園
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学校工場と勤労動員

太平洋戦争中、本校の機械科、精密機械科、電気科の各実習工場は軍、県の指令によって「協力学校工場」として軍関係部品の加工生産にあたった。工業学校としては全国有数を誇る本校の設備を利用して行われた作業の内容は、当時の機械科教論鈴木信之によれば次のようなものであった。

「特に機械科鋳造工場は毎週1回熔解(吹き)を行ない、荏原製作所よりの潜水艦用C・Fポンプの部品を鋳造し、機械加工まで一貫作業を、指導に連日来校された荏原製作所の大島鎗冶氏(22回機械科卒業)の熱心なる仕事振りは、神工出身者の面目躍如たるものもあり感動させられた。機械科の他の工場の特殊機械は、沼野製作所、野村精機、大島鉄工所に貸与、日本飛行機その他の部品製作にあたり、それぞれ熟練工を来校させ、設備を高度に活用、予想外の業績をあげた」(神工70年史より)

さらに戦局の拡大に伴って1943(昭和18)年6月の「学徒戦時動員体制要綱」、次いで10月に「教育二関スル戦時動員体制要綱」が閣議決定されると、学校生活もその殆どが戦争遂行のための活動に費やされるようになる。本校生徒の勤労動員先については「神工70年史」にまとめられている。(資料編参照)当時の動員生活の模様について、荒井正治(25回図案科卒・旧職員)は次のように記している。

「動員はだいたい三つに分けられる。農業動員、工場動員、学校工場動員がそれである。はじめ1、2年だけは授業が行われたが、それもこの段階では農業動員に出された。3年以 上が工場 − もっとも5年制の3年はまだ農業 − に動員され、比較的からだの弱いものが、実習工場をそのまま学校工場と称してそこに残った。50名前後だったが、ここで工場から委託されて部品をつくった。ともあれ当時の生徒にとって、学校生活はとりもなおさず動員生活であったのだ。

20年3月の電気科卒業生 − 5年制の最後 − の場合にその例をとれば次の通りであった。

正規の授業ができたのは2年までで、3年にはもう農村への動員がはじまった。これは手不足に悩む農繁期の農村へ手伝いに行くわけだが、従って短期間であって、先方の家庭に宿泊するので親しみもあった。殊に食料不足の都市の生徒にとっては、この期間だけは食料を満喫できて、悲しい喜びでもあった。

4年からは工場や軍施設の動員となった。4年のうちは何回かいったがそのつどまだ短期間だった。相模原の兵器廠に多くいったが、そこに宿泊した。5年になってからはちょうど19年から20年にわたる時期でもあって、授業はもはや全く行われず、自宅と工場を直結する完全な動員生活そのものであった。

東芝堀川町工場と富士電機に機械科と電気科が半年交代でいった。東芝では電探を作っていたがすでに返品も多かった。富士ではMGをつくっていたが、技術者が見当たらず、技術を操作し得ない状態も時にあった。また女工の割合が多かったことは目立っていた。

定期を買って毎日自宅から工場にかよった。作業衣はくれたが、三時と夜業のときささやかな雑炊が間食としてだされたに過ぎない。日曜はもはやなく、徹夜が三日続くと休みが一日あるといったぐあいだった。徹夜作業で泊まりこんでも寝具といってはなく、コンクリートの床にわらをしいてごろ寝をした。従って冬は非常につらかった。防空壕も少くて、空襲のときに入る余地はほとんどなく、動員生徒で白らつくったぐらいであった。

富士電機の場合生徒にのみ作業を強要する傾向があった。月に手当 ― 報償金と呼ばれた ─ として50円くらいくれることになっていたはずだったが、手にしたことはなかった。だが何れにせよ、動員ですぐ役立つ工業学校の生徒は、喜ばれたこともたしかであった。東芝では一部に動員生徒に非常に過酷であったところから、サボタージュがあったし、富士では工員の間に厭戦気分があったようだ。ともあれこの電気科生徒の体験は、大なり小なりどの生徒についても同様であったといえよう。

一方教師の動員生活をみよう。19年9月に赴任して間もなく、秋に一ケ月余中津飛行場の引込工事の動員に行った。このときは電気、通信、建築科の2年120名であった。当時もう全くみられなかった甘昧品が間食に発給されたりして、動員の待遇はまずよかった。それが11月末に終ると、12月末から翌3月末まで、相模原の造兵廠に機械と精密機械4年冷80名をつれていった。かよえないもの約20名が寮に宿泊しか関係上、終始そこに寝泊まりした。特に卒業式はそこへ校器が出張したことは印象的であった。卒業したので学校へもどると、すでに機械4年の40名がいっていた月島機械に、交巷としていった。4月からずっとそこにいて、敗戦によってようやく動員から解放されたのである」

「報国隊」の活動状況については、「神工70年史」に次のような記述がある。

「東芝八十五年史」は、昭和一九年から一一〇年にかけて「労務の給源は一般青壮年から漸次、国民学校(小学校をこういった)卒業生、家庭婦人に移行した」と記している。T九年後半に入ると学徒報国隊、女子挺身隊が大量に動員されて、工場の各種労務に従事したが、その勤労意欲と量の多さは、各工場の期待にこたえ、工場によっては、その労働力の五〇パーセント近くを占めたという。

東芝鶴見工場では学徒隊の受け入れを一九年五月以降実施、延べ二九九一名に達し、多い時は、一般工員の四分の一を占めた。市内から動員されていたのは、県立工業(本校二年)六五、鶴見工業二五八、興国中学四〇、鶴見国民学校一一四であったが、家庭通勤の生徒の中にも空襲被災者を多数出し、出勤率は低下したのみならず、工場の被災、および資材の不足等で、全能力を活用できないまま二〇年八月一五日を迎え勣労学徒は八月二三日全員引き揚げた」

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