県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 創立前史
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工業学校設立への動き

神奈川で初の県立工業学校が、平川町(当時の神奈川町字平尾前)の地に開校するまでのいきさつには、当時の神奈川の産業や政治状況が反映されていて興昧深いものがある。

1901(明治34)年3月、神奈川県は、県内の工業教育のあり方について検討するため、神奈川県教育会(民間団体)に対して、「本県内に施設を有する工業教育の種類及学科程度に関する意見」を諮問した。同年5月、神奈川県教育会が提出した報告書には、県下の主要工業について戸数、人口、製造高などを調査したうえで、@今後の産業の発達上から必要となると考えられる学科として、造船・金工・木工科を横浜近辺に設置すべきである事、A現在既に開発の進んでいる県央の製糸業に対応して染織科を津久井・愛甲両郡近辺に設置すべき事、B将来の展望として、電気・窯業・図案科を横浜市近辺へ設置すベき事、等が述べられている。工業学科の設置地域として考えられたのは、大半が横浜市及びその周辺で、当時漸く工業開発の進み始めた横浜周辺に、工業学校設立の期待が高まりつつあった事が推察できる。

横浜の主たる産業は、明洽30年代になっても依然として原料輸出を中心とした商業であったが、すでに1893(明洽26)年には、貿易高において神戸港の後塵を拝する様になっていた。さらに、明治31年頃には、大阪港にも圧倒されつつあり、その原因が、それぞれの港が抱える地域の工業力の差であることは明らかであった。本校の初代校長となる杉本源吾が、「神奈川縣の横浜に県立の工業学校が設立さるる事と為った、由来、同地は人も吾も日本第一の開港場として許して来たが、何だか此数年来衰運の兆しが見え初めて、其弟分たる神戸港の方が、大分羽振りが宜く為って来た。そこで色々調査の結果が、横濱には工場と云ふものが無い、夫れが横濱衰運の重要原因で有ろらと云ふことになり、就ては工業振興策の手初めとして、工業学校を建つることが、適切でもあり又根本的であると云った譚で工業学校を設立する事に成った」(福岡工業高校『卒業生千人記念誌』杉本源吾校長の記述)と述べているように、横浜に工業学校をという計画には、工業学校の設置によるE業の積極的な振興という発想があった。工業を興すためにまず工業教育をという考え方である。

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