県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 神奈川工業高校1
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戸塚・総合実習工場

「戦後荒廃の中の数年。焼け跡の小屋にガンバって米軍から校地を守っている山賀先生と、アヤしげなカストリ酒を酌み交わしながら、椙山・中村・私などの新米校長がどんなに神工を頼りにして工業教育を守ってきたかしれない。横須智も川崎も、平塚も、どの工業高校も何も無い。しかしまず、何よりも神奈川工業を盛り立てろ、というのは一致した意凱であり、共同実習所をやりながらも、次の戦術に協力して怒力した」(50周年記念誌「38年の回顧」4代校長 副島 一之)

仮校舎が竣工したとはいえ、工業学校らしい施設設備は望むべくもなく、教材としての鉄一片にも事欠くような有り様であった。併せて、終戦後しばらくは工業教育に対する関心も薄く、本校に限らず、工業学校自体の存廃論が取りざたされる。

これに解決を与え、工業学校復興の意志を明らかにしたのが、県下の工業学校のための共同実習所を設置するという計画である。

戸塚区矢部町にあった藤村製作所では、戦時中リミットゲージ類を製作していたが、その工場内にある旋盤、フライス盤、研磨盤、ボーリングマシン、加えてアムスラーを始めとする試験機類、測定器類に山賀校長が目をつける。これを利用して、神奈川、平塚、横須賀、川崎の4県立工業学校が3ヵ月交代で生産実習を行うという案である。

内山岩太郎知事の支援を得て、藤村製作所を県で買収し、各校から工場専属の職員と実習指導員を派遺して1947(昭和22)年の12月から、実習授業が開始された。管理は4校校長による共同管理で、工場長は本校の山賀校長が務めた。職員は電気科、機械科併せて教諭4名、実習助手8名であった。

どの学校からも、通うにはそれなりの不便があったが、初めて本格的な実習ができるとあって、生徒たちは熱心に取り組んだ。とはいえ、生徒たちにそれぞれの本校での基礎実習が不足していたことは否めず、実習で生産された品物は期待ほどの市場価値を持つには至らず、生産面での成果はそれほど上がらなかった。

それでもなお、生徒に対する教育面での効果と、県における戦後工業教育の礎を築いたという点で、この試みは高く評価されるであろう。因みに、この実習工場で使われた電気設備には、横浜大空襲の直前に野球部部室に格納して危うく難を免れた本校の電動機や発電機があてられていて、電検三種の資格を取るに必要な実習を行うために大いに役立ったのである。

1951(昭和26)年に産業教育振興法が制定されると、各校の設備が年々改善される見通しが立つようになる一方で、この実習工場にはマイナス面が生じるようになってきた。財政的に見ても教育効果の面から見ても、各校の設備の充実に力を注ぐ方が得策なのであった。こうした状況をふまえて、1952(昭和27)年度末、当時横須賀工業高校校長で工場長を務めていた副島一之(後に本校4代校長)は総合実習工場の解散を決意する。使用していた機械と人員は各校に分配され、総合実習工場はその役目を終えた。

本校では、1950(昭和25)年3月、新たな実習工場が完成している。広さは図案実習室20坪、木工実習室30坪、木工機械室30坪、機械実習室40坪の計120坪(396u)、決して満足いくものではなかったが、それまで校地内に一つも実習工場を持たなかった苦労を思えば、その喜びは大きかった。竣工に先立って、当時の副校長岸田林太郎は「神工時報」第13号(昭和25年5月29日発行)にこんな思いを述べている。

「実習工場の竣工を前にして私の脳裡を先ず過ぎるものは、これに対して献身的な努力を払われた県教委、同窓会、PTA、職員会、生徒会の感激的な愛校の至情であり、特に深く銘記されるものは学校長の血のにじむ苦心と父兄諸氏の涙ぐましい努力である。昨年春のPTA総会の時だったと思う。

校長起って実習工場の緊急性を力説すれば、父兄代表これに応えて吾々は如何なる犠牲を払ってでも子弟に実習工場を与えようではないかと絶叫したあの情景は、新実習工場と共に永く記念されるべきものであろう。斯うした父兄の熱望と犠牲が県当局を動かし、その深い理解と尽力に依って立派な実習工場の竣工となった事は全く感謝の言葉もない。

新実習工場の柱一本、羽目壱枚もこれ皆県民及父兄の汗の結晶であることを思えば、吾々職員生徒たるもの安閑たるこを得んやである。畳の上の水練という言葉があるが今後け水の中に飛び込んで水練をなし得るのである。技術の修練け水泳と同じことだ。先ずハンマーを握れ。そこで疑問に逢善した時はじめて学科の必要性も肯定されるのである。大教剱制の旗印を高く掲げて邁進する本校工業教育も愈々軌道に垂るであろうことを祝福すると共に、ここに改めて実習工場の建設に努力された各位に深甚の謝意を表するものである」

この頃の校舎の様子はと言えば、後年の「神工時報」にこんな一文が掲載されている。

「当時、校舎は木造で、ゆかがぬけたり、雨がふると雨漏りがしたりした。だからもう少し良い校舎で勉強がしたかったな。それから、そのころは窓ガラスの盗難防止のために、ガラスというガラスには全部白ペンキで神工と大きく書かれていたので、できるだけ早くそれらをとってほしかったな」(「神工時報」先輩とひととき・機械科40回卒体育科教論・戸崎忠浩)

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