県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 戦時下の学園
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横浜大空襲・校舎焼失

1945(昭和20)年5月29日午前9時過ぎから、横浜一帯は米軍機の大規模な空襲を受ける。B29爆撃機・P51戦闘機による焼夷弾攻撃であった。この空襲による犠牲者は約8,000〜10,000名に上った。米軍が定めた攻撃目標は、東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ケ所で、特に被害が大きかったのは、現在の神奈川区反町、保土ケ谷区星川町、南区真金町地区一帯であったとされている。

東神奈川駅では、多くの職員が殉職し、ほぼ全ての施設に大きな被害を受けた。復旧には相当の期間がかかり、その間横浜線の全列車は東神奈川駅に停車せずに通過する形で運行された。50周年記念誌上の同窓会座談会では、「後で聞いた話」と断って「アメリカの地図には本校が高工(高等工業学校)となっていたので爆撃予定地となりねらわれたらしい」という話が披露されているが、当時の米空軍は、工栗池、商震吐、庄宅咆反ぴこにらり昆缶也y、尭起単攻撃でどのように燃えていくかについてのデータを持っていなかったため、横浜に対するこの空襲は、そのデータ収集のための実験的攻撃であったともいわれている。

「榎本助手は最後までふみとどまり、50キロ爆弾の落ちる中を書類袋を背負って逃げましたが、何か忘れものをしたと見えて引き返した処、急に見えなくなって、あとにはしまのシヤツだけしか残らなかった。全くの即死です。そのうちに精密工場に爆弾が落ちて屋根が燃えはじめる。生徒が一生けんめいポンプで水をかける。池田助手もやけどを負いながら消火をしていたが一週間後遂に死亡された」(50周年記念誌同 窓会座談会)

 当日の模様は、当時教頭職にあった官原信夫の日誌に克明に記されている。

午前8時ノ礼会ノ直前敵機数編隊ノ本土侵冦ノラジオ放送アリシカバ、祈カラ登校シアリシー、2学年生全部及3年生ノー部、並二学校工場勤務ノ3学年生ノー部ヲ控所二集合セシメ、情勢ヲ留意シツツアリタル処当地区侵人ノ危険アリシカバ、学校工場勤務ノ3年生及学校特設防護隊ノ生徒ノミヲ残留セシメテ他ハ午前8時10分迄二帰宅セシム。

以後1時間ノ後、即チ午前9時10分頃ヨリ敵機ノ当所爆撃開始セラレタリ。尚本日出勤ノ職員全部ハ待機ノ姿勢ヲ以テ敵機ノ来襲二備ヘツツアリタリ。

午前9時10分、第1撃ニヨリ寄宿舎東端及控所廊下、図書室、機械標本室、南館束南部ノ5箇所ヨリ焼夷弾ニヨリ発火。折カラ待機中ノ職員全部及学校工場勤務ノ3年生以上50名及学校特設防護団生20名計70名ハ、山賀校長総指揮ノ下、消火器具ヲ全面的二使用シテ消火二努メ、一時機械標本室方面ノ火ノ手ヲ制圧シツツアリシガ、続ク第二撃第三撃ノ集中投弾ニヨリ敢闘中ノ職員(実習教師)榎本芳彦死亡、生徒中ニモニ、三ノ火傷患者ヲ出シタリ。

加フルニ旋風烈シク火勢ハ全建物二及ビ午前10時頃迄ニハ殆ンド全建物ヲ焼失セリ。之ヨリ先、予メカゝル場合二備ヘテ重要書類ハ地下式備蓄室二保管シ、機械類モー部ヲ校庭東北隅ノ小屋中二移シ置キタル為メ、一部分ハ火気ヲ免レタレドモ、学校工場ニテ使用中ノ機械、器具、材料、製品ハ全部焼失セリ。

日誌の記載は1946(昭和21)年2月13日まで続く。以下、必要に応じて引用、採録する。

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