県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 神奈川工業高校1
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生徒会・PTA・学校5日制

戦後の教育改革はGHQと神奈川県軍政部(後に民生部に改称)の主導で行われるが、学校の組織、制度に関するものでは「生徒会」と「PTA」の創設、週5日登校制があげられる。

新日本の教育の柱として「民主主義」の浸透を考えていたGHQは、学校視察の際の点検項目の一つとして「学校長と面接して決定せよ。学校は何か生徒の組織体を持っているか」(1946年2月13日付「第8軍司令部・学校視察施行命令」)という一項を掲げている。それは戦前多くの学校に存在した従来の「校友会」に比べて、より生徒によって自治的に運営される組織を意味していた。本校ではこうした性格を待つ生徒の組織として「自治会」を発足させる。しばらくの間は旧来の「校友会」と「自治会」が併存する時期が続いたようであるが、1947(昭和22)年10月15日を以て校友会は自治会に合流し、「校友会」の名称は廃止された。

翌年7月20日発行の「神工時報」第6号には「自治会活動軌道に乗る〜今学期は基礎がため」と題して次のような記事が掲載されている。

「新装成って本年度自治会が多難な前途に勇躍発足して早や一学期もおしつまってしまった。その間自洽会幹部の努力は並大抵のものではなかったろう。しかしその成果として、各部予算決定総会の開催等生徒の世論に自治会は深い感動を与えていた。竹内委員長を助けて陰に陽に働く小川君の努力も又多大なものがあった。

校友会が自治会に合併し運動文化各部の大権が生徒の部長に渡り、先生は顧問としてのみで生徒の部長の責任は重大となった。それに予算の配分で又先生にも手におえないめんどうな会議を生徒の部長だけで解決をはかり、総会も立派な成果をおさめた。自治会の顧問上田、金井両先生の指導も自治会活動に刺激をあたえ重い腰をもちあげた生徒たちが本当の自治会を作ろうと働きだした。

自治会事務室の看板も図書室の入り口にかかり図書室の片隅の事務机も整備された。予算決定とともに会計は生徒達の手により運営され自治会会計の小長谷君の事務がいそがしくなり、自らの手により自らの部の金を動かして経済的な方面にも頭をつかうようになり各部活動の実態をつかめるようになる。

不満不平は自らで解決していく、みんなの手でみんなの意見の下に行われる民主的な自治会活動が、やっと軌道にのった。今後の発展に大きい希望が持てる。第一学期は新生自治会の基礎かための時期だった」

全てが生徒の手にゆだねられたかのような記述は「民主教育」の時流を反映したものとして多少割り引いて見る必要はあろうが、顧問の教師も生徒自身も、「校友会」との性格の違いを意識して活動していたことがうかがわれる。

保護者の組織については、1947(昭和22)年11月に、文部省が作成した「PTA参考規約」が県教育部を通じて各校に配布された。新しく作られようとする組織の理念を浸透させるために、各地で講演会も行われている。本校では同年12月13日に「父母と教師の会」が成立し、後のPTAの前身となった。

終戦直後、本校は校地を接収され、昭和22年9月に旧校地に仮校舎が竣工するまで大岡分校と鶴見分校で分散授業を行っていたが、この間の教育環境間が厳しいものであったことは前述した通りである。結局生徒の父母に経済的援助を求めるほかなく、既に5月の時点で「学校後援会」が発足していたため、新たに「父母と教師の会」を創設するにあたっては、この後援会との関係が問題となったようである。両組織を併存させるか一本化するかの選択を迫られたのである。

結局、経済的な援助を目的としていた「学校後援会」は発展的に解消され、教育問題についても参画することを趣旨とした「父母と教師の会」に一本化されることとなった。また、この時点で、「学校後援会」が徴収した会費は維持費という名目で学校に一任された。この間のいきさつを旧職員岸田林太郎の回想から引用する。

「進駐軍の方から、PTAを作るようにというサヂェスチョンがあって、会則の雛形が送られて来ました。当時カリキュラムだの、ガイダンスだの、ホームルームだのと舌をかみそうな外来語に目を廻していた私達は、またここでPTAという体に合わない借着を無理に着せられる端目に立たされたのでした。

山賀先生から本校のPTAの会則を起草する様に依頼された私は、送られてきた会則の雛形が余りにもアメリカの直訳で、とても私達の学校の実情に則しないと思ったので、進駐軍に叱られない程度で、実行し易い様に書き改めたものでした。それでも後年改正しなければならなかったほど、直訳的なところを多分に残していましたが、当時の実情としては止むを得ないことでした。

さてこうして準備は出来ましたが、従来からある後援会との関係をどうするかが問題でした。後援会を発展的に解消して、その事業をPTAの中に含めてしまえば簡単ですが、PTAにそうした事業を含めることは、一寸具合が悪いので、結局後援会とPTAを二本建てにして、同一役員が兼務することにしました。

しかし、実際にやってみると、PTAが分離したあとの後援会というのは、一定会費を拠出してその使途を学校に託するというだけで、余り生彩のあるものではありませんでしたし、同一役員が兼務していた関係もあって、殆ど有名無実に近いものでした。

ですから、父兄側の希望で、翌年からは後援会を廃止し、会費に相当する金額を維持費として学校で徴収して貰い、その使途は学校に一任することにして、父兄の活動をPTA一本にしぼったのでした。(50周年記念誌「思い出すまま」)

副島校長山賀先生が、お逢いした時に、(当時校長は横須賀工高の校長)うちにバラックの木造建が出来た、といって大変よろこんでおられた。そういう時に父母が集まって会費を出し合って何か会をつくろうという話があった。(当時は、占領軍の命令で、所謂父兄会は解散させられていたので、それとは違った意味の)なんせ、当時は、県からは僅かな金しか出なかったし、それに必要なものは、例えば用紙などは、公定価では買えなかったので、後援会が出来てたすかったといっておられた。

荒井「そうですネ。ガラスを買うために父兄から金をあつめて買った記憶があります」 (50周年記念誌・PTA座談会)

週5日登校制は、軍政部の施策の一環として行われたもので、「全体的に学ぶ力」を養うために家庭や地域の力を活用しようという意図があった。本校では県下の学校に先駆けて、1948(昭和23)年1月27日から実施された。因みにこの年から、公選制による教育委員会制度が発足している。『神工時報』第4号(昭和23年2月14日発行)には学校5日制をめぐって次のような記事が掲載されている。(「画期的な五日制実施さる」内、建築科 岸田林太郎教諭による解説)

「県下の中等学校にさきがけて本校に1週5日制が実施されることになった。この5日制が実際に発足する迄には全職員は筆舌に尽くし得ない様な真剣な討議を重ねたのである。恐らく本校はじまって以来あれ程真剣な討議が行われたことは未だ且つてなかったであろう。そうした真剣な討議を経て、全職員は確固たる信念と決意を以て5日制実施を決定したのである。

生徒諸君は全面的に5日制を支持した。然し生徒諸君は吾々職員が考えた程深く考えて之を支持したのであろうか。全部とは言わない迄も相当多くの者が、単に休みの多い方がよいと云う安易な考えだけで支持したのではなかろうか。こうした気待ちから、貴重な紙面を借りて五日制の真意義を生徒諸君に知ってもらうために筆をとった。

凡そこの種の制度は、それが如何に立派な制度であっても、之を行うものに深い理解と熱意が無ければ一片のほごに等しいもので却って有害無益のものとなってしまう。生徒諸君は勿論、家庭の各父兄に於かれても、この貧しい一文を通じて、私の云わんとする真意をくみ取られ、生徒、教師、父兄が一体となって新しい教育のために協力されんことを望んで止まない」

との前置きに続き、この制度の趣旨が「個性尊重の啓発教育」「新教育の理想」を実現するための方途であることが説明されている。文章は「5日制を契機として本校の教育も伸々と明るい本来の姿を取り戻して行くだろうことを期待して楽しく筆をおく」と結ばれるが、制度の実施にあたって校内でかなり大がかりな議論が展開されたことがうかがわれ、興味深い。また、学校新聞を通して「新しい教育」の理念が生徒に対して語りかけられていることからも、当時の教育改革の雰囲気が伝わってくる。こうして始まった週5日制は、当然生徒には評判が悪かろうはずがなかったが、世間的には学校での拘束時間や授業が減ることに対して、学力の低下や非行を懸念する声が少なくなかった。

保護者への意識調査等を経て、検討の結果、1953(昭和28)年3月に県教育委員会から6日制が望ましいという通達が出される。ほとんどの県立学校は新年度から6日制に切り替えるなか、本校は5日制を継続するが、翌1954(昭和29)年2月をもって6日制に戻すことになった。

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