県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 神奈川工業高校1
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終戦・学校壊滅

「学校疎開」の計画は日の目を見ずに終わる。翌8月15日、終戦の詔勅が下り、太平洋戦争は終結を迎えたからである。

「機械科4年第一本科生47名は鶴見の月島機械に勤労動員中であった。この日、重大放送があるというので会社の人4と共に我々も正午には中庭に整列した。天皇の放送はよくききとれ、難しい表現ではあったが、戦争が終わったことは理解できた。(他の場所では放送が不明瞭で、あとになって内容を知ったというのも多い)工員達は意味がわからず「なんだなんだ」といっており戦争に敗けたことを我々が教えてやる一幕もあった。張りつめていたものが切れ、呆然として控室にひきあげて何もできなかった。どれくらい時間がたったかわからないが、「本日の作業は中止、解散してよい」ということになった」(「神工70年史」より卒業生 大森政市 談)

16日、藤原孝夫神奈川県知事は、県会議事室に県下各校の校長を集め次のように伝えた。

「時下茫然のあまり、心の緩みを生ぜしめぬよう特に指導を要望す」

文部省は、9月中旬を目途に授業を再開するようにとの指示を出したが、神奈川県では進駐軍が厚木基地に降り立ったこともあり、特に女学校に関しては「土地の状況に応じ授業を休止するよう」にと慎重な姿勢を示していた。それを受けて授業の再開を10月1日と決めた第一高女(現:県立横浜平沼高校)は、この時点では休業の状態であった。本校は、焼失を免れた第一高女本館の教室を惜用する方向で動き出した。

8月24日(金)晴

山賀校長、宮原教頭、県立第一高女二出向校舎転用ノ交渉ヲナス。

交渉はまとまり、第一高女の校舎を借りて、授業を再開する手はずが整った。

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