県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 3年制工業学校の頃
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初代杉本源吾校長と「質実剛健」の気風


初代杉本校長

福岡県立福岡工業学校から赴任した初代校長の杉本源吾は、創立間もない学校に「質実剛健」の気風を作り上げた。杉本が創立以来15年にわたって校長を務めた福岡工業学校を去り、新設の本校に転出したいきさつは、福岡工業高校百周年誌に詳しい。神奈川への転出が内定した際に、杉本自身が九州日報の記者のインタビューに答えたところによれぱ、神奈川工業学校ヘの赴任を打診したのは、杉本の恩師であり東京工業学校(現東京工業大学)校長であった手島精一氏である。周囲の反対、福岡県学務部長や寺原知事の慰留にもかかわらず、「得失利害は別問題、ただ恩師の命」との思いが杉本を横浜に向かわせた。開校と同時に本校に赴任した、国語科教論鵜木保によれば、その人柄は

「企画性と実行力に富み、仕事の鬼ともいえる方で、たまたま校長室に行くと、たばこの火が手元に来ても気が付かず、何か一生懸命仕事をしていられることもありました」(50周年記念誌・同窓会座談会より)とある。「厳正・緻密、勤勉」であると共に、校長室に掲げた横浜市と神奈川県の地図に生徒一人一人の住所が把握できるよう名前を記した画鋲を止め、そうした形で直接顔を合わせることの少ない生徒と常に向き合うという一面もあったようだ。(50周年記念誌・「創立当時の思い出」旧職貝仙波昇作より)

また、溝堂や控室、教室など校内の様々な場所に、生徒の修養になるような文句を額に入れて掲げさせていたため、「額校長」と渾名された。「控室に「華を去り実につく」という額が掲げられ他の学校のまねのできない校風をつくろうという気風がみなぎっていた」(機械科3回卒業生・小川本成・50周年記念誌・同窓会談会より)「質実剛健」の軸も掛けられていた。校舎の整備整頓から校則、教職員の服務規律等、万事前任校での経験が用いられていたところから、内輪では校名を「神奈川県立福岡工業学校」と呼んでいたとも言われる。

本校の基礎を築き軌道に乗せた杉本は、1915(大正4)年3月、本校を退職し再び福岡に戻ることとなる。但し、教育者としてではなく、実業界への転身であった。赤がね御殿の主としてその名を知られた「炭坑王」伊藤伝右衛門らによる合資会社幸袋工作所に支配人として請われたためである。転身をためらう杉本の背中を押したのは、今回も恩師の手島であった。表向きは「老母の介護のため」との申し出をして、第1回卒業式の1週間後、実業の世界に身を投じる。校長職は創立時に熊本工業学校から赴任し、当時教頭職にあった秋山岩吉に引き継がれた。

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