県立神奈川工業高校 創立100周年記念誌

100年の足跡 5年制工業学校へ
戻る

高柳健次郎・川喜田煉七郎 多彩な教師陣

このころの教師陣に、後に世界的に知られる業績を残した人材がいる。1921(大正10)年の春、東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所を卒業し、本校電気科の教壇に立った高柳健次郎は、後にブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功させ「テレビの父」と呼ばれる。

「卒業後は適当な題目を撰んで一心に勉強して、10年か20年後には世の中のためになる様になりたいと思った。そこで、それには題目を探し且つ勉強ができるところに居たいと思って、母校の秋保先生にお願いして、東京に近い神奈川県立工業に奉職させて頂いた訳である」(50周年記念誌「懐しい神工時代の思い出」)

というように、高柳は教鞭を執る傍ら、外国の文献を読むために、ドイツ語フランス語の勉強や、当時アメリカを始めとして研究が開始されていたラジオの勉強などに励んでいた。そんな祈、後の功績につながるきっかけは偶然に訪れた。

「それは大正12年の初夏のことであった。私は前述の様に、山下町のフランス領事館でフランス語の講習をうけて、海岸通りを歩いて帰った。ある外人の本屋の前を通ったときに、店先のフランスの雑誌のポンチ絵に、テレビに関する未来図がかいてあった。ラジオの四角な箱の上に額縁があり、その中で女の子が歌っている図である。そしてその表題に”television”とかいてあった。私はこれだと思って、これを研究することに決心した」(50周年記念誌「懐しい神工時代の思い出」)

高柳は、その後故郷の浜松に新設された高等工業学校に助教授として転任しテレビの研究に取りかかると、1926(昭和元)年、ブラウン管による電送・受像に成功する。

1924(大正13)年、まだ震災の傷跡も癒えない校舎に建築科の教員として着任した川喜田煉七郎は、東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所では音楽部に所属しており、本校でも建築史の講義の他に、音楽も教える芸術家肌の人物であった。川喜田と同窓で、新任教師として川喜田と同年に本校に着任し、後に4代校長となる副島一之は、当時の思い出を次のように記している。

「建築の君は私と同窓で音楽部の重鎮だっただけに、神工でも音楽を教えたり、建築史の講義を受持っては、いつまで経ってもギリシャローマの神話に足踏みばかりしていると生徒から文句をつけられたり、天才型の奔放な情熱家だった。三人それぞれ若い勝手な熱を挙げて、表現派の絵画や映画のこと、築地小劇場のチエホフのこと、ドイツの民主社会主義のことなど話し合うのだった」(50周年記念誌「38年の回顧」)

川喜田は短い期間で本校を去るが、1931(昭和6)年、ソビエト・ウクライナの大衆劇場建築設計競技で4位に入賞、その後、世界的に活動し建築界にその名を残した。

記念誌トップへ

※同窓会ホームページはこちら



(c) Kanagawa Kougyoukai