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記念誌 二渓の風に乗ってinformation

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100年の足跡 戦時下の学園

木材工芸科・図案科廃止

1942(昭和17)年、政府から専門学科の整理縮小と、「緊急学科」への転換という方針が打ち出された。2月9日の神奈川新聞には、「文部省が発表した中等学校教育内容に圃期的刷新を行ふ戦時非常措置制度」についての記事があり、「精神訓練の徹底、国防訓練の強化徹底を期するため」「男子は軍事教練、女子は看護保育など国防訓練の強化を図る」実業学校では「時局重点主義に基づいて、染色紡績、繊維、美術工芸、木工等に当てられた時数を航空機、艦船、機関等に振り向ける」といった内容が示されている。

軍需産業を支える労働力を確保するために、必要性の低い学科は廃止し、重要度の高い学科へ転換しようと言う事である。これを受けて、本校は第1本科の木材工芸・図案の両科と第2本科の建築科・第3本科を廃止して、第1本科の機械、建築、精密機械各科をそれぞれ250名、第2本科の機械、電気を各250名に増員することとした。

廃止された木材工芸科と図案科の生徒は、4・5年生を除いて建築科の該当学年に編入する措置がとられた。生徒にとってみれば、入学時に自ら選んで志した道とは違った道を歩むことを余儀なくされたわけで気の毒と言わざるを得ない。廃止の決定に対しては両科の職員生徒から反対運動が起きたのも当然であったが、当時の政洽情勢から決定は覆るべくもなかった。当時図案科の生徒で、後に映團界で監督として活躍する広洋栄は、図案科の廃止が決定された時の思いを次のように回想している。

「その図案科廃止が発表になってから後、学校の帰り途に安藤良弘先生と話したことが印象深く残っている。それは放諜後、私が丁人きりで東神奈川駅へ向かう途中であった。滝野川という汚いどぶ川にかかったニツ谷橋を猫背の背をまるくして、とことこと行く安藤先生の後姿を見かけて、「先生」と息をはずませて追いついた。安藤先生はアンドンなどという渾名がある会津若松出身の方で、どこか気難しいところがあり、うかつに口をきいてはいけないようなタイプの先生だったが、その日はなぜか気軽に話しかけることができた。

私は「図案科がなくなると先生はどうなさるんですか」とたずねた。図案科の廃止はその専任の教師の離職を意味していることだったからである。すると、アンドンはいつもの低いくぐもった声でこういった。「心配するな、君たちが卒業するのをちゃんと見とどける。うん、それまでいるよ」そして、ちょっと間をおいて、ひとりごとをいうように、「しかしな、神奈工に図案科をつくったのは大正4年のころだからもう28年にもなるな…それをこわしてしまうなど、ちょっと乱暴な話だ」私は思わずアンドンの顔を見た。アンドンは丸い眼鏡をかけていたが、その眼鏡の奥に、今まで教室などで見せたこともない強いまなざしがあった。

「学校は国のいう通りにしなくてもいい。うん、国がやっていることが正しいことばかりとはいえないからな」それは当時としてはかなり思いきったことばであったと思う。それは私のなかに強い印象で刻みつけられている。そして、東神奈川駅で別れぎわにいわれたことばも忘れられない。「それより君は卒業後どうするんだ。うん、なにか考えていることがあったらいいなさい、相談にのってやる」その先生が乗られた品川行きの省線電車がにぶい西日をあびて遠ざかってゆくのをじっと見送りながら思った。おれはいったいどうしたらいいんだろう?そのとき私は、なにか途方にくれていたという思いであった」(広 渾栄著「私の昭和映画史」岩波新書より)