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記念誌 二渓の風に乗って

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100年の足跡 神奈川工業高校1

文化祭・体育祭の変遷(「神工時報」から)

1947(昭和22)年仮校舎の落成を記念して行われた学校仮興記念祭は、新制神奈川工業高校の文化祭の出発点」となった。

この時は、科展をはじめとして工業展、一般展、学芸会など様々な形で生徒の活動の成果が発表されている。入場者は述べ1万人に及んだとされている。この時の形式が、翌年以降の文化祭でも受け継がれていったようだ。

現在も使用されている「神工祭」の名称は、「神工時報」によれば、1955(昭和30)年までさかのぼる事ができる。同年発行の「神工時報」第32号は、「文化祭・体育祭成功の裡に終る」がトップ記事で、文化祭が10月14・15の両日、体育祭が11月13日に行われ、初の試みとして共に定時と合同での行事であったことが報じられている。下段のコラムには「今年の神工祭は文化祭、体育祭共々昼夜合同とし、一応成功の内に終わったといえよう」とあるから、当時は文化祭と体育祭を併せて「神工祭」と呼んでいたようである。

創立45周年を記念しての催しとなった1956(昭和31)年の神工祭は2部構成で、1部の科展・クラブ展・個人展(個人の趣味や収集を公開するという企画)は11月2、3の2日間、本校の新館で、2部の芸能祭は8日に反町福祉会館を会場として行われている。出し物は、演劇部による「或る死神の話」、女子有志による演劇「夕鶴」、音楽部のハーモニカ演奏、合唱、ピアノ演奏、ウエスタン、映画研究部による「生きていてよかった」と「野菊の如き君なりき」上演とある。

1957(昭和32)年の体育祭は5月5日に行われている。定時制はもとより、初めて参加する松田分校の生徒も合わせて1,500人余りが、強風と雨模様の中、様々な競技を繰り広げている。スプーンレース、1,500m、パン食い競走、買い物競走等、いくつかの種目は天候の影響で中止を余儀なくされた。校舎の工事のため、一般開放を行うことができなかったこの年は、神工祭=文化祭を反町福祉会館で11月14、15の2日間開催する予定であった。ところがこの年の春、香港を発生源として流行したインフルエンザ(アジア風邪)が秋になると日本でも猛威をふるい、神工祭は無期延期となる。実施は翌年1月29・30日を待たなければならなかった。

文化祭に関してはこの頃から既に、予算の使い方や一般生徒の参加意欲に関して生徒自身の中から問題提起がされる事もあり、その中では文化祭随時開催論や実質的な廃止論も行われるようになっていた。

1958(昭和33)年度の体育祭も5月に行われている。この年はY校生徒男子5名、女子7名を招いてマット演技の披露などもあったようだ。以後、体育祭は長い間5月実施が続く。5月に体育祭を実施する事には、入学間もない新人生が上級生と交流を持つという点での良さもあったが、上級生による厳しい応援指導や準備で学習習慣が付きにくいなどの問題も指摘されていた。学校と生徒会との話し合いが重ねられた結果、1975(昭和50)年からは文化祭に接近する形で秋に行われるようになった。

1960(昭和35)年、施設利用の問題から芸能祭が中止されるという事態が生じた。「神工時報」の記事を引用する。

「学校側の弾圧、生徒会側の手落ちが原因?芸能祭中止 かねて懸案であった今年の芸能祭は遂に12月5日の生徒議会において正式に中止と決定された。この芸能祭はさる10月発表された通り、11月22、23両日にわたって行われる予定であったが、突然11月7日、学校より生徒会顧問の先生を通じて中止されたい旨通知があった。学校側では、その主な理由として、時期的にまずい(主として風紀問題)などをあげ、なお明年1月以降ならよいなどの意見であった。しかし生徒会側としては、開催地(神奈川会館11月20日既に決定)や、その他準備もかなり進んでしまっており又明年1月は開催地がなく、2月以降は3年生の自由登校、3月は送別会、卒業式があるため、これには応じがたいと再三学校側に抗議したが結局応じられず物別れとなったため今年の開催は事実上不可能となった。今回の事につき前に述べた通り学校側からは最近の事件などから風紀問題をあげ、硬化しておりまた連絡的欠落、生徒会のこの行事に対するスタート状態などかなり複雑な情勢下での決定でもある事から今後のなり行きが注目される」

その結果、昭和30年代半ばからは神工祭を3年に1回の開催と改め、さらに1963(昭和38)年からは、大規模な神工祭は3年に1度、その他の年は小規模な文化祭(二渓祭)を行うという現行の形態になった。