神奈川工業会は、県立神奈川工業高校の同窓会です 

記念誌 二渓の風に乗って

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100年の足跡 神奈川工業高校1

愛川分校と松田分校

戦後、教育の機会均等の立場から各地の高校で分校が設置されている。特に農山漁村部で交通の不便な土地に学ぶ場を保障しようというのがその趣旨あった。本校では1950(昭和25)年に愛甲郡愛川町に愛川分校(染織科)、足柄上郡松田町に松田分校(建築科・木材工芸科)を設置する。両校とも昼夜間定時制であった。愛川分校開校のいきさつを引用する。

「たまたま昭和24年県教育委員会より高等学校の分校を僻地に設置する提案があり、山賀辰治前校長は繊維の町愛川に、県下の染織課程を設立することは、県北産業の発展に資するものがあろうと、考えられたのであります。当時の愛川町長大貫和助氏はこの新案を知り早速産業界有志並びに隣接町村の賛同を得られ、計画は極めて順調に進み、同年12月に至り工業学校分校設置の要望を県当局に陳情されたのであります。

翌25年3月愛川町に設立が決定し、愛川中学校内に仮事務所を設け、大矢良元校長を中心として、定時制(修業年限4年染織課程、昼夜間部生徒50名)の募集が開始されました。4月1日神奈川工業高等学校愛川分校として開校、半原の県立織物指導所内に移転し授業を開始しました。他の分校と同様狭小なる山間に開設された高等学校であり珍しく、且つ将来の充実発展をも期待し、入学生徒数は一時40余名に達したのであります」(50周年記念誌「愛川分校の追憶 旧職員 萩原静夫」)

その後、独立した校舎の必要性を感じた愛川町と近隣町村の協力で、1952(昭和27)年6月には愛川町半原字隠川に木造平屋建、瓦葺きの校舎が落成した。当時の学校の様子を引用しよう。

「新校舎は小規模ながら隠川台上に起立し、眼下に曲析した中津川の渓流を望み、背後に落葉樹林の山嶽が聳え、洵に風光佳なる自然の環境でありました。狭くも運動場あり、生徒は球技などを楽しみ、かって北相地区高校球技大会に出場し、バレーにおいて優勝した喜びもあります。又春はワラビ狩り、夏は鮎漁会、秋はキノコ狩りの行事を実施し、都市では味わえぬ本校のレクリエーションでありました」(同)

この頃、町当局や近隣中学そしてPTAからは、定時制課程である分校を全日制へ切り替えることを望む声が強かった。県への請願・陳情が何度か行われたが、実現を見ることはなかった。1955(昭和30)年には愛川町の全額寄付によって染織実習のための実習工場も完成し、産業教育振興法に基づく補助金で織機が据えられる。

また本校から校舎を移設し工場を増築するなど、施設の充実に力を尽くす一方で、早春から職員全員が手分けをして津久井、愛甲郡下の各中学に学校内容の宣伝に赴くなどして生徒募集に努力を重ねた。しかし、人学者数は減少の一途をたどることになる。理由としては地域の人口が少なく中学卒業者数にも限りがあるなかで勤労青少年を対象としなかったため応募者が減少したことや地元産業の不振、設備の不備などがあった。

1957(昭和32)年度末を以て生徒の募集が停止され、1960(昭和35)年、3月第7回卒業生を送りだすと10年の歴史に終止符を打つ。

愛川分校全景 松田分校全景

全日制課程へとの要望が強かったのは松田分校も同様であった。

「私が松田分校主任として赴任いたしましたのが昭和28年3月で、以来地の利を得て発展の一途を辿りましたが、ここの分校生徒も真の勤労青少年が皆無という状態であり、父兄の切なる要望により赴任そうそう通常課程切替え運動が開始され、県当局へ文部省へと陳情すること幾度かありましたがなかなか実現の運びに至りませんでした。

この間考えさせられましたのが先づなにより施設設備の充実こそ通常課程への切替えのポイントであると考え松田町当局は勿論のこと、関係市町村、PTA等の物心両面の多大な御支援援助により、実習工場一棟(五十坪余)を職員生徒の努力で竣工させました。

同工場の内壁モルタル仕上げのところが物語るように生徒諸君の手によって作られたものであるので、凸凹であり当時の苦心を雄弁に物語っているようであります。その後県当局のご理解により、理科実習室、準備室、製図室と続々施設設備の拡充に伴い、ついに昭和35年4月1日より待望の通常課程(建築科40名)を募集するに至りました」(同)

1961(昭和36)年秋には建築科実習室(木造33u)も完成するが、この年に開校した県立小田原城北工業高校への移転統合のため、翌1962(昭和37)年から松田分校建築科としての生徒募集は停止された。1963(昭和38)年、小田原城北工業高等学校への移転統合を以て、松田分校は発展的解消という形で幕を閉じた。