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記念誌 二渓の風に乗って

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100年の足跡 3年制工業学校

当時の学校行事

開校初年度から始まった海水浴は、1919(大正8)年までは子安海岸で行われたが、2年目からは本牧海岸に場所を移し、1938(昭和13)年まで続けられた。因みに、水泳訓練の際のいでたちは「黒褌」だったとある。

時代を感じさせる行事の一つに、1916(大正5)年から全校で行われた兎狩りがある。「兎狩り」という名称は牧歌的な印象を与えるが、この行事が始まったいきさつについては「旅順で軍隊のときやったのをまねて」(50周年誌 座談会 旧職員 菊川清蔵)とあり、軍隊での習慣が持ち込まれたもののようである。初回は都筑郡新治村・都岡村付近(現旭区都岡町付近)、翌年は橘樹郡保土ヶ谷町在(現保土ヶ谷区、旭区方面)に出かけて行われたという記録がある。

収穫の方は「一頭とったが足りないので豚肉をまぜた]「大正7・8年頃はこの裏の山で数頭とれました」「とれたのはその時だけらしい」と、こころもとないが、それでも狩りが終わると大鍋で煮て舌鼓を打ったとなれば、生徒にとっては楽しい行事であったろうと思われる。しかし、徐々に周辺の環境が開け、近くに兎狩りに適した場所が無くなっていったこともあってか、数年で行われなくなったようである。

また、毎年12月になると「発火演習」が行われた。開校間もないころから備えつけられていた銃(18年式・後に22年式歩兵銃も追加されたか)を使っての実弾を使わない空砲射撃である。

「勿論実弾ではないが音のする弾が二、三年生は二〇発、一年は銃が半数しかないため午前午後と交代で担うので一〇発、東西両軍に分れ早朝出発、斥候戦から散兵戦、最後の突撃を勇ましいラッパの響に勇躍し敵陣に突込むなど当時の生徒たちにはずいぶん大きな張合いをもたせられた一大年中行事であった。特にサーベルには大きな魅力がもたれ小中隊長になりたがったものである」(50周年記念誌「回想記」電7卒 神代量平)と、これも若い生徒たちには魅力的なものだったようだ。しかし、やがて現役将校による「軍事教練」につながっていくこととなる。

運動会は1914(大正3)年に第1回が行われて以来毎年行われたが、内容は工業学校らしい特色のあるものであったらしい。競技科目の中に普段の学習を取り入れた「実習競技」があり、紅白に分かれた各科で1軒ずつの家を建てる競争があった。機械科はポンプ、家具科は家具、電気科は配線、図案科は看板、建築科は家を担当し全体の出来栄えを競うというものである。この競技はだんだん本格化し、中には完成した作品を買っていく観客もいたらしい。1920(大正9)年10月10日の第7回運動会は、井上県知事等を来賓に迎え、観衆3000人の大盛況であったとの記録がある。

毎年、春には全校マラソンが行われた。コースは1・2年が菊名池、3年以上が川向橋までの往復である。また1月には横浜市内をコースとして駅伝も行われた。この駅伝競技は、運動会と同様に科対抗であったから、自転車まで動員して科毎の応援が盛んに行われたようだ。対外的には、横浜貿易新聞社(現神奈川新聞社)主催で行われた県下中等学校の小田原横浜公園間のマラソン大会に、機械科の上野於菟が1929(昭和4)年、30(昭和5)年と連続して優勝し、マラソン神工の名が県下に轟いた。

文化的行事としては創立当初から学芸会・講演会が行われた。講師には内ヶ崎作三郎(当時早稲田大学教授、宗教家、思想家、政治学者で後に衆院議員)、増田義一(実業の日本社の創設者、衆院議員)、賀川豊彦(キリスト教社会運動家、茅ヶ崎平和学園創始者)、西田天香(宗教家、一燈園の創始者)、北玲吉(思想家、評論家、教育者)等の名前が記録されている。世は「大正デモクラシー」、「工業」という専門分野に留まらず、広く天下国家を考える上で生徒を啓蒙する内容が用意されたものと思われる。合田四郎海軍少佐による日本海海戦実況講演(大正4年5月27日)、五弓安二郎陸軍教授講演(大正6年9月25日)等の記録も見られる。こうした講演は昭和に入ると途絶えた。