神奈川工業会は、県立神奈川工業高校の同窓会です 

記念誌 二渓の風に乗って

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100年の足跡 創立前史

県立工業学校には「機械科」「建築科」の他に「染色科」「電気科」も

用地の決定を見ない段階で、新しく設置する工業学校にどのような科を置くことが適当かについては既に議論が行われてた。

1908(明治41)年11月24日、神奈川県議会では次年度のず算審議の中で、新設する工業学校には機械・建築の2科を設置し定員は両科併せて180名程度との計画を発表するが、質疑の中では次のようなやりとりが行われている。「本県ノ如キハ恐ラク横浜市ヲ除イテハ農業本位ノ県デアッテ、農業学校ヲ立ツテスラ其農業学校ニ入学サセル處ノ子弟ノ人員が誠ニ少ナイ」との意見に対して県当局は県内の造船・金属加工・建築等に従事する人□を示して1学年60名機械科40名、建築科20名)の募集は充分満たすであろう旨説明している。

1910(明治43)年1月には、荒川義太郎横浜市長が県立工業学校に設置する課程に関する建議を県当局に対して提出した。「横浜市の産業の発達にあわせて機械・建築以外の課程も設置することを希望する」と同時に、付属補習学校として染色・電気の2科を設置することを希望する旨の建議も提出され、県当局は染色科を本科課程として設置する余地があるとの回答をしている。荒川市長はこの前後にいくつかの工業振興策を具体化しているが、その影響を受けて発達しつつあった新産業として、輸出向け帽子材料である麻真田の紡績や蒸気機関の代わりに使用されるようになった電動機械の存在が、染色・電気科新設の要請の背景となっている。染色(図案)科・電気科の新設は1915(大正4)年、工業補習学校の附設は1916(大正5)年に実現をみることとなる。

新たな用地買収・神奈川町平尾前に開校決定

1910(明治43)年2月、県当局から、南太田の用地を売却した上で横浜市東部(保土ケ谷ヨリ東神奈川ノ間)に新たに約一万坪の土地を購入するための予算として98,154円が県議会に上程され可決される。南太田の県有地は約149,000円で売却することが可能であると見積もられ、その中から約50,000円が施設の建設予算となる計画であった。実際には南太田の上地は売却されることなく、1923(大正12)年に、横浜高等商業学校(現横浜国立大学)が開校する際の敷地となる。

同年3月、新しい用地が横浜市神奈川町平尾前に決定され、建物は翌年3月竣工との計画が決まる。この場所は、1900(明治33)年に橘樹郡から横浜市に編入されたところで、橘樹郡と横浜市の境界に当たり、鶴見・横浜どちらの工業地域にも近い。また、通学の便を考えても、東神奈川駅から徒歩圏内であることなど、市部郡部双方の要望を満たすことのできる場所であったと言えよう。敷地面積は1,000坪、収容価格は1坪当たり田5円50銭、畑6円50銭、宅地8円、沿道宅地10円であった。

明治45年頃の横浜市付近の地図