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記念誌 二渓の風に乗って

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100年の足跡 神奈川工業高校2

工業高等学時代の教育課程

昭和22年3月、教育基本法、学校教育法、同施行規則が公布され、戦後教育の基本原理と学校体系が定められ戦前の工業高校は、高等学校として、昭和23年4月に発足した。ここに現在までの教育課程のうつりかわりを、まとめてみると、つぎのようになる。

昭和23(1948)年度改訂…暫定的なもの

昭和24(1949)年度改訂

昭和31(1956)年度改訂

昭和35(1960)年度改訂…昭和38(1963)年度実施

昭和45(1970)年度改訂…昭和48(1973)年度実施

昭和53(1978)年度改訂…昭和57(1982)年度実施

とくに昭和23(1948)年度改訂は、暫定的で短命であった。24年度改訂から昭和53年度改訂の5次にわたる概要を表にすると表−4のようになる。

表−4

(1)昭和23(1948)年度改訂時代の教育課程

さきにふれたように最も短命なものであった。旧制の中等学校の教科課程の特色をひきつぎ、旧制中等学校が「高等普通教育又は実業教育を施す」とあったのが、新制高校では、すべて「高等普通教育及び、専門教育を施す」ことを目的とすると変えられたものの「高等普通教育を主とする高校の教科課程」と「実業を主とする高校の教科課程」とに区分の考え方は昭和18(1943)(前述)の考え方をひきつぐものであった。

これは、ほとんど、すべての新制高校が、旧制中等学校の施設と教員組織、生徒をそのまま移行させて発足させられることになったことに対応している。

表−5は、23年度当時の本校建築科の例を示す。これによると、「実業を主とする高校の教科課程」では、国語9、社会10、体育9単位の計28単位が、準必修として認められていることがわかる(本校では体育7単位)。

また、昭和45(1970)年度改訂まで、生きていた卒業までの単位数を「85単位と定める」こともこの改訂ではっきりさせられたことや、「自由研究」が予定されていることも特徴であった。

(2)昭和24(1949)年度改訂の教育課程

昭和23年10月「新制高校教科課程の改正について」、昭和24年1月「新制高校教科課程中職業教科の改正について」の通達があり、4月以降に「実施すべき教育課程編成の大綱」が示され、同時に、「新制高校教科課程の解説」によって具体化された。改訂の特色は、

1、大教科別による単元学習

2、選択教科・科目と必修教科・科目の区分

3、単位制の採用

の3点である。

1については、本校でも、昭和24(1949)年度と25(1950)年度に全国に先がけて、2ヶ年実施されており、昭和26(1951)年度には、いわゆる単元学習から、科目別に変更されており、この変化は、戦後本校の教育課雀を考える上で、重要な意味を持っている。

@大教科制、単元学習下の教育課程(24、25年度)

表−6から、

a 普通教科を主とする学校と職業教育を主とする学校に区分する教育課程を示す方法は廃棄され、その専攻によって最低限の国民共通の教養として、一定の教科目を共通必修とするという考え方が、ここに定まった。つまり、専攻する学科や課程のいかんを問わず、表に明らかなように、国語9、社会10(一般社会5とその他の1科)、数学5(いずれか1科目)、理科5(いずれか1科目、体育9の合計38単位を必修とし、さらに専攻する学科(工業など)では、最低30単位を修得することが要求された。

このような考え方は、その後の改訂においても科目や単位数こそ変更されているが、現在まで生かされている。

b 選択制は、旧制中等学校では殆んど考えられなかったし、

(表−5) 昭和23年当時の本校建築科の教育課程

他の資本主義国で、学校種別が分化している国では、選択制はあまり問題にならなかった。しかし、単線化した当時の日本では、高校教育という単一の目標をもつ教育課程として一元化し、差別をなくすという歴史的な課題を達成するための民主主義的な準則であった。

とくに、@社会的公民的な資質の向上 A職業的能力を発達させ B青年を個人として素質の許す限り発達させるといぅ新制高校の3つの主な目標を実現するための措置であった。

しかし、本校では、いわゆる学校選択であった。

c 1年次では、単位外活動として、ホームルーム、生徒集会、クラブ活動、勉強室を持っていた。

d 1年次(昭和24年)、2年次(昭和25年)において、職業教科を中心として大教科主義が行われ、3年次(昭和26年)では、これが解体して、小教科主義(教科主義)に移行していることを示す。他の課程において同様である。

昭和25年5月に発行された「学校要覧」の二、沿革のなかに、

24.4.1従来の科を廃止して、機械工作、精密機械、建築設計、電気機器、電気通信、木材加工、工芸図案の8コースを置く。同時に教科課程に大改正を加え、大教科制、選択教科制、単位制を採用す。

とあり、新制工高一本の姿になった本校の大改正であったことがわかる。

大教科制による教育課程の目指しているところは、「教育課程は、生徒の教育環境そのものであり、従って教育内容は、学問的な選択と配列に基づく教授要目でなく、生徒の活動を中核とする問題は単元によって構成されるべきで、生徒の価値ある経験を重ねることによって成長発達することを助長するのが、学問指導のねらい」であり、これがためには「分析的な科目建てはなるべく少ない方がよく、実習、学科が表裏一体をなして一つの単元を構成する如く考える。また、単元の内容は各学年に配当された具体的目標を総合して得られるようにしている」とある。

表を見ると職業教科の「電気」、「電気機器甲」「電気機器乙」がそれぞれで、細切れ科目を作らないという意味から「大教科制」と言われたのであろう。学習内容の選択とその配列は、職業分析によって得られ、適当に選ばれたブロックを単元とし、必要な手の技能(実技)とこれに関係のある知識(知識・理解)を同時に教えていったのである。

本校は、文部省産業教育研究指定校として他校に先がけて実践したのである。(昭和29年11月発表)

A昭和26年度以後の教科主義による教育課程(本校電気機器課程の例)表−7から

a 普通教科の必修については、国9、社10、数5、理5、保健体育9の計38単位はそのままである。

b 大教科制の実体はどうであったか。たしかに教科内容と教授法に関する過去の工業教育の反省から生れ、よい意図をその中に含みながらも、実際の学習指導に表われた効果は極めて不十分で、かえって卑俗な生活主義や実用主義となり、T万科学的・技術的な目を育てることを怠る結果となった。

その原因は、工業高校をとりまく環境に見出すことができる。戦災を受けた本校、また非戦哭でも老朽化した貧困な施設・設備の中での技術教育は不可能に近く、さらに教員定数の絶対的不足は大教科制による教育の推進にとって致命的であった。また、知識や論理性の軽視、学問的なものに関する感情的反発などを特徴とする「生活単元方式」は、知的なものへの尊重と、その系統的獲得は、文化遺産の継承における正しい態度であるはずなのに、問題発見など教授法上の問題に惑わされて、知識体系を固定的なものとしてつかみ、その改造と発展の方向に向わず、これを放棄する方向に走ったのである。

当時現場の教員は、いち早くそのことを見抜き、現場からの多くの批判と検討を加え、大教科制をしりぞける方向に運動を起したのであった。

c これらの反省のなかで、改善された教育課程の要旨はほぽつぎの通りである。

第一に、「実習」を総合実習な考えにもとづいて、独立して設けたこと。また、視聴覚教育の一環として、さらに学科と実習の結合をはかっていこうと考えたこと。

第二に、普通教科を含め、各教科間の連繋に留意した。

第三に、入学当初より、将来の職業に関する希望も一応はっきりしているし、修業年数や大ワクとして単位数の上からも広範囲に選択する余裕がないため、各課程ごとに、選択教科目の選択を必修に準じて決め、3年次において7?8単位の余地を残した。

d 文部省は「高校指導要領」(試案であり、昭和26年(1951)年版による) のなかで、教科目名を変えずにかなり自由に科目の内容や性格を変更して教科の実態を操作しうる余地をつくり出したことは、注目してよい。また工業に関する科目は、当時44科目にすぎず、これからの弾力的運用が、可能であった。

(3)昭和31(1956)年度改訂の教育課程

a 教育課程については「高校学習指導要領一般編」に述べられているように、いかなる課程でも、国語では「国語甲」、社会では「社会」を含む3科目(本校では「社会」、「日本史」、「世界史」)、理科では2科目(本校では物理・化学)、数学では「数学I」、保・体では、「体育」・「保健」、工業に関する科目では30単位以上、さらに特活を履修させないといけない。

(表−8)

b 昭和24年度改訂当時の大教科制や選択制はなくなり、必修としての学校選択制度が取り入れられた。また普通教科の科目名も応用数学とか、社会科の科目等にみられる一部変更、保健と体育の完全分離、さらに、職業教科目名、科目数も大幅に変わり、細分化を目指していることがわかる。

工業関係法規は、1〜3単位であったが、その他のどの科目も最低2単位以上の履修を義務づけており、学校現場で採択の教科日の自由度は、相当制限されることになった。

c 昭和24年度の「学習指導要領」はとくに(試案)であり、一つの例示であると考え現場で教育課程をかなり自主的に編成できたが、この31年度改訂以後は、(試案)ではなく、拘束力を持ち始めたのである。

d 本校では昭和33年に、電子工業科が新設されている。

(4)昭和35(1960)年度改訂の教育課程

a 「学習指導要領」によると、すべての生徒に履修させる教科・科目は、国語のうち「現代国語」(本校では7単位)および「古典甲」(本校2単位)または「古典乙T」、社会のぅち「倫理・社会」(2単位)、および「政治・経済」(2単位)を含めた4科目(本校ではあと2科目は世界史A=2単位=と地理A=2単位)、数学のうち、「数学I」(5単位)=本校では他に応用数学(6単位)、理科では2科目(本校では、物理B=5単位、化学A=2単位)、保健・体育のうち「体育」(7単位)および「保健」(2単位)、外国語のうち1科目(本校では「英語」(9単位)となっており、音楽を除けば、昭和33年当時の教育課程と大きな変動はない。

また、工業に関する科目は35単位以上、事情が許せば40単位以上とあったが、本校では49単位を履修させている。(表−99)

b とくにこの改訂で、大きく変えられた教科は、「社会」であった。とくに「倫理・社会」をすべての生徒に学ばせる意図については、当時最も大きな論争点となった。戦後、社会科が創設され、「民主主義」から始められた科目も内容も大きく変えられ、道徳教育導入の高校版とされた。一方技術革新の波にのって「自動制御」など新しい科目が登場してきているのも特徴。

とくにいわゆる多様化路線に従って、工業に関する科目は、前回の改訂の科目数より倍増の感があり、156にも及んでいる。

C 昭和39年4月1日には「電気通信科・電子工業科」を廃止し、「電子科」(2学級)が新設され、昭和41年4月1日には「木材工芸科土芸図案科」を廃止して「産業デザイン科」が新設された。

(5)昭和45(1970)年度改訂の教育課程二部現行)

a すべての生徒に履修させる教科・科目としては国語のうち「現代国語」(本校では7単位)、および「古典甲I」(2単位)、社会のうち「倫理・社会」(本校では2単位)、および「政治・経済」(2単位)の2科目ならびに「日本史」(3単位)、世界史および「地理A」(2単位)または「地理里のうちの2科目。数学のうち「数学一般」または「数学I」(本校では6単位)理科のうち「基礎理科」または「物理⊥(本校では3単位)、「化学T」(本校では2単位)、「生物T」および「地学T」のうち2科目。(表−10)

保健体育のうち「体育(本校では7単位)および「保健」(2単位)、芸術のうち「音楽T」(本校では2単位)「美術T」(本校では、建築科と産業デザイン科で2単位)、「工芸T」および「書道T」のうちの1科目となっている。

また職業教育を主とする学科は、35単位を下らないようにすることとあり、本校は40単位をとっている。これは35年改訂時亜単位であったのと比べれば、大幅減となったといえる。

b さらに、教科日の細分化が続いている。工業に関するおもな学科としては21となり、科目数は164にも及んでいる。また電気科の「電気工学T」L「電気工学U」「電気工学V」、電子科の「電子工学T」「電子工学U」「電子工学V」のように、小科目を融合した科目も表われた。

実際には、従来の小科目を寄せ木細工式に集めた感がある。

c 全体として一層指導要領による拘束力が強まり、全国的>に特色のある教育課程編成ができにくくなった。

d 本校においては、とくに「必修クラブ」問題で分会教研が大きな力を発揮し、全国的に、いわゆる「必修」とさせない交渉の糸口を作った。

(6)昭和53(1978)年度改訂、昭和57(1982)年度実施による教育課程

a 必修科目の大幅減が特徴である。国語においては、「国語T」(4単位)、社会においては「現代社会」(4単位)(本校では、とくに「地理」を履修)、数学で「数学T」(4単位)、理科では「理科T」(4単位)保健体育では「体育」(7単位)、「保健」(2単位)、さらに芸術で2単位の、普通学科で計7科目27単位は、前回改訂にくらべれば、明らかである。工業においては、35単位以上だったものが30単位以上となっている。新制高校初期の教育課程における6科目謂単位に比べても低く、史上最低のものである。

しかも「各教科・科目の特質及び生徒の実態から履修困難なら、その単位数を一部減ずることができる。」とか、専門科目によって、普通科目の代替を認める措置とか、弾力的運用が目立っている。高校教育内容の切り下げと一層の多様化をすすめる方向に向かっている。(表−11)

b 本校ではとくに「教育課程研究委員会」(昭和52年〜55年)が中心に、新学習指導要領を批判的にうけとめ、「工業基礎」「工業数理」を安易に形式的にとり入れることは問題だとし、当面は、これを教育課程に入れない。また、「ゆとり」の提起に対しても「単位減」でなく、学習内容を精選し、十分時間をかけて学習させることだとし、給時間数としては、前回改訂時と同じ単位数を確保し、いわゆる自主編成において実効をあげた。

c 選択制については、前回改訂後に、機械科が、先駆的な形で、数学と工業において部分的に行ったことを受け、今回改訂をテコに、数学と工業との問の学校選択を成功させるために「教育課程編成委員会」(昭和56年発足)で、検討を進めているが、学科間での歩調の一致をかちとるまでにはいたっていない。

d 工業学科は13、また科目数は64と縮小された。