神奈川工業会は、県立神奈川工業高校の同窓会です 

記念誌 二渓の風に乗って

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100年の足跡 戦時下の学園

授業再開と疎開計画

焼け跡の後片付けと整理は、早くも翌30日から始まった。当然のことながら、作業するに満足な道具は殆どない。空襲警報の合問を縫うようにして、生徒と職員が力をあわせての作業が連日続けられるが、この間、工場動員も中止されることなく諮けられている。さらに中郡と津久井郡への農村動員が並行しでおこなわれている。月が替わり6月2日の土曜日は雨、この目になって初めて整理作業は「休止」と記録されている。しかし、生徒の転学の手続きや疎開のための旅行証明書下附等の事務が行われ、学校の機能は停止することはなかった。3日になると、学科毎の作業分担が記録されていて、片付けもある程度進捗トてきた様子が見て取れる。

6月8日(金)晴

午前8時半ヨリ宮原教諭司会ノ許二大詔奉戴記念式ヲ挙ゲ訓話ヲナス。開戦の詔勅が下った12月8日を記念して1942(昭和17)年以来、毎月8日に行うことが決められていた大詔奉戴記念式は、この月も滞ることなくおこなわれ、嘱託将校からは沖縄戦線の重要性についての講話があったとの記事がある。この日、空襲当日学校で被災し負傷、加療中だった池田猛機械科実習工手が警友病院で死亡している。

6月9日(土)晴

神奈川高女校、佐藤秀麿氏校舎ヲ第一高女校二交渉中ノ旨挨拶アリ。

岡野町の第一高女(現横浜平沼高校)の施設利用を交渉したとのことだが、第一高女もまた空襲の罹災者たちの臨時救護所となっており、野戦病院さながらの様子であった。とてもこの交渉に応じられる状況ではなかったのである。

6月29日(金)曇

宮原教頭市役所教員課二浦島国民学校転用ノ件申込

6月30日(土)雨

生徒休業宮原教頭二中二教室転用ノ為打合セニ出向。

7月2日(月)雨

生徒休業鶴工及ビニ中校舎転用願ヲ横浜市長及神奈川県知事宛提出。

結局、横浜二中(現横浜翠嵐高校)で教室転用の願いが受け入れられることとなり、一種の授業が再開されたのは7月28日(土)であった。丁万、二種の授業は再開する目処がたたず休業が続く。

8月14日(火)曇

宮原、村田、柳川、津久井郡串川村二出張。

この出張の用件は、「学校疎開」の交渉であった。二中の校舎を借りて再開した授業も、たびたびの空襲警報で中断される有様であった。そうした中で、工業教育を一日たりともおろそかには出来ないとの思いから、農業動員で縁のあった津久井郡に学校を疎開させることが計團されたのである。この日、村当局などとの交渉で、村の寺を教室にして生徒を収容し、授業を行う話がほぼまとまった。