藤木企業(株)会長で横浜港運協会会長の藤木幸夫(機械34)が育ったのは戦争の真っただ中。国を挙げて工業が推進され、神工には秀才が集まった。
「小学校の先生に『君の成績では不可能』と言われましたが、奇跡的に合格しました」。入学して長い廊下を歩いたときは、「聖域に来たように」緊張したという。
3年生のとき横浜大空襲により目前で校舎が焼け落ちた。「学校が燃えてしまった」と嘆く生徒に、ある先生が「学校は燃えていない、校舎が燃えたんだ」と一喝したことは忘れられない。
早稲田大学卒業後、父・藤木幸太郎の起こした、横浜港の港湾荷役会社である藤木企業に入社。高度経済成長期以降、荷役の主役が人力からコンテナヘ転換すると、経済や都市計画の専門家と連携し、時代に即した横浜港のあり方を模素した。
その際、土台となったのは、神工で養った理系的思考や工業技術的な方法論だ。「かつての港湾荷役は理屈のいらない義理人情の世界。そんな『情』の世界で育った私は、『理』の部分が弱かった。そこを神工が補ってくれました」
ことし5月、横浜港振興協会会長にも就任。横浜の象徴ともいえる横浜港のさらなる発展のため、決意を新たにしている。