100年の足跡 3年制工業学校の頃

第1回入学試験

1912(明治45)年1月には、県の公報で新しい工業学校の生徒募集が告知され、同年3月、第1回の入学試験が行われた。試験会場は横浜尋常小学校(中区仲通5丁目)、現在は農林水産消費安全技術センターとなっている場所である。前年5月1日に公布された神奈川県立工業学校学則によれば、生徒の定員は180名(第三条)、入学資格については、「一 品行方正身体強健ニシテ志望確実ナル者 二 年令一四年以上ノ者 三 修業年限二箇年ノ高等小学校卒業者又ハ之卜同等以上ノ学力ヲ有シ入学試験ニ合格シタル者 前項入学試験ハ国語、算術、地理、歴史、理科ニ就キ高等小学校ノ程度ニ於テ之ヲ行フ」(第一〇条)「入学志願者ノ数入学ヲ許スヘキ人員ニ超過シタルトキハ試験ニ依リテ入学者ヲ選抜ス 前項ノ試験ハ修業年限二箇年ノ高等小学校卒業ノ程度ニ依り左ノ科目ニ依リテ之ヲ行フ国語 算術 図画」(第一一条)とある。募集人員60名(機械科40名、建築科20名)に対して志願者数は機械科170名、建築科60名、国語 算術 図画の入学試験を行った結果、合格者は機械科45名、建築科22名、併せて67名であった。

地名と当時の風景

県庁内に設置されていた本校事務所は、1911(明治44)年3月31日に「横浜市神奈川町字平尾前」の仮校舎に移転する。当時の地名である「平尾前」というのは、北条氏の家臣で、太田道灌から賜った持仏を本尊として東光寺(神奈川区東神奈川2丁目仲木戸駅付近)を建立した、武将平尾内膳に因むものである。その後、1927(昭和2)年に区制が施行された際に「横浜市神奈川区神奈川町」となり、さらに1932(昭和7)年、「字平尾前」と「字中川」の両地域が合併した際に、現在の地名平川町」となった。「二ツ谷」というのも学校周辺の古くからの字名で、その由来は「二軒屋」であるといわれているが、東西を白幡と栗田谷の丘に挟まれた、開校当時の学校付近の眺めは、二ツ谷の地名を実感できるものだったようだ。

東神奈川駅(明治41年9月開業)の周辺は、東口方面こそ国道(15号線)に向けて一応の街並みが出来上がっていたものの、西口方面は、一面に広がる田畑の向こうに雑木林の白幡・二本榎・高島台の丘を望む「田園凰景」であった。そんな様子であったから、本校舎が完成すると、東神奈川駅から高さ75尺(約23メートル)あった学校のボイラーの煙突を見渡すことができたという。学校の敷地には白楽の丘から運ばれた土が1メートルほど埋め立てられた。開校の後も校地の整備は引き続き行われていたようで、4回生あたりまでは汗と泥にまみれて校庭の整備作業をしたという思い出を持っている。

1913(大正2)年11月に新築なった本校舎は、木造平屋建てで、屋根はスレート葺きであった。雨天時には剣道場・体操場にもなる「生徒控所」が設けられていて、生徒たちは毎朝登校すると、この「生徒控所」の棚に所持品を置き、教室には必要なものだけを携行して授業に臨むことになっていたらしい。授業と授業の合間の10分休みには教室から戻った生徒が学年を超えて控所に集まることになるので、それが上級生と下級生が交流する貴重な時間となっていたという。

「本校舎は長さ75間もあって廊下で雑巾がけをするときには中腰で二三人並んで競争しながら拭いたことなどもあって、 仲々一気には骨が折れて先までつづかなかった」(50周年記念誌「創立当時の想い出」 旧職員 仙波昇作)

校舎の掃除はもちろん生徒たちの日課であった。

校名

神奈川県で初の県立工業学校は、1911(明治44)年に文部省告示で開校が許可されて以来、新たに県立の工業学校が開校してもこの校名を使い続けた。1948(昭和23)年に新制の工業高等学校として生まれ変わるまで、「神奈川県立工業学校」だったのである。

因みに、1910(明治43)年の時点で、全国の工業学校数は公立私立を合わせて36校であった。1911(明治44)年には、本校を含めて、現存する2校が開校しているが、一方で統合や閉校もあったためか、全国の工業学校数は34校となっでいる。本校の設立は全国で37番目くらいであったと考えられる。

略称は「神工」、戦前は「シンコウ」と呼んでいたが、戦接「神奈川工叢高等学校」になってからは、次第に「カナコウ」の呼び名が使われるようになり、これが一般化して現在に至っている。

初代杉本源吾校長と「質実剛健」の気風

初代杉本校長福岡県立福岡工業学校から赴任した初代校長の杉本源吾は、創立間もない学校に「質実剛健」の気風を作り上げた。杉本が創立以来15年にわたって校長を務めた福岡工業学校を去り、新設の本校に転出したいきさつは、福岡工業高校百周年誌に詳しい。神奈川への転出が内定した際に、杉本自身が九州日報の記者のインタビューに答えたところによれぱ、神奈川工業学校ヘの赴任を打診したのは、杉本の恩師であり東京工業学校(現東京工業大学)校長であった手島精一氏である。周囲の反対、福岡県学務部長や寺原知事の慰留にもかかわらず、「得失利害は別問題、ただ恩師の命」との思いが杉本を横浜に向かわせた。開校と同時に本校に赴任した、国語科教論鵜木保によれば、その人柄は

「企画性と実行力に富み、仕事の鬼ともいえる方で、たまたま校長室に行くと、たばこの火が手元に来ても気が付かず、何か一生懸命仕事をしていられることもありました」(50周年記念誌・同窓会座談会より)とある。「厳正・緻密、勤勉」であると共に、校長室に掲げた横浜市と神奈川県の地図に生徒一人一人の住所が把握できるよう名前を記した画鋲を止め、そうした形で直接顔を合わせることの少ない生徒と常に向き合うという一面もあったようだ。(50周年記念誌・「創立当時の思い出」旧職貝仙波昇作より)

また、溝堂や控室、教室など校内の様々な場所に、生徒の修養になるような文句を額に入れて掲げさせていたため、「額校長」と渾名された。「控室に「華を去り実につく」という額が掲げられ他の学校のまねのできない校風をつくろうという気風がみなぎっていた」(機械科3回卒業生・小川本成・50周年記念誌・同窓会談会より)「質実剛健」の軸も掛けられていた。校舎の整備整頓から校則、教職員の服務規律等、万事前任校での経験が用いられていたところから、内輪では校名を「神奈川県立福岡工業学校」と呼んでいたとも言われる。

本校の基礎を築き軌道に乗せた杉本は、1915(大正4)年3月、本校を退職し再び福岡に戻ることとなる。但し、教育者としてではなく、実業界への転身であった。赤がね御殿の主としてその名を知られた「炭坑王」伊藤伝右衛門らによる合資会社幸袋工作所に支配人として請われたためである。転身をためらう杉本の背中を押したのは、今回も恩師の手島であった。表向きは「老母の介護のため」との申し出をして、第1回卒業式の1週間後、実業の世界に身を投じる。校長職は創立時に熊本工業学校から赴任し、当時教頭職にあった秋山岩吉に引き継がれた。

生徒心得

生徒控室

生徒控室そのころの学校生活の様子を知るに、1917(大正6)年5月1日現在の「神奈川県立工業学校一覧」は貴重な資料である。当時の「生徒心得」には、ズボンにかくし(ポケット)を付けないことや、白の水兵型のゲートル帽子の高さや庇の広さなど、細かな服装の規定が記されている。第十一条四に「自転車ニテ通学スルモノハ冬期ニ限り手袋ヲ用イルコト」とあるから、自転車での通学が許可されていたことがわかるが、冬の間、手袋を着用することは自転車通学者にのみ認められた特権であったことが興味深い。また、学校内での立ち居振る舞いについては、敬礼の一挙手一投足に至るまで細かく規定されている。

職員及其他ノ長上ニ対シテハ左ノ通り心得ヘシ


図書室「大器晩成」の額

一 姿勢ヲ正シ対者ノ眼ニ注目シテ上体ヲ少シク前方ニ傾ケ敬意ヲ表スルコト

但シ帽ヲ戴ケルトキハ右手ニテ其前庇ヲ把リテ之ヲ脱シ内面ヲ右股ニ対セシメテ然ル後前ノ如クナスヘキコト

二 急務中又ハ止ムヲ得サルトキノ外ハ其面前ヲ疾走シ又ハ横切ル等ノコトアルヘカラサルコト

といった具合である。これは生徒同士についても同様で、敬礼を略してよい場合については次のように決められていた。

一 学校内ニ於テ同一ノ職員及其他ノ長上ニ出遇フトキ二回目ヨリハ第十三条ノ礼法ヲ略シ軽ク会釈ヲ為シテ敬意ヲ表スルニ止ムルコト

二 両手ニ物品ヲ携帯シタルトキハ第一三条ノ礼法ヲ略シ只少シク上体ヲ前ニ傾ケ敬意ヲ表スルニ止ムルコト

三 雨雪等ノ為ニ外套ノ頭巾ヲ被リタルトキハ右手ニテ帽庇ヲ摘ミタルママ上体ヲ少シク前ニ傾ケ敬意ヲ表スルニ止ムルコト

この心得の通り行動するとなれば、学校生活は常にかなりの緊張感を伴うものであったろうが、こうした心得からは、当時の本校で、いかに礼節を重んじた指導を目標としていたかがうかがわれる。

別科の増設、電気科・図案科の新設と工業補習学校の附設

1914(大正3)年4月から、これまでの機械科・建築科は本科となり、高等小学校卒業程度を入学資格とする別科が新設された。別科に設けられたのは、機械科・大工科・家具科の3科で、修業年限は1年であったが、これは翌年16人の卒業生を出すのみで1917(大正6年)には廃止される。

1915(大正4)年、第1回卒業生(機械科33名、建築科18名、前年に新設された修業年限1年の別科16名)を送り出すと、新年度からは建築科が建築科と家具科の2科に分けられ、さらに電気科と図案科が新設された。

建築科は、開校当初から建築(第一分科)と家具(第二分科)とに内容が分かれていたのを2つの科として分離したもので、自然な成り行きであったといえる。電気科と図案科の新設は、神奈川県の輸出産業と電力産業の進展を背景としたものであったらしい。特に現在のデザイン科の前身である図案科に関しては、当時、東京美術学校(現東京芸術大学)や東京高等工業学校(現東京工業大学)などの上級学校には設置されていたが、関東地方の中等教育の工業学校としては埼玉県の川越染色学校(現川越工業高等学校)にその名を見るのみで、先進的存在であったと考えられる。

1916(大正5)年には高等小学校卒業を入学資格とした夜間1年制の工業補習学校も附設される。ここには機械科、建築科、電気科、普通科の4科が置かれた。

「幸ニ県下ニ於テ立派ナル工業学校ガ存在イタシテ居ルノデアリマスカラ、此場所此校舎、此設備ヲ利用スルト云フコトハ甚ダ適当デアルノミナラズ、殊ニ神奈川方面ニ於キマシテハ幾多ノ工場等モ存在ヲ致シマスノデ、今此工業学校ニ附設スルト云フコトヲ信ジマシテ此所ニ附設ヲスルト云フコトニ致シマシタ」(大正4年 内務部長所信・『神奈川県会史第4巻』より)

ここに登場する「立派ナル工業学校」というのが本校を指していることは言うまでもない。因みに、工業補習学校の設置案は、前年1914(大正3)年の県会では、「県財政緊縮の秋に於て、附設工業補習学校費七百四十八円の如きは比較的急を要せざるものと認め之を削除せり」として一度否決されている。それがこの年再度検討され実現を見たわけで、神奈川の産業の発展は、それまで遅れていた工業の実業補習学校の設立を必然とするところまで来ていたのである。

1919(大正8)年には学則が改正され、科目制、期制に改められるなど、内容の充実が図られる。

(神奈川県立工業学校附属工業補習学校学則・抜粋)

第三条 本校ニ機械部、建築部、電気部、図案部及ビ普通部ヲ置キ更ニ機械部ヲ機械学、工具及ビ製作法、原動機、機械製図ノ四科ニ、建築部ヲ家屋構造法、建築用材料、規矩法、仕様見積法、建築製図ノ五科ニ、電気部ヲ電気機械、電気応用芯、発電所、電気磁気、電気製図ノ五科ニ、図案部ヲ図案法、工芸美術史、図画、図案実習ノ四科ニ、普通部ヲ国語、工業数学、工業理科、英語ノ四科ニ別ツ

科別の枠は固定的ではなく、時間割の都合さえつけば他の科の科目も習得することができる仕組みであったようだ。

寄宿舎「二渓寮」


創設当時の二渓寮

本校は県下初の工業学校であったから、入学してくる生徒の居住区域は当然のこととして広域に及んだ。こうした生徒たちの便宜を図るために、1914(大正3)年5月、寄宿舎が完成する。寮は当時の国語科教論鵜木保によって「二渓寮」と命名された。

「二渓」とは、「二ツ谷」の地名を漢語的に表現したものである。木造2階建ての建物には15畳の生徒室が「い」「ろ」「は」順に10室、食堂、浴場はもちろんのこと、図書室や理髪室、病室も備えられていた。理髪室では、生徒がお圧いに散髪をしあったということである。生徒室の机、本箱、洋服掛け、洗面器や食器、蚊帳等が学校から貸与され、寮費は1円、食費7円50銭(いずれも月額)であった。授業料の50銭と併せて月11円あれば不自由なく暮らせた。入寮者は、県内でも通学が不便であった横須賀や藤沢以西からの生徒のほか、1918(大正7)年電気科に入学し寮生となった神代量平によれば静岡、長野、遠くは山口、鹿児島からの出身者もあったとのことである。

寮生心得には季節ごとに日課が定められていた。いったん登校すると、昼食時を除いて放課後まで寮に戻ることは許可されていなかったし、掃除や整理整頓の方法、学習時間の過ごし方、入浴時の脱衣所での決まりなど細かい決まり事も並んでいる。また、外出や帰省には次のような定めがあった。

第三十二条 休業日ハ朝食後ヨリ其他ノ日ハ放諜後ヨリタ食時刻十分前マテ外出ヲ許ス 但シ寮監ニ於テ適当ト認メタルトキハニヲ許可スルコトアルヘシ

第三十三条 外出ノ際予定ノ時限了アニ帰寮スルヲ能ハサルトキハ帰寮ノ際外出先ノ証明書ヲ寮監ニ差出スヘク又特別ノ事由ニ依り万一外泊ヲ要スルニ至ルトキハ急使又ハ便宜ノ方依ニ法り遅滞ナク其旨寮監ニ届出テ寮帰ノ際本条ノ手続ヲ履ムベシ

第三十四条 寮生ハ頻繁ニ帰省スルコトヲ得ス

第三十五条 帰省セントスルモノハ学校長ニ願出テ許可ヲ受クヘシ願出ノ時限マデニ帰寮スルヲ能ハサルトキハ帰寮ノ際帰省先ノ証明書ヲ寮監ニ差出スヘシ

こうした中で、実際の寮生たちはどのように生活していたのだろうか。当時舎監を務めていた体育科教諭菊川清蔵や寮生(機械科9回卒)鈴木信之の回想によれば、舎監の目を盗んで、塀を乗り越えて外出したり塀越しに食糧を調達したり、捕まえた蚤をバケツに集めて舎監室にまいたりと「やんちゃ」はしたものの、寮内での上級生下級生の間柄は「民主的」で、小使室に住み込みで生徒たちの面倒をみた「水野のおっさん」のきめ捌かい心遣いもあって、楽しく快適だった寮生活の様子が語られている。(50周年記念誌「同窓会座談会」より)

2代秋山岩吉校長

2代秋山校長初代杉本校長が福岡へ戻ったのち、第2代校長となった秋山岩吉は、1898(明治31)年に東京工業学校附設工業教員養成所の木工科を卒業し、熊本工業学校勤務を経て開校当初の本校に赴任する。1922(大正11)年夏には中華民国の視察を行い、また、建築教育の専門家として標準教科書編纂の作成に関わる委員として名を連ねるなど、校長職について以来25年間の長きにわたり、本校のみならず、神奈川の工業教育を牽引した。そうした功績を認められ、1928(昭和3)年には文部省より表彰を受けている。その人となりを、過去の周年誌から引用する。

「秋山校長は最上級生全部を集めて毎週修身を講じて居られた。一年間で全部の生徒を覚えてしまい、卒業生の就職先についてもよく承知していた」(50周年記念誌「三十八年の回顧」 副島一之)

「厳格で又寛容なしかも格勤な方、年額六七万位の少ない予算をよく切り廻わし、電気、図案の二科を増加し定員三百名の陣容をととのえ敷地増加、工場増設、職貝増員などに専念奔走された。一方夏期休業は八月八日より同二十四日迄あったのを、八月いっぱいに廷長、土曜六時間を四時間とし以って他校と運動その他の行事が協力円滑に運ばれました。尚同窓会を設立し次第に今日の基礎を作りあげたうみの親育ての親でもありました」(50周年記念誌「創立当時の思い出 旧職員 仙波昇作」

「校長宅に在校生徒の名前を書いた札がならんでいました。よく名前を記憶されていました。卒業生についてもよく動向を知っておられました」(50周年記念誌「五十年五月の空は かわりなし」旧職員 岡田義祐)

野球好きで、放諜後や夏休みのグラウンドでは野球部の練習を見守る姿がよく見受けられ、夏休みに選手を公舎に招いて食事をしながら激励することもあったという。囲碁・釣り・謡曲・俳句など多趣味な人でもあった。勇退後も、菊名の自宅を訪ねる卒業生は多く、還暦を記念して1938(昭和13)年、学校玄関前に銅像が建てられた。二渓苑6号に掲裁された祝辞集から引用する。

本日此処に諸先生並に先輩諸氏のご尽力に依り芽出度く秋山先生寿像除幕式の挙行を見るに至ったことは本校生徒として心から喜びに耐へない次第であります。

先生は御在職二十余年、其の間本校の発展改善の上に貢献せられた功労は多大なものでありまして、本校が今日押しも押されもせぬ全国有数の工業学校として質実剛健を以て世に聞え、又社会に幾多の人材を輩出したといふことは偏へに先生の御人徳の賜でありまして、先生が県教育界の香宿として重きをなした所以であります。又先生は吾々に対して慈父の如き優しさを以て直接、間接に御指導下され、吾々も又子の如き親しみを以て先生に接したのであります。先生の風格、自然に備はった温容風姿は本校の円満な明るい外観風貌をそのまま代表した様なものであります。前述の事柄に照して此処に先生の寿像除幕式を見るに到ったことも当然の現象と言はなければなりません。

今や全国津々浦々に迄、工業立国が叫ばれてゐる時に際し先生の御勇退を見たことは吾々としても遺憾措く能はざるところがあります。然しながら吾々は朝夕先生の御寿像に接し以て御教訓を思ひ出し実行してこそ真に先生の御趣旨にかなふものと確信し、それが先生に対しての報恩の第一であると思ひます。此の機に於て衷心より先生の多年の御苦労に対して聊か謝意と敬意を表して本日の祝辞と致します。(機械科 安芹芳雄)

この銅像には、戦時下の供出で撤去され「出征」してしまったという後日談がある。

2代秋山校長

2代秋山校長

工業学校は、実習に重きを置くという教育内容の性質上、設備と消耗品に多額の予算を必要とし、「金食い学校」と呼ばれることもしばしばであった。次ぺージは、当時の本校における経常費と実習用消耗品費の額を表にしたものである。

前述のとおり、生徒が負担する授業料は月額50銭(年額6円)ほどである。1913(大正2)年、本校に赴任した仙波昇作がその月給を45円と記憶している時代であることを考えれば、相当の経費が支出されていたことがわかる。

こうした中で、1917(大正6)年度、県の一般会計繰人れ金1,000円を基金として、工業学校作業資金(特別会計)が設けられたことは、生徒の特別実習に大きく役立った。建築工事その他物品製作を生徒の実習として受注し、その材料購入費等にこの資金を充てる一方、作業で得た収人を基金に繰り入れるというものである。校地内に建設された本校の校長住宅をはじめとして、建築物では横浜商業学校(現市立横浜商業高等学校)の大典記念図書館と銃器庫、都田村役場、その他住宅2棟、家具としては県下の中学校の物理化学実験台、羽二重検査所のテーブル・机、帽子掛け、生糸検査所のテーブル・椅子・衝立、大倉陶園と女子学習院の机等が大正15年までに製作された。1917(大正6)年度末現在2,492円76銭だった基金は1926(昭和元)年度末には11,314円97銭にまで増えた。

さて、建築科の生徒実習で校地の北東隅に建てられた校長公舎は、建築科教員の指導のもと外部の手を借りずに完成した。公舎は校長家族の生活の場であったとともに、教職員のクラブ的機能も果たしていた。初代杉本校長夫人は前任の福岡工業時代に「教職貝家族会」と称して正月の互礼会や春秋2回の懇親会を行っていたということだが、本校にもそうした習慣が持ち込まれ、更に2代目の秋山校長にも受け継がれたようである。当時の教職員は「お正月の家族会もいいものだった。独身の私共も幹事役になって子供の福引の品を買って来てお相手をした」(50周年記念誌・「38年の回想14代校長副島一之より」

「毎年正月の三日頃、全職員の全家族が寄宿舎の庭に集まって慰安会が催された。いろいろの余興や福引園遊会などがあり楽しい一日を送ったものだ」(50周年記念誌・「17年間の想い出」旧職員・吉田前十より)とその様子を振り返っている。公舎の庭に植えられた楠の若木は、創立50周年の際、当時の校門の付近に移植され(当時は樹齢70年の巨木となっていた)現在も学校の日々を見守っている。

当時の学校行事

開校初年度から始まった海水浴は、1919(大正8)年までは子安海岸で行われたが、2年目からは本牧海岸に場所を移し、1938(昭和13)年まで続けられた。因みに、水泳訓練の際のいでたちは「黒褌」だったとある。

時代を感じさせる行事の一つに、1916(大正5)年から全校で行われた兎狩りがある。「兎狩り」という名称は牧歌的な印象を与えるが、この行事が始まったいきさつについては「旅順で軍隊のときやったのをまねて」(50周年誌 座談会 旧職員 菊川清蔵)とあり、軍隊での習慣が持ち込まれたもののようである。初回は都筑郡新治村・都岡村付近(現旭区都岡町付近)、翌年は橘樹郡保土ヶ谷町在(現保土ヶ谷区、旭区方面)に出かけて行われたという記録がある。

収穫の方は「一頭とったが足りないので豚肉をまぜた]「大正7・8年頃はこの裏の山で数頭とれました」「とれたのはその時だけらしい」と、こころもとないが、それでも狩りが終わると大鍋で煮て舌鼓を打ったとなれば、生徒にとっては楽しい行事であったろうと思われる。しかし、徐々に周辺の環境が開け、近くに兎狩りに適した場所が無くなっていったこともあってか、数年で行われなくなったようである。

また、毎年12月になると「発火演習」が行われた。開校間もないころから備えつけられていた銃(18年式・後に22年式歩兵銃も追加されたか)を使っての実弾を使わない空砲射撃である。

「勿論実弾ではないが音のする弾が二、三年生は二〇発、一年は銃が半数しかないため午前午後と交代で担うので一〇発、東西両軍に分れ早朝出発、斥候戦から散兵戦、最後の突撃を勇ましいラッパの響に勇躍し敵陣に突込むなど当時の生徒たちにはずいぶん大きな張合いをもたせられた一大年中行事であった。特にサーベルには大きな魅力がもたれ小中隊長になりたがったものである」(50周年記念誌「回想記」電7卒 神代量平)と、これも若い生徒たちには魅力的なものだったようだ。しかし、やがて現役将校による「軍事教練」につながっていくこととなる。

運動会は1914(大正3)年に第1回が行われて以来毎年行われたが、内容は工業学校らしい特色のあるものであったらしい。競技科目の中に普段の学習を取り入れた「実習競技」があり、紅白に分かれた各科で1軒ずつの家を建てる競争があった。機械科はポンプ、家具科は家具、電気科は配線、図案科は看板、建築科は家を担当し全体の出来栄えを競うというものである。この競技はだんだん本格化し、中には完成した作品を買っていく観客もいたらしい。1920(大正9)年10月10日の第7回運動会は、井上県知事等を来賓に迎え、観衆3000人の大盛況であったとの記録がある。

毎年、春には全校マラソンが行われた。コースは1・2年が菊名池、3年以上が川向橋までの往復である。また1月には横浜市内をコースとして駅伝も行われた。この駅伝競技は、運動会と同様に科対抗であったから、自転車まで動員して科毎の応援が盛んに行われたようだ。対外的には、横浜貿易新聞社(現神奈川新聞社)主催で行われた県下中等学校の小田原横浜公園間のマラソン大会に、機械科の上野於菟が1929(昭和4)年、30(昭和5)年と連続して優勝し、マラソン神工の名が県下に轟いた。

文化的行事としては創立当初から学芸会・講演会が行われた。講師には内ヶ崎作三郎(当時早稲田大学教授、宗教家、思想家、政治学者で後に衆院議員)、増田義一(実業の日本社の創設者、衆院議員)、賀川豊彦(キリスト教社会運動家、茅ヶ崎平和学園創始者)、西田天香(宗教家、一燈園の創始者)、北玲吉(思想家、評論家、教育者)等の名前が記録されている。世は「大正デモクラシー」、「工業」という専門分野に留まらず、広く天下国家を考える上で生徒を啓蒙する内容が用意されたものと思われる。合田四郎海軍少佐による日本海海戦実況講演(大正4年5月27日)、五弓安二郎陸軍教授講演(大正6年9月25日)等の記録も見られる。こうした講演は昭和に入ると途絶えた。