神工時報(復刻版)4

神工時報 第32号 昭和30年12月24日

出張 歌えぬ校歌

諸君はまだ忘れはしないだろう体育祭閉会式のあの醜態を。何のことだって、これは困ったものだ。歌詞を知らないでまごまごしたのは、あれは君だな。なあんだあのことかって。なあんだなどと簡単に済ませてしまうべきことではないぞ。その通り校歌のことだ。自分の学校の校歌を知らないで、平気でいるなんていうのはどうも困りもんだ。

学校に校歌がなかったらどんなに寂しいものだろうか。またどんなにか恥ずかしいことでもあろうか。いら、校歌があってそれを知らないことの方がはるかに寂しいことだ。指揮台に立った先生の顔色が、一瞬青く変わったような気がしたのは、私一人ではあるまい。

「名門神奈川工業」実に良い言葉である。肩身がぐんと広くなるようだ。しかるに「校歌を知らない名門の生徒」なんたることだろうか。体育祭当日の閉会式には1年生だけが並んでいたのではあるまい。3年生も、2年生も皆いたはずである。

3年生とは学校に何年いた者のことをいうのか。2年生もしかりだ。3年も2年も同じ学校に通っているのに校歌を歌えないとは、なさけないことである。一体何が原因しているのだろうか。一つには、学校に音楽の時間がないことがあげられるだろう。しかし、考えてみるとそれだけではないような気がする。

なぜなら、我々は校歌は満足に歌えなかったが、あの競技中に大声をだしてどなった応援歌は立派にできたではないか。あの応援歌は音楽の時間に習ったのか。さらにまた、生徒会では応援歌の練習はしたことがあるが、校歌の練習はしたことがあるか。こうした非難は何も生徒や生徒会だけに向けられるものではあるまい。

放っておいても歌えるようになるだろうと思っているような学校側の態度にも責任がある。あの指揮台に立った先生は、生徒が全部知っていると思っているつもりでタクトを振ったに違いないと思うのである。

色々考えてくると、我々が余りにも学校を愛する気持ちに欠けているということが言えるのではないか。愛していないなんてとんでもない。野球部事件にしろ、対外試合では一生懸命頑張ってくるではないか。これが学校を愛する気持ちでなくて何だ、と反発を食うかもしれない。しかし、それだけが学校を愛する気持ちのすべてになるのではあるまい。もっと身近に考えて、そういえるものがある。例えば校内美化にしてもそうだ。

最近、朝礼のある度に注意を受ける。あの注意を身にしみて受け取った人は一体どのくらいあるか疑問である。我々のこうした気持ちが校歌を知ろうとさせず、校内を平気で汚させる原因になっているのではあるまいか。

今年もある一週間足らずで終わりとなる。一つ気持ちを入れ替えて、せめて校歌ぐらいは、歌えるようになろうではないか。

神工会株上がる

来年度県下公立高校入学志望者数が、県教育長から発表された。それによると本校の入学希望者は、定員250名のところ689名で約2.9倍の多数を数えており、本音により上回っている。工業高校系の内訳をみると次の通り。

神奈川工業  689(250) (カッコ内定員数)
商工高校   329(300)
横須賀工業  379(200)
川崎工業   550(250)
平塚高    277(100)
城東高    151( 40)

文化祭・体育祭 成功裏に終わる

我々待望の文化祭、体育祭が10月14日、15日、11月13日にそれぞれ催され大盛況を示した。今回の両祭典を振り返って過去数年と比べると、第一に昼夜合同で行われたことであろう。またこの盛況が収められたのもそこに起因があったともいえよう。生徒会会長に、この両祭典についての成果、感想などをのべてもらった。

2大祭典を顧みて 生徒会会長 高橋宏美

生徒会における2大行事である文化祭と体育祭が、滞りなく公表裡に終了したことに対して心から喜びを感じた次第であります。

私が生徒会会長に就任したとき、まず考えたことは、いかにしたら文化祭、体育会を昨年に劣らぬものに、また有意義なものと成しうるかということでありましたが、とにかく懸案であった行事がおえたので、ここにその感想を記してみたいと思います。

まず文化祭については全体として好成績を収めることができたと思います。

各クラブの発展ぶり、それに劣らぬ各科の内容の充実してきたこと、正に驚嘆に値するものでありました。おそらく参観に来て下さった多くの父兄、或いは他校の方々もそう感じられたことと思います。

こう書いてくると余りに見方が甘すぎるから若干裏をのぞいて見るならば、準備期間が短かったこと、予算が不足して各科、各部の需要に応じきれなかったことなど、我々執行にあたった側の失策も数々あったようである。また、2、3のクラブが参加しなかったことも残念なことの一つでありました。

体育祭についてはただ成功だったとしかいえません。総合競技はもちろん、応援、仮想においては諸君の創意に満ちた工夫が見られ、体育祭全体の雰囲気を盛り上げるのに役立っていたようでした。

今年の行事は双方とも昼夜合同によって行われ、これが成功したので、昼夜の区別なく神工会生徒職員が一丸となってことにあたり、その持つ実力を若人の熱意によって充分発揮しえた点において十分目的を発揮したものと思います。

第36号 昭和31年7月16日

主張 生徒総会に思う

去る6月13日の生徒総会で、本年度生徒会予算案は「全面修正」に決定した。

その修正も行われ、承認された現在、もう問題を持ち出す必要はなかろうと言われるかもしれないが、やはり取り上げるべき問題なのだ。

では「全面修正」と決定した理由はどこにあるのか。

責任の所在をぼかしたり、責任転嫁を奨励するわけではないが、「全責任はここにある」と言い切るわけにはいかない。責任は予算編成委員をはじめとする役員・生徒議員側と、一般会員側の両方にある。「全面修正」と決定した表面上の理由は予算案が生徒総会に提出される前の審議のミスである。編成委員会で組んだ予算案は生徒議会へ提出され、そこで部分的に修正されてから総会に提出されたのである。同委員会で組んでからは、一度もクラブへ直接連絡はなかった。総会での質疑や意見を聞いても、「全面修正」とはいえ、主としてクラブ予算に不満があったのだ。

クラブの代表者会議を何度も開いて、各クラブの言い分を聞いたから良い予算が出来るとは限らないが、クラブ予算案の決定過程において、委員会編成後に、各クラブには通知がなかったことは明らかに手落ちである。委員会は生徒議会を通じて各ホームに発表した予算かもしれないが、それでは不徹底なのだ。今後はホーム・ルームの時間が自由に生徒会活動に使えなくなることを考えれば、生徒議会も一考を要する。加えて、予算編成委員長の態度を見ると、予算委員は確たる信念を持って予算を編成したかどうか疑わしい。ワンマンになっては困るが、自分達の出したものが、承認されないときは総辞職する位の信念と責任を持って予算編成に当ることが好ましい。

しかし、一般委員の方にも責任はある。総会の討議状態を見ると編成過程に関する質問を除けば、各部の予算が多いとか、少ないとかという意見が大部分であった。

もちろん、予算案に不備はあるが、細かい点は諸君の選出した生徒議員や役員によって、相当に審議されてきたのである。予算編成委員も人間である以上完全な予算を作ることは不可能である。それに近いものを作るために、可成の努力はしたのである。

「全面修正」案が可決に至った時、ハッキリした理由なしに、ヤジにつられ、付和雷同的に全面修正案に賛成してはいまいか。もし、ハッキリした理由があって賛成したなら、7月4日に開かれた臨時生徒総会において、たいした修正もされていない修正予算案に何故意義がなかったのか。

確かに今度は生徒総会に提出する前に手落ちはなかったようだが、6月13日の総会の状態を見ると予算案自身に多くの不備があったようだ。にもかかわらず、少しの修正によって承認されたのはどういうわけか判断できない。

これで31年度の生徒会予算は一応の結果をみたものの、一度「全面修正」となった原因は、予算編成委員の不手際とともに、付和雷同的にことを判断したとしか思われぬ一般会員諸君も責められるべきではないだろうか。

(昭和31年7月16日発行)

波乱を呼んだ予算案

臨時生徒総会にて決定

本年度予算決定に対する生徒会総会は2回開かれたが、会場での会員の態度たるや見られたものではなかった。1回目においては一部生徒のヤジのため全体が動揺され、わけもわからず反対なし、2回目には早く帰りたい一心から何の反対もでず、わずか数分間で決定された。ほっと一息ついたのは予算編成委員会だけではなかっただろうか。可決された予算案は前回否決されたものと大差なく、修正された所に努力がみられないが、これが簡単に可決されるようでは神工も「ヤキ」が回ったようだ。

昭和31年度決定予算

収入予定額986,229円

支出総額 986,229円(総務費 292,229円、各部合計 694,000円)

待ちに待たれた生徒予算が、去る7月3日開かれた臨時生徒総会において承認され、4月28日第一回定例生徒議会にて予算編成委員選出後実に2か月ぶりで決定された。予算がこのように遅れたことは例年にないことだろう。だが、決定までの経過をたどってその原因を突き止めてみよう。

ご承知のごとく神工時報第35号のトップに掲載された本年度各部の予算請求額が約120万円。それに対して予算額は70万円と、50万円程の開きがあったが、予算委員がいかに配分し、予算範囲でとどめるか興味あと期待がかけられた。5月末には早くも臨時生徒議会にて発表、10日を経た6月10日には生徒議員間で約3時間、午後5時過ぎまで論争のあげく修正。

当日修正の内容は書記局、文化部予算が減らされ、野球部等運動部6クラブに対して各々千円以上の繰り上げがあった。続く13日には、定例生徒総会が開かれ、予算案が上程されたが、水泳、剣道、バトミントン、ラグビー、新聞などの各部より不満が述べられ、また予算が偏っているとのことから、野球部、美術部間で論争がなされ、一次緊迫した空気も見られた。

結局予算案再審議が出され採決の結果、動議に賛成280、反対258、保留96票を以って、再審議に付されるという重大な事態に陥った。執行委員が協議の結果、時間の超過を理由に後日再会の旨話があり、大混乱を招いた総会の幕を閉じたのであった。

7月3日には午後3時より臨時生徒総会が開催されたが、放課後のことで生徒側の関心が全然なく、わずか15分後簡単に修正案を承認、ここに曲折を経た予算議も一段落ついたのであった。

神工生今昔 岸田 林太郎

先日、成分部の編集子が、神工生の今昔について書いてくれと言ってきた。私は本校に来てまだ15、6年きり経ておらず、本校40年の歴史から見ると、約その3分の1の期間を奉職したに過ぎないから、ほんとの意味で神工生の今昔を語る資格があるかどうか疑問だが、折角の御依頼だから。私の見た神工生の今昔という意味で、気のついたことをお話してみよう。

私の専攻が建築だから特にそう感ずるのかもしれないが、人の住居は、そこに住む人の心を大きく支配するように思う。神工生の今昔も、戦前の校舎、戦前の校舎、戦後御校舎、そして今建ちつつある校舎を頭に想いうかべると、大体そこに現わされているような気がする。

戦前の校舎は、木造であったけれども、いかにもガッシリとした建物で、伝統的な由緒ある学校らしい落ち着きをもっていた。正面から玄関までの植え込み、本館、講堂、そして整然と並んだ各科の工場、校庭の周囲に茂る桜を老樹、それらが醸し出す雰囲気は当時の神工生を象徴するように思える。

戦後、私達が由緒深い校舎を失ってからはあちこちの建物を借りて、やっとの思いで授業を続けたのであるが、私が上級生を引き具して身を寄せた鶴見分校の如きは、今考えると、全く悲惨そのものであった。雪の降る日建具のない教室へは、膚を刺すような風と一緒に雪が舞い込んできた。当時の生徒諸君を瞼に浮かべると、その破れはてた校舎が二重写しになって思いだされるのである。

現在、本校は素晴らしい近代建築で着々復興しつつある。しかし、今のところ、出来たのは各専門教科の実験室実習室だけであって、戦後急造したバラックと併用して漸く糊塗している状態で、近代的な形で立ち直りつつあるが、未だ戦後の荒廃から抜けきっておらず、雑然として落ち着きのないかんじである。神工生の現状も、この校舎と一脈通ずるものがあるのではなかろうか。

このようにして、戦前、戦後、現在と3つの時期に画して神工生を見ると、一番気の毒なのは戦後の諸君である。学校があちこち間借りをして歩いていた当時の諸君である。その頃の生徒がよかったのか悪かったのと批評することは、私には到底できない。それに総ての環境の然らしめたところであるからである。その頃卒業した諸君は卒業後クラス会を開くことも少ないようであるが、無理もないことである。

これに比べると、戦前の生徒も恵まれていたし、現在の生徒も恵まれていると思う。神工生の今昔を語ろうとするとき、最先に私の心を痛ましめるのは、一番恵まれなかった時代の諸君のことである。

戦前の神工生というと、私の頭にすぐ、質実剛健という言葉が浮かびあがってくる。軍国主義華やかな時代だったから、質実剛健という言葉はどこの学校でも盛んに唱えられていたが、そうした中にあっても本校生は特に、そういった気風に富んでいたようである。

今でも、当時の卒業生は、潤達でザックバランな磊楽な人が多い。然しその半面欠点がないでもない。それは質実剛健と表裏のことかもしれないが、自我が強いということである。猪武者のように、自ら省みて直くんば千万人といえども吾往かんという元気はいいのだが、自信が強すぎて人の言うことが耳に入らず、謙虚に人の言葉に耳を傾ける余裕のないには困りものである。

当時、建築科の学級主任をしていた私もヤンチャ共のいたずらに随分てこずったものである。然し、当時私をてこずらしたて手合いが、案外卒業後立派な人になっているし、学校のことを忘れずにいてくれることを思うと、長所短所を超越して、生活力の旺盛であるという意味でいいことかもしれない。

いたずらもよくしたが、勉強もよくしたようだ。いつだったか横華国大の前身である横浜高校での建築科へ一度に6人入学して高工の先生を驚かせたクラスもあった位である。それらの生徒は学校ではいたずらをしていたが。家では猛烈に勉強していたらしい。

これに比べると、今の生徒は大分大人になったような気がする。もっとも昔の生徒は12歳ないし17歳であり、今の生徒は15歳ないし18歳だから、実際年齢的に大人であるわけだが、それだけでなく、考えが大人になっている。昔のようないたずら坊主が少なくなって、物事を思慮深く分別するようになっている。大変いいことだが、その反面、考えが余りにも現実的で夢がなさすぎるのではなかろうか。余り利口すぎはしないだろうか。せせこましくはないだろうか。

先生方の講義も、昔よりずっと程度が高くなっているようだし、設備も昔以上になりつつあり、生徒諸君も割合良く勉強しているようだから、私はいささかも学力低下を憂えないがそれだけに、近代的な立派な校舎の中で窒息しないようにしてもらいたいと思うのである。

普通高校の生徒は大学進学のために、やたら青春を格子なき牢獄に呻吟(しんぎん)しているが、本校の生徒諸君は、学校本来の線に沿って、若人らしく溌溂とやってもらいたいものである。神工生の今昔を語ったことになるかどうかわからないが、これで責をふさぐ。

(建築科教師)

(昭和31年7月16日)

第37号 昭和31年11月22日

評判良かった神工祭

惜しまれる順路の不明瞭

生徒会本年度最後の行事である神工祭は、第一部の科展、クラブ展は11月2,3日の両日にわたって本校新館で、また第二部芸能祭は8日に反町福祉会館でとそれぞれ行われた。

今年度の神工祭は、本校創立45周年の記念事業として行われたもので、それだけに生徒の意気大いに揚がり、第一部、第二部共に昨年度より数倍の充実ぶりを示し、また観客数も非常に多かった。

第一部の科展、クラブ展は1日目が平日のこととて、午前中の観客者の出足はあまり芳しくなく、子供を連れた父兄がぼつぼつ見に来る程度であったが、同日午後あたりから、学校の終わった他校生徒などがどっと増えてきた。また、2日目は文化の日とあって昨日に増しての盛況ぶりで、各科、各部の説明に当った者は大汗をかいていた。一方、お客さん方も、それぞれ完備された学校施設を使っての科展や趣向を凝らしたクラブ展の各会場を興味深そうに質問してはうなづいていた。

生徒会側では、このような盛況に大喜びの呈ではあったが、一方、会場の順路がはっきりしないと文句を言われたり、停電が起きたりで、まごついていた。

人気のあった会場は、生徒作品の即売を行った木材科で、一日目の夕刻にはほとんど売り切れ、また煙や電灯を使って住居の研究を公開した建築科には、多くの父兄のお客が関心顔で説明を聞いていた。

今年は新しい試みとして、個人の蒐集になる、電球、切手等の展覧も行ったが、会場連絡の悪が影響して出品者の熱意の割には目に立たず、残念なことであった。

第二部の芸能祭は従来のように、映研、演劇、音楽の3部合同発表のみにとどめず、広く一般の参加を呼び掛けた結果、女子有志による「夕鶴」の公演、木材一年の秀明楽団演奏やさらに藤川、神代等先生方の出演もあり、多彩な内容であった。

毎年のことながら見る態度はあまりよろしくなかったが、一部扇動に動かされることが少なかったので、昨年度よりは良かったようである。

(昭和31年11月22日)

第38号 昭和32年2月16日

次期生徒会役員決定する

大内君(会長)、寒川・齊木君(副会長)

昨年度よりやや早い12月22日、昭和32年度生徒会正副会長選挙が行われ、副会長には齊木君、寒川君が選出された。しかし、会長は不信任であったため、年を越えた1月25日に再び行われ、大内君が有効投票の過半数を獲得して会長に就任することになった。選挙の経過を振り返りつつ、来年度会長大内君の抱負および、今年度会長から大内君に対して希望することを聞いてみることにしよう。

昨年選挙管理委員会より告示されてから締切当日までに同委員会に届け出た候補者は定員の会長1名、副会長2名であったため信任投票の形式を取るに至った。

しかし、昨年度の投票方法に対して大分強い批判があったためか選挙管理委員会は大分苦心したと見え投票も順調に行き、無効投票も少なかった。

さて、開票の結果は副会長候補の齊木浩一君(機2の2)428票、寒川幸一君(通2)389票と共に有効投票数の過半数を獲得して信任されたが、会長候補の伊藤銀策君(機2の1)は不信任された。開けて今年1月さっそく持ち越された会長選挙を25日前回と同じく生徒会事務室を投票場に当てて行われた。この時も大内隆君(機2の2)1名であったため信任投票が行われ、結果、406票を獲得して来年度生徒会会長に就任することになった。尚同君は現在生徒会副会長を務め、終始その運営に努力してきたが今後、その活躍に大いなる期待がかけられている

来年度会長の大内君の話

今年度生徒会幹部によって発展した生徒会を一層高い水準に持ってゆきたいと思う。

それに今尚残っている各科の対抗意識をなくすとともに親善を図るため、何か新しい行事を行いたいと思う。また、クラブ活動の状況を明確にさせ我が校のクラブの実態を全会員にわかるようにしたい。

生徒会自信も、井の中の蛙にならないよう、校外に出て研究してみたい。

現生徒会会長木村君の話

来年度の生徒会への希望と聞かれても即座にこれと答える事は出来ないが、日頃会長の立場から見て感じている事はあまりにも行事に追われている事だ。勿論軽くあしらうことは良くないが、もう少し手際よく要領よく行動したい。

もう一つはクラブ活動にもっと重点を置きたい。不十分な条件におかれている現在、十分な活動のできないのはわかるが、何とか工夫して特に部室の問題を解消したい。

第三に執行部と会員との間に何となく隔たりがあり執行部の存在が浮いているように感じている。

以上の様なことをこれからの問題として取り扱ってほしい。

第47号 昭和34年4月1日

身近に迫る母校創立50周年 第47号

式典は新築の食堂で

思いだせば明治44年二ッ谷町の一角、あたりは田畑一面の中に呱々の声をあげた母校も年を重ねること48年となり明後昭和36年には創立50周年を迎えんとしている。

この間送り出した卒業生は約1万人になんなんとしており、あるいは実業界にあるいは政界、官界にそれぞれ活躍しており母校の名声も頓に挙がりつつある。この懐かしの母校もかつて大正12年の関東大震災には校舎等の倒壊の憂き目に遭い、その後改装なって名物の桜並木と共に校内は年と共に充実され、設備においては我が国有数の工業学校と発展を遂げてきたのではあるが、不幸昭和20年には戦火によって営々と築き上げた母校が灰塵と帰したことは同窓父兄にも記憶に新たなことである。

かつては希望に燃えて勉学にいそしんだあの教室も、実習工場も、そしてまた懐かしい二渓寮もただ一握りの灰と化して、そこに臨むの者をして茫然たらしめてから既に10有3年。この間、4代に亘る校長の下、関係者一丸となって母校復興について努力を続けてきたのである。

特に県当局の格別な理解ある措置によって既に3億数千万円の予算が母校復興に注がれ、往年の木造校舎とは打って変わった鉄筋コンクリート校舎建設の最終段階がツチ音高らかに進められている。やがては東洋一を誇る校舎がどんな地震にも火災にもびくともしない姿で、われわれの前に出現するであろう。

後に続く若き技術者のために先輩であるわれわれは心から母校復興を喜びたい。そして影になり日向になり日夜母校復興に努力された学校はじめ県当局、あるいは今日の気運を盛り上げられた会員諸兄、PTA各位に心からの謝意と敬意を表するものである。

別掲のように明後年は創立50周年を迎えるので、この記念事業としては各種多彩な計画が考えられているが、既に一昨年及び昨年と2年以前の同窓会総会で次のように可決承認されており、いよいよ実現に向かって活動を起こす時となった。

そこで去る3月12日母校に理事が参集して具体的な活動方法について議論した結果、「創立50周年記念同窓会募金活動」を広く同窓会会員全員を対象として繰り広げ、学校の記念事業の一環とした活動に合流したいと衆議一決した時代である。

その席上で今後の活動の中軸となって推進するため実行委員会が編成され、爾来実行委員の会合すること数回にして、漸く別掲の通り、「創立50周年記念事業同窓会募金運動実行計画」を制定し、今後の具体的活動に対する基本線を確立した訳である。

時節柄同窓諸兄にはご多忙中の事とは推察しますが、挙ってこの計画に参画されんことを切に祈ってやまない次第である。

終わりに、この意義ある母校の復興充実を見ることなく物故された2代校長秋山岩吉先生はじめ幾多の先生方ならびに同窓諸兄に謹んで心から哀悼の意を表す次第である。

(昭和34年4月1日発行)