創立50周年記念 神工会報 復刻版

創立50周年記念の神工会報の復刻版です。

50周年祝賀に寄せて 学校長 副島一之

神工50年の歴史とともに歴史にも耐えて育った大くすのきが玄関前に移植された。日本の工業の二葉の時代から汗と油にまみれて、じっくりと「日本の」工業を築き上げ、一緒に成長して来た先輩の努力を汝似するようである。

私が21才で、見知らぬ土地、神奈川の本校電気科に教師として来たのは大正の大震災の年。大先輩の高柳健次邱さんかテレビの研究で浜松に本校から移られる後釜として。電球のような真空管、モーターの綿巻線で作ったコイル、大型工場の旋盤で作ったコンデンサー等を譲られた。ラジオ攻送も始まらない時、11回卒業の人達が5年生で、おやじのような顔にみえた。それからもう37年、その年1年に入った可愛いい少年達も今は一流会社の大幹部。それからでさえ38年。人格高い、誠実な秋山校長の33年間。

戦争後のみじめな時代に、今日の神工の偉容を構想し、よく人々の同意を克ち得た山賀校長の17年間、復興に当っては、一団となって助いた卒業生の人々と父母の方々に。

創立50周年と復興の完成とをここに祝い、校内の活動の有様を県民の皆さんに見ていただく、こんなうれしい事はない。

本校の歴史の上に刻まれる、いろいろな時代の切れ目切れ目のまた大きな切れ目が、ここにできたのである。

本当にみっちり技術教育に打ち込む時代である。複雑な世の中によく人と人との調和を針って行く良識と、合理的な、技術の高い知性とを求めて。

50周年を祝って 生徒会 会長 山崎 武一

若葉薫るこの良き日に、木校創立50周年記念をむかえ、本校に学ぶ私達生徒一同喜びに感ずると同時に、光栄に思う次第であります。

本校創立当時は、我か国近代工業の創生期ともいうべき時代であり全国でも数少ない工業校の一つとして、輝かしい歴史の第一歩を踏みだしたのでありました。

それから半世紀、数多くの艱難辛苦と意気と努力と団結の力でみごとに処理しこの様に立派な学校を作り上げて下さった先生方を始め、父兄の方々、数多くの先輩の方々には感謝せずにはいられません。昭和20年の戦災、関東地方一帯を襲った関東大震災など私達には、想像も出来ない位大きな嵐の襲来だったろうと思います。そんな時にも、希望と勉学を忘れず努力された先輩の方々の事を思うと、今の私達の余りにも恵まれた学枚生活がもったいない位有難く感じられただ幸福感だけにひたっていいのかと思わずには居られません。

私達は、これまでに築き上げた50年の立派な歴史と伝統を識虚な態度であおぐと共に益々これを進歩さ発展させてゆかなければならないと信ずるのです。私達は来たるべき時代が驚くべき発展の予想される科学の時代だということを知っています。その時代に必要なもの、それは私達若人なのです。そして私達の様な技術者なのです。そう考えると工業学校に学ぶ私達の責務の重大なる事を感じる同時に、未来に胸おどる感も致します。

私達は、今日の喜びを忘れず、これからの社会へ進出し、先輩の後を立派に受けつぎもっともっと発展させてゆかなければならないと思います。最後に学校の永遠なる発展を祈りつつ、お祝の言葉にかえたいと思います。

創立50周年 盛大に記念祭挙行

明治44年に創立されて以来、半世紀の間着実な歩みを続けてきた本校の記念式典が盛大に挙行された。この記念式典は3年に一度の文化祭、去年中止になった芸能祭、平沼高校とのテニスの招待試合などを含めて行なわれた。この機にあたっていくらかの記念事業も計画実行された。緑化運動、体育館完成、グランド整備がそれである。関係者はこの50周年を機械に生徒の一眉の奮起をのぞんでいる。

待望の体育館完成 体育館使用はいかに
本校再建計画の一部である講堂兼体育館が完成した。昨年2月に予算その他具体案が県議会で承認され、7月には予備工事である小講堂移転が始められた。8月中には着工の予定であったが、県の教育委員会と業者間の入札交渉がまとまらず9月をすぎ10月5日六角橋の渡辺工務店に落札した。

県議会で承認された具体案によると総工費は、1800万円、構造は鉄骨木造モルタル様式の平屋建で一部二階が入り総面積は約1120平方m(縦39.6m)内部講堂の広さは700平方m(31×21m)で館内には、休育科職員室、ステージ、ピアノ室、器具室、男女更衣室各1、控室などがあり、内部設備では、バスケットコートなら2面とれる。その他パドミントン、卓球、機械体操設備等が整っている。なお50周年の記念事業の一環として内部設備(椅子・ステージ・機械体操設備)や小講堂の移転工事等を行なっている。又完成が始めの予定よりも2ケ月近くも遅れたのは県から出る金額は一定なのにもかかわらず物価の値上がりのため初めの規模は無理が生じたためであるが学校側の努力で規模その他には全然変更なく完成することかできた。又心配されていた卒業式も未完成ではあったが体育館でやることができた。

体育館の今後の課題としでは、体育館の使用を希望しているクラブがどのように使用時間を調整し合っていくかであろう。

緑化活動進む

50周年記念事業の一環として行われている緑化活動は毎年卒業生が残していく寄付金をもとにして現在着々と進行中である。すでに本校前の運動場に一列に並んでいるイプキ(伊吹)、中庭の北館に沿って伸び盛りのジブラ、門の横の楠、本館北側のヒマラヤシーダなどが植えられているが、今年は約25万円の予算で体育館の周囲などを緑化する。完成するのは10年後でその際には学校の塀に沿ってアカシヤ、ケヤキなどが植えられ美しい緑の学校になる。

校庭整備は9月に完成

かねてより計画されていた校庭整備は県の失業対策事業として4月1日に着工され9月いっぱいをもって完成の予定であるが、予算の関係で土を入れかえて徹底的に整備することは出来ないのでとりあえず小石などを取り除き、その上にやわらかい土を数センチにわたってまく集水盲排水溝吊って則が降っても次がたまらないようにするそうである。

発足した急造予算 総会5分前に議会を通過

36年度の予算案審議を中心議題とする定期生徒総会は50周年記念文化祭の準備の関係もあり、例年より早めの4月26日午後1時より中庭で開催された。この総会では例年とは異なって、決算報告に対しての質疑が集中し、生徒会においての食費が認められなくなった他、これに2時間を費やした。これに対し予算審議は最初か欠陥が多く、十分審議されぬうち予算審議打ち切り動議が可決されたが、採決の不備から、再び採決を行ないこれが急転否決されこの後この予算案採決に入り、賛成多数で可決された。また50周年に伴う特別出費に対する臨時生と会費徴収案はあっさり否決された。

50周年を控えて注目されていた36年度予算は、2月に委員会を結成して以来、3ケ月振りに成立した。今回は部室建設基金〔予算3万円〕が特別に計上され、その他、50周年記念祭に関する総務部予算が増加するに伴い大幅削減されることが予想されていたが昨年度からの残高繰越が8万円あることがわかり、各部への予算は例年やや弱で総会に提出された。この最終予算案は、総会20時間前に予算委で草案されたもので、1時間前に臨時緊急生徒会を開いて開会10分前に通過、ただちに総会へ提出された。

総会は予定時間より10分遅れて開かれ、中心異議は決算報告の生徒会夕食費に集中、全校生徒の非難の声が高まり、今年度はこれを認めないという決議案が可決された。折からの強風がホコリを伴って生徒に吹きつける中で予算審議に入ったが、たいした質問もなく、15分後、この急造予算に対して繰り返し動議が出て、可決したかのように見えたが、採決の不手際と各クラブ部長が再採決を申し出てこれを認め、異例の再採決の後、賛成681、反対93、棄権3で可決成立した

なお、50周年記念事業における特別出費に対する特別性と会費は反対クラス多数で否決された。

金木編成委員長談

「我々は2月に結成二月に結成されたが、活動は事実上、4月から始めたので実質には1ケ月弱しか審議出来なかった。今年度は50周年記念祭、専門部予算、部室基金、合宿費などによる生徒会総務予算増のため、各クラプ一般予算は昨年度より若干減少したことは了承願いたい」

主張 甘い生徒会の考え 36年度新予算総会から
昭和36年度生徒会新予算の総会は醜態のうちに幕を閉じた。今年度の予算総額は前年度を8万余円上まわる109万8230円(人マル食う奴踏たオせ)である。

新予算は昨年度に比べかなり大きな変化が見られる。一つは総務部予算が昨年度に比一挙に2倍に膨れ上った事、さらにもう一つは各クラブ予算が、妥協額の2割引になっている事である。

総務部予算の増大した大きな要因としては今回の神工祭、それに専門部(ブラバン、放送、応援団)がかなりの額を占めている。しかしもう一つ注目すべき点は部室建設基金の予算である。この問題は生徒会、学校側とも前からの懸案であった。ことに学校側では、現在使用している校内の部屋(主として文化部)は各料の物置として作ったものである為、生徒会に対してなるべく早く立退く様、希望していた。生徒会側としても昨年来それを学校側から強く要望されている以上、どうしても実施せざるを得なかった訳である。生徒会では勿論現在そんな予算はない。そこでわずかずつ積立て、それを足しに建設してくれる様学校側に要望しようというハラだったらしい。

しかし現在ですら本校生徒会予算はない。それに加えて今回の記念祭予算、などを考えるといかに進退極まったからとは言え、どうも頂けない予算案だった様である。

総会、これは毎年だらしなく終っている折から今年こそは、と思ったが、意の外、さらにひどいものであった。まずこの生徒総会に臨む生徒会の態度がなっていなかった。最初の予算原案が生徒議会に出されたのが3日前、所がこの予算原案は収入見積として848名の内、48名分が見込まれてなかった。生徒会としては毎年未納分がかなり出る為、それを恐れての考えらしかったが、しかし予算の組方としではこれではまるで出たら目に等しい。その為、その組直し案が出きたのが当日の昼、臨時生徒議会にかけられ通過した、だがここで面白い事が起った。会則20条によると議会開催の公示は3日前に行なわなければ無効となる。しかし議会は別に何のトラブルもなく多数決によって決定されてしまった。これは議会、生徒会とも明らかに違反行為をしており、議会、総会の三権分立制を崩すものである。

また、総会に臨んでも生徒会は質問者の質問にまるであいまいで、さらにひどくなると議長が質問をさえぎったり、打ち切り、あとまわしと、まるで議事を混乱させてしまった。議会、生徒会の不真面目さはもとより会場に臨んだ生徒諸君も無益なヒロイズムにかられるような発言をする者もある。余りにも情けない姿ではないか。又いよいよ流会動議が出された時、会長が同情を訴えるような又厳正な議会制度を崩すような発言をした事は全く残念で無能であった。今後の反省及び勉強を望む。

5月の祭典(文化祭、芸能祭)50周年を祝す

神工会の実力を県民に示す創立50周年記念祭が3日間にわたって挙行された。文化祭、芸能祭を含め、体育館完成祝賀を兼ねて行なわれた記念祭の中心は、科展、クラブ展で、先生、生徒が協力し一般観覧者も目を見はるほどの充実ぶりであった。これを機会に先生、生徒間の親密度が増し、他校生も本校を再詔識してくれれば、その主旨は全とうされよう。

<機械科>

実習では万の製作を行ったが、鋳造、鍛造、旋盤等を物珍らしげに覗いている人が目についた。

又実験では原動機実験、材料実験、精密測定実験、材料実験などを行なった。初めて見る人はずらりと並んだ機械に「まるで工場のよう」と驚き、又他校生徒は大型の機会設備に驚嘆していた。しかし人手不足のためか殆んどの機会を動かさずに唯並べておいたのは惜しい。

<建築科>

製図作品の展示、日常生活に身近な日照、採光、換気、風洞などについての実験、家族4人を対照にした「住宅」の考察についての展示、「我々の計画した横浜駅」の展示等を行なった。製図作品はすばらしく、「住宅の考察について」にはなる程と感心させられた。又「我々の計画した横浜駅」は着眼が良くおもしろかった。

<電気科>

まず一般の人の人気を集めたのは「家庭用電気器具の展示と実験」であろう。身近なせいもあって皆割合と興味を持って見ていたようだ。その他自動制御機器の展示を行なったが、一設の人には理解がしにくく、説明も専門的でありすぎたようだ。又家庭用電気の相談室」は好評を博し、「特高圧実験」では空中に設けた雲から地上の市飛雷針に向って放電し家が炎上する実験や、絶縁破壊の実験を行なったが、かなりの人を集めていた。

<電気通信科>

HiFi、自動制御、ITV、記録計その他種々の事件、展示を行ったが、人気の的は何といっても工業用テレビ、部室に入った途端、正面のテレビに自分の姿が写るのは何となくテレクサイものだが、皆テレビ初出演に手や足を動かして満足げな顔をしていた。

<工芸科>

種々の作品展示を行ったが某電気会社の人は「少し手を加えれば商品化出来るものもあった」といっており、一般には展示がすばらしくうまくステレオ電蓄で音楽を流すなど全体にスッキリしているとなかなかの好評、ただ展示会場がバラバラにわかれていたのは残念だった。又製作品の展示即売は非常な好評で殆んど売れ切れてしまった。

<工芸図案科>

中年のある人に聞いてみると「私達にはこういう絵はよく解らないがとにかく美しいと思った。」と言っていた。造形作品、グラフィックデザインなど他の部屋とまるで違った雰囲気には随分我々を楽しませてくれる物があった。

<電子工業科>

電送写真、音響実験、ラジオアイソトープ実験等種々の実験展示を行なった。割合身近な電送写真、物珍らしい電子計算機などが人気を集めていたが、やはり説明等が専門的になり、一般の人にはよく解らなかったようだ。

芸能祭も開かる

同年は秋に行なわれる芸能祭が、文化祭と並行して行なわれた。例年、生徒会のミスで中止の止むなきを得なかったもので注目されていたが、新装なった体育館ステージで、音楽部の合唱、ブラスバンドの演奏、そして演劇部の劇と約3時間にわたって2日間開かれた。今度で特に注目されることはブラスバンドの進境で、3年前、校歌も満足に吹けず、その費用の出資先すらはっきりしなかったものか、民謡をジャズにアレンジした曲を演奏するなどして、一瞬会場内で深いため息さえ感じられた。

また初めて自己の舞台で演出できた演劇部は「海底の7人」という主題で、熱演、またスポットライトを鶴高から借りて、やっとこの芸能祭に同に合わせたぐらいでその照明音響技術は全くふがいないものがあったが、どうやら全校生徒をあきさせず終った。なおこの会でもヤジが多く、特に定時制生徒からのは激しいものがあり関係者をなげかせた。

充実を示した科展 部展はあまリパッとせず

<青少年赤十字団>

JRCはクラブ展の中では唯一の2教室を使用して展示をした。点訳の意義説明と講習、福祉施設の紹介、千羽鶴の講習などをしたが中でも「千羽鶴」は父兄や外来者に好評だった。また最終日(15)の午後1時から日赤の医者が来て献血をやった。

なお、JRCの話しでは、献血(病人やケガ人に血を供給すること)の受付は、いつでもやっているからどなたでもどうぞ、とのこと。

<あおにれ>

今年が石川啄木の50周年なのでそれと創立50周年とを結びつけて啄木特集特をした。その他に会の作品や会員の作品を展示していたが全体的にパッとしなかった。

<山岳部>

自分達で設計したテントを中央にすえつけて”山の歌”を流して山岳ムードを室いっぱいに満たしたのが山岳部の部展示会場。見学者は山に興味を持つ人々が主で熱心に見ていた。

<美術部>

セメントや粘土による部員の作品を展示してあったが、先に図案科や工芸科の作品を見ているため新鮮味が薄れているようであった。

<映画研究部>

「にあんちゃん」や「青の神秘」他数本を上映した。部員の話しでは客?の入りは相当良かったようである。

<写真部>

先輩や部員の作品を展示してあったがあまりにも単調のようで面白くなかった。

<短波クラブ>

室に入るとツートントンツー、ピィーピィーガーガーとうるさいこと。交信カードを壁にずらっと並べて見学者をおどかそうというのか。しかし、見る人はチンプンカンプンのようであった。

<科学研究部>

毎日観測した太陽の黒点の変化などの研究発表をしていたが、順路の最後なので見学者も通り抜けてしまう人が多かった。

<音楽部>

音楽部は定時制の音楽部と協カして、クラシック、ポピュラー、ウエスタンなどのレコードコンサートをやった。生徒の入りは良かったそうである。

<新聞部>

全国工業高校紹介、新聞の出来るまで、目で見る17才と新聞部でなければ出来ない独特な企画か多かった。しかし全般的に平面的なものばかりで見る人があきてしまうという声もあった。

<郷土研究部>

郷研は毎夏やっている合宿の発表をした。建築・農耕・風習の紹介をしていたが、その中で昔の農器具や日用品を展示した。それらのものは後々保存するそうである。

<鉄道研究部>

室の中央にデンと国鉄神奈川電車区より借りてきたパンタグラフを置いた鉄研部は例年通りのHOゲージの模型電車の運転は10メートルレールでやっていたが少し規模は小さくなったようである。

<招待試合>

50周年を記念してのテニスの招侍試合を14日、本校テニスコートで平沼高と行ない、3-2、3-2で神工が勝利を収めた。

視野

総勢13名の予算編成委員が昼夜の隔てもなく涙ぐましい努力をして減らしに減らした予算が成立した。構成委員の皆さん、ご苦労さん。

ところで今度の予算には幾つかの特色がみられる。部室建設基金及び50周年記念行事による各クラブの予算の削減、生徒会総務部の予算が昨年度にくらべ2倍に増えている事などである。これにひきかえ例年と変らないものも幾つかある。生徒会の招集で3日前の公示を行ったり、生徒総会における生徒会執行部の名論弁など。

ではここらでこの予算が成立するまでの裏面工作の花形、部長会議の一部分をビデオテープでお送りいたしましょう。

この会議の焦点は”予算編成と各クラプとの妥協点よりの2割削減”であった。先ず某君は”2割削減”は本当ですか。と念を押す。執行部平然として?曰く、間違いござません。2番手、少々興奮しながら「2割引きの事を言わないで折衝、妥協し、後から2割引いて澄ましているというのはサギ行為だ。ときめつける。執行部、いよいよ落ち着き払って答えるには、もし最初に2割引きの事を言っていたら各部とも2割見込んだ妥協点を出すでしょう。

何だかキンネとタヌキのお話と関係かあるみたい。この問題は執行部のミスとやらで解決したが、何か執行部への信頼が欠けた感じがする。

13~15の3日間にわたって盛大に行なわれた創立50局年記念祭も終り、2年生は明日より長野譜面に社会見学にでかける。3年生も同日に出発する予定。1年生はお留守番。

社会見学を直訳すると、社会の実際の活動を自分の目で確かめ、それを批判する能力を養うとか。しかしそれだけなら何も南紀関西くんだりまで出かける事はない。何と言っても遠足なのだか、各地の風物をとくと見て大いに楽しんで来て下さい。しかし来年は皆さんの後輩が同じ場所に行くのです。”神工生”だという自覚を見失わないように。

よく騒ぎ、よく遊んだ記念祭、後かたずけ、代休、社会見学、だいぶ気持がふわふわしているが6月には前記中間テストもあることだし、そろそろ冷静に戻りましょう、ネ。

よき体験となった記念祭

明治44年5月開港して以来、本校は既に半世紀の歩みを続けた。余く関係者共々感激した事であろう。記念祭も無事終わりどうやら非常な好評こそなかったのは喜ぶべき事である。ただ、記念祭初日、学校、生徒会とも手違いをして来客にかなり不愉快な思いをさせた様である。学校側の出した招待状にしろ一般公開は14日よりだが、その様に記るされていなかったり、又生徒会でも初日は受付を他人任せ、関係者は体育館でモタモタしている様な状態で2、3の者が走り回っているにすぎなかった。今後よく反省すべきである。

又科展、部展はかなり好評だった。説明なども親切味があってよかった。ただ科展などに於いて余り専門用語を使いすぎた様だった。一般の人々は我々の様に専門的な事に疎い。よってもっと簡単明瞭に概要を説明すべきだった様である。

神工生徒の態度としては一般の人達からは非常に良いとの声があった。記念祭は終わってしまったが、我々がここで受けた経験は、今後あらゆる方面によき参考となるであろう。又そう努力したいものである。

【新聞部論説委員会】

歓迎マラソン行わる 消えない不参加者
さる4月28日、新入生歓迎マラソンが快晴のもと三ツ沢クランド周辺にて挙行された、温度が高く風が強かったのでマラソン日和とは言えなかったが、660名(女子20名)の参加があり参加率は76%であった。今年はテニス、バレー、相撲、剣道など公式試合があるクラブが多かったため、見学者は無視して各クラスの平均点を出す方法をとった。その結果各学年の順位は別表の通り。なお個人成績は次の通り。

1位・角田 東一(CⅡ)24分26秒
2位・佐藤 喜彦(MⅡ)24分26秒
3位・村上 義正(MⅡ)24分31秒
4位・秋山 文雄(CⅡ)
5位・大塚 克洋(CⅡ)
女子1位・小原 順子(FⅡ)

明日から南紀関西へ 2年生は新コース

明日から2、3年生が修学旅行に出発する。2年生は2泊3日で長野方面へ。3年生は5泊6日で南紀関西方面へ行く。そのためしならくの間学校は1年生だけとなる。

3年生

昨年の7月以来、就職、卒業などその他の行事のため中断されていた旅行委員会が去る4月19(水)と24日(月)の両日、クラスの主任と旅行委員が集まり、交通公社の職員を相談役として開かれた。その結果昨年より持ち越されていた28日午後の京都市内遊覧のコースは、交通公社から提示された3案を各クラスで賛否をとったところ、第2案(比叡山―御所―竜安寺―嵐山―苔寺―広隆寺)に宇治平等院を付け足すという意見が圧倒的であったのでそれに決定した。また、4月より国鉄値上げのため全体的に300円程値上がりとなり最終的には6030円となった。

旅行参加の申込みの状況は、全体で234名で参加率は約80%強である。中で電気科は一番不参加者が多く目立っている。

4月19日の旅行委員会で生徒の間から旅行の手引きになる様なパンフレットを作製しようという声が上って、MⅡの松本君を中心に各クラスの委員が見学場所を分担して受持ち、半紙半分大で20頁のガリ版刷りのパンフレットが出発の数日前に生徒に配られた。

2年生

2年の修学旅行は昨年の秋から生徒の希望をとって検討した所。松島や信州など4ケ所が候補地としてあがったが、全員參加と経費を2000円位に押さえるという基本方針により別記の様なコースに決定した。このコースの良い所は天候にあまり左右されにくく、自然美と歴史的建築美が適当にあり変化に富んでいるという所である。また経費が安く2000円弱で済む。

【コース】

24日 夜、横浜発
25日 朝、長野着、志賀高原、松本城見学後、浅間泊
26日 朝、松本発、諏訪湖建学後、夜横浜着

二渓編集委員決定 例年より10ケ月余早く

本年度発行予定の生徒会機関誌”二渓8号”の編集委員がほぼ決定した。二渓編集委員を10ケ月余りも早く決めた理由として生徒会側では、

1、昨年度の様に11月に委員を決めたのでは発行までの期間が短かいため充分な活動ができない。

2、活動期間が短かいとどうしてもオーバーロードになり”二渓”の内容の充実がのぞめない。 などをあげている。

次に二渓の内容については数日前に無事終了した50周年記念を中心にして前号より頁数を増やすという。

二渓編集委員は次の通り(省略)

神工今昔 対談 ソクラテスのかけ軸

記 今日はお忙しい所どうも有難う御座います。

先 イヤイヤ

記 早速ですが、先生は何回のご卒業ですか。

先 大正8年ですから………3回ですか。科は機械です。

記 今日は神工の今昔についていろいろお伺いしたいんですが、先輩が在学中だった頃はどうだったでしょうね。クラス内の雰囲気といったようなものは

先 かなり静かでしたね、それにこれは今でも覚えていますが、教室内には色々の有名な人掛軸がかけてありましたよ。ソクラテスとか、孔子、孟子とかですね。それにクラス内の雰囲気が非常に穏健で、お互気が合っていましたね。学校内は常に清潔をモットーとして、それに我々には卒業すればすぐ実社会に飛出すんですからね、働く事をモットーとして、よく草ボウボウのグランドで草むしりなんかしたものですよ。

記 その頃は寄宿舎も有ったんですね。

先 ありました。その頃は未だ交通が不便でしたからね。

記 科は?……

先 機械、建築と木材、木材は家具科といいましたがね。それから……1年程して図案、電気ができました。

記 校歌の出来たのは何時頃ですか。

先 よくは知りませんが、そうですね、震災前後だったと思いますね。

記 気風といったものは。

先 そうですね、いわゆる質実剛健の精神ですね、勉強もよくやりましたよ。

記 実習工場に名物の煙突かあったそうですが、戦災でなくなったんですか。

先 そうではないと思いますよ、あれはボイラー室でしてね、よく雨の日なんかズブぬれになって石炭を運んだものですよ、その後しばらくしてディーゼルエンジンに変わりましたがね、発電をしてたんですがね。

昔は強かった野球

記 スポーツなんかかなり活発だったそうですが、…

先 そうですね、野球はかなり強かったですね、よく県下代表になりましたよ。神奈川では県内での試合はなかったが、甲信越大会で、昭和12年頃でしたか、山梨でやって優時しました、それからマラソンもかなりやりましてね、始めは全校マラソンなんかなかったんですが、いつでしたかね、4、5年1位に入賞した事がありましてね、それから全校マラソンなんかも始まりました。その頃は小机笥、ありますねあそこまでを往復してました。

記 話は前後しますか、その頃は小机橋、ありますね、あそこまでを往復していました。

記 話は前後しますが、その頃の学校周辺の風情はどうでしたか

先 そうですねー、今裏門となっているのが以前正門でしてね、その頃は今の裏通りが表通りで、オワイヤなんてものが通りましたよ

先 記(笑)

その頃は正門に守衛室がありましてね。ゲートルはいて、毎日通学しました。

記 先生になられてからですが、戦争中は軍事教練などやったそうですが。

先 でもその頃はタダ教練ていいました、それに運動会でもそんなまねなんかしましたね。

記 実習なんかは。

先 そうですね、マア桟橋を例にとれば鋳造なんか年に何回か公開、湯を入れる所ですね、とにかく実習は華やかでしたね。

神工時報はあった

先 あーそれからさっきの話になりますが、マラソンです、その頃横浜貿易新聞という新聞社がありましたね、その主催で鎌倉からスタートとして新聞社前まで、その時、大正4年ですか、その時優勝したんです。

記 運動部は大分活躍していた様ですが、文化部はどうでしたか、

先 でも文化面はありませんでした。タダ神工時報はありました。もっとも先生か中心でしたかね。

神工生はハッキリ

記 では現在、先生から見られて生徒はどうでしょうね。

先 そうですね、マア若いんですからね、ハッキリしていていいと思いますよ、ですが良い事も、悪い事もやるんだ、といって夢中になる、というのは考えもので、やはり旨くコントロールして過激にならない程に進んでいってもらいたいと思いますね。

タダ感激!

記 そうですか、では戦後にこの50周年を迎えた分ですが、それについて先生のお考えは。

先 本校も戦災で大分ボロになりましたがね。あのボロから今までこんなにスバラシイ校舎になり、これからなに不自由ない所ですごせると思うと、全く感激です。これからも生徒諸君と共に頑張っていこうと思っています。

記 ハアそうですか。では今日は色々お忙しい所を有難うございました。

関係沿革


明治44年 5月10日 本校設置決まる終了年限3ケ年、定員180名(機械科、建築科)

明治44年 5月10日 本校設置決まる終了年限3ケ年、定員180名(機械科、建築科)
明治44年 6月10日 杉本源吉本校校長になる
大正 4年 3月30日 秋山岩吉本校第2代校長になる
大正 4年 3月30日 家具科、建築科より分立、電気科、図案科出来る。定員300名
大正 6年 3月坂間先生卒業
大正11年 3月16日 校旗出来る
大正11年 9月 1日 関東大震災、休校
昭和12年 3月31日 山賀辰治本校校長になる。定貝900名
昭和13年 4月 1日 家具科、木材科と改称、精密機械科設置
昭和15年 4月 1日 定員1580名となる

新入生の声を聞く 新聞部アンケート

新聞部では4月27日新入生290名を対象として(尚、回収率81.4%)「新入生の声を聞く」と題して、入学した動機、本校の印象、校風などについて新入生の考えを知るためにアンケートを行い次のような解答を得た。

○本核に入学された動機は何ですか

A 就職率が良いから 77名(27.4%)

B 校風が良いから 23名 (8.2%)

C 自分の特技、趣味に適しでいるから 78名(27.8%)

D 親や先生からすすめられたから 78名(27.8%)

E その他 25名(8.9%)

右の通りAとCは、ほとんど同率を示していたが、内訳としては、Aは、機械Ⅰ・Ⅱで全体の41.5%を占めている。Cは、図案・通信等が多くなっていた。これは科の性質の違いによるものであろう。

○本校の第一印象は

(1)上級生について

A 良い先輩だと思う 106名(44.5%)

B 普通76名(31.9%)

C 感じの良くない先輩だと思う 48名(20.2%)

D 分らない8名 (3.4%)

良い先輩だと思うものが多数を占めているが、反対の感じの良くない先輩だと思う者も20.2%あることに注目しなければならない。

(2)先生について

A 親しみやすい76名(31.2%)

B 親しみ難い 70名(29.7%)

C 分らない90名(38.1%)

AとBのどちらとも、一概にはいえない、といった意見を書き添えたものか大分あったが、それを裏付けるように反対の意見が、ほとんど同数を示していたり、分らないという者が38.1%と大きな数を示している。

(3)勉強内容について

A 全般的に難しい91名(40.2%)

B 専門科目が難しい 67名(29.5%)

C 普通科目が難しい 15名(6.6%)

D 全般的に興味か持てる 32名(14.2%)

E その他22名(9.7%)

普通科の程度を上げてほしいという意見があったが、Cが6.6%と非常に少ない数を示している所から、これは新入生ほとんどの意見であろう。専門科目と共に普通科目の向上が望まれる。

興味を持てる歓迎会 まだ低いクラブ加入率

○本校の校風について【風紀・慣習】どう思いますか

A A面白い 126名(53.3%)

B つまらない 74名(31.4%)

C どうでもよい 36名(15.3%)

(2)毎月曜日の大掃除は

A 必要165名(71.4%)

B 不必要39名(16.9%)

C 分らない 27名(11.7%)

必要が71.4%と良心的な数を表している。

(3)各クラブの勧誘は

A 強引61名(26.8%)

B 適度 109名(47.8%)

C もっと活発に 32名(14.0%)

D 分らからない 26名(11.4%)

(4)本校生の服装は

A 良い103名(44.2%)

B 普迪122名(51.4%)

C 悪い8名(3.4%)

女性の服装が、まばらであるという意見があったが今年から女子の標準服ができたので統一されるのは時間の問題であろう。

(5)掃除状態は

A きれいである55名(23.8%)

B 普通 138名(59.6%)

C 悪い38名(16.5%)

○クラブ活動に加入していますか

A 加入している(委員会・同好会を含む) 118名(57.8%)

B 加入していない 86名(42.2%)

加入しているというもので57.8%という数を占めている。これは57号で調べた加入率38.1%と比べれば、割合と高率であろう。しかし加入していない、という者も、半数近くいる。加入していない理由としては、家が遠方の為というのが一番多く、その他、適当なクラブがない、勉強との両立が出来ない、クラブの活動状態がわからない、等があった。

加入しているクラブとしては柔道部・鉄道研究部・テニス部・ブラスバンド等か多くなっている。

○本校女生徒(女生徒は男生徒)ヘの希望、批判

男生徒から女生徒への希望、批判としては、”不恬発である”という意見が一番多く、”女性の運動クラプヘの加入か少ない””お高い”等、女生徒が少ない所から来ている問題や、”女性らしさがたりない”等という批判があった。

女生徒から男生徒へは。”女性の意見を無視する””男子”が積極的に協力してくれない”等かあった。男生徒側からの意見として、大分ふざけたものがあったが、自重してほしい。

以上新入生の縮力で81.4%の回収率を得た事を感謝します。

50周年を控えて注目されていた36年度予算は、2月に委員会を結成して以来、3ケ月振りに成立した。今回は部室建設基金〔予算3万円〕が特別に計上され、その他、50周年記念祭に関する総務部予算が増加するに伴い大幅削減されることが予想されていたが昨年度からの残高繰越が8万円あることがわかり、各部への予算は例年やや弱で総会に提出された。この最終予算案は、総会20時間前に予算委で草案されたもので、1時間前に臨時緊急生徒会を開いて開会10分前に通過、ただちに総会へ提出された。

総会は予定時間より10分遅れて開かれ、中心異議は決算報告の生徒会夕食費に集中、全校生徒の非難の声が高まり、今年度はこれを認めないという決議案が可決された。折からの強風がホコリを伴って生徒に吹きつける中で予算審議に入ったが、たいした質問もなく、15分後、この急造予算に対して繰り返し動議が出て、可決したかのように見えたが、採決の不手際と各クラブ部長が再採決を申し出てこれを認め、異例の再採決の後、賛成681、反対93、棄権3で可決成立した

なお、50周年記念事業における特別出費に対する特別性と会費は反対クラス多数で否決された。

金木編成委員長談

「我々は2月に結成二月に結成されたが、活動は事実上、4月から始めたので実質には1ケ月弱しか審議出来なかった。今年度は50周年記念祭、専門部予算、部室基金、合宿費などによる生徒会総務予算増のため、各クラプ一般予算は昨年度より若干減少したことは了承願いたい」

アンケート結果の解説 新鮮な意見批判 望まれるクラブ全員加入
今回のアンケートは、新入生を対照とした新鮮なかつ批判力に富んだ解答を得たれ、回収率も80%を越える高率で、担当者社を喜ばせた。特に重心を置いた設問は、Ⅱの本校の校風についてであって、この解答を参考にして、今後の方針や反省をうながそうとしたものである。

この結果によると、伝統的に行なわれている歓迎会に対しては、やっと過半数ながら面白いと答えたもの多かった。これは、その内容のマンネリ化から、新入生につまらない(31.4%)という数字を示したものと思われる。スポーツや郊外へ出かけるのも一考ではなかろうか。またこれに対して、圧倒的贅成を受けたのは月曜日の大掃除で、必要と答えたものか70%を越している。このような心持ちの新入生なので、校内美化への期待は大きい。毎年強引すぎると言われていたククラブ勧誘は、適度であるというのが多く、強引というのは以外に少なかったのが目立つ存在である。

しかし、これには大きな各クラブによる差があることはいがめない。最後にクラブ加入の問題だか、加入率は57.8%と半数をやっと越えたところという数字をあらわしている。山賀会長が全員加入を考えてはいるか、現状では不可能に近い。しかし、クラブ活動は加入するのが常道であり、全員加入が望ましいのはいうまでもない。(水野)

昭和1年度 運動部の戦力は 時報記者の探訪

春のスポーツシーズンも終半を迎え、対外試合がはなばなしく行なわれているが、はたして今年の戦力はどの程度であろうか、このようなことを時報特派記者の目によって探訪してみた。次はその記者の記録である。

剣道部

例年、関東大会に出場しているのだが今年はおしくもだめになってしまった。部員も相当練習に力を入れて来たのだが残念なことである。去年の道場移転によって床はきれいに修繕されたのだったが、練習場が小さくなってしまった。しかし、本校ではめぐまれている方であろう。体育科の倉沢先がすいぶん力を入れており、関東大会には出場出来ないが、これからも活躍を期待できる。

山岳部

本校の山岳部は一度も遭遇したことがない。今年の目標は2000m以上の冬山に登ることだそうだ。当面の問題は部の大型化である。冬の秩父を計画している。「近頃、本校生の中に、山に行った際、落書する者がいるのか、あちこちで「神工」と書かれたのが目につく、山岳部のプライドをけがす事になるからやめてほしい」と、高橋部長は嘆いていた。

蹴球部

運動場整備が終わるまでは、どうしようもなく、現在、シューティングパスの練習のみであり、大きなプレーはまったくやっていない。今まで不振だったが、幸い新任の大西先庄を顧問に迎え、目に見えて練習に張りが見られる、秋季太会には期待がもてそう。

柔道部

新入部員は19名と多く、しかも皆23年生に劣らぬ休格の持主である。これで総部員数40名となった。3年生は他校に少々劣るが、2年生は期待できるのではないか。今の所有段者は6名だが夏休み後までには12、3名に増す見込みである。来年あたりは大いに期待できる年になるだろうから長い目で見ていてくださいと言う事であった。

水泳部

5月から水に入ったが、プールがないのが最大の弱みであろう。現在六角橋プールを便用している。しかしせまい上に、武相高、神大といっしょになるので、思うような練習が出来ない。毎日、2000m程泳いでいる。新入部員が8人はいり、総勢30人のクラブである。しかし競泳をやる者が1人もいない。松本君が、平泳100mを1分25秒で泳いでいる。これは市民大会3~5位の成績で期待してもよかろう。コーチの先生がほしいと部員の者はいっている。

相撲部

今年も相撲部は有望である。レギュラーの平均身長、171センチメートル、体重71キログラムが示すように今までになく大型であり、粒がそろっている。去年の堀江君のように超高校級はいないが、3年生3人は昨年のレギュラーである。また2陣の石井、大将の飯島は2年生であり、これからどんどん強くなろう。特に飯島は部内でも一際大きく、もろい所はあるがこれからが楽しみである。安藤部長は「団体戦は優勝できる。また、個人戦は誰かが、2、3位入るだろう。全国大会に1、2回は行こうと思っている」と語っている。なんといっても、この部の最大の強みは先生に恵まれている事であろう。砂の少ない土俵で、新入生4人を加えて毎日一生懸命練習に励んでいる。

卓球郎

卓球部の新入部員は16名と多く、本年の抱負として聞いたところによると「去年慶応に決勝戦で負けたので、今年は最後の一勝がほしい」と言い、練習状態については「体育館ができればもっと今より諌習に身が入るようになる」と部長は語っていた。今年のホープとして期待のできる人は、森部長、唐沢君、斉藤君、岡崎君、辻井君などで、唐沢君、森部長、斉藤君は大いに期待できそうだ。

庭球郎

庭球部には今年10余名の新部員が入ったがコートが1面しか無く思う様に練習ができないが今年は2チームぐらいそうとうの好成績が期待できる様である。今年の抱負を部長は、「何の試合にも勝ち去年より良い成績を上げたい」と語っている。

籠球郎

バスケソト部には20人近くの新部員が入った、部長に練習状態について聞くと「皆活発に練習しているし今年は体育館もできたのでフルに活用したい」と語り、また今年の抱負は「少しで大きな大会に出場したい、今年は1、2年生の活躍に期待が持てそうだ」と語っている。

羽球部

体育館が完成された事によりにこれから期待されるクラブの一つにバドミントン部がある。今まで練習に機械科実習工場を使用していたが、1面取れぬ有様であり、もっぱら基礎練習のみであった。そのためこれといった成績は、残されていない。「待望の休育館が完成され練習場の悩みが解消されるので、今まで以上に練習を励み上位進出に望みをかけたい」と部長内海君は語っていた。なお6月に全国高校県予選、団体、個人が行なわれる。

野球部

野球部の新入部員数は4月26日までには8人で、野球部の練習状態について部長は「神奈川大学のグラウンドを借りて練習を行なっているので思うように練習ができない。又野球部は部費が非常に少ない」と言っている。今年のホープについて部長は、3年生では伊田君、荒尾君、坂田君、黒田君、竹内君などで2年生では桐原君、平沢君などが有望な選手であると語っているが、一流の選手がいないのは痛く、夏季大会も昨年程度と見られる。

排球部

バレーボール部へは今年123人の新入部員が入ったが毎日練習に参加しているのは56人程度である。この様な事では去年ほどの活躍は期待できないのではないかと見られるが、2、2年生が良くまとまっているし、1年庄の中にも有望な者が、1,2人いる。しかし厚みが無いので苦しい年になるのではないか、他の新部員の奮起を望みたい。

陸上部

新入生が10名入った。いずれも中学校の時活躍したものである。特に秋山は全国放送陸上競技大会において、200mを24秒1で走っている、また発地(ほっち)は3段で12m40cmを出しており、これは去年の高校市の大会の6位に相当する。10月の新人戦は大いに期待してよかろう。しかし運動場が当分使用出来ない事は大きなハンデキャップになろう。現在三ツ沢で練習を行なっているが、往復に相当な時間をついやしてしまう。またコーチがいなく、部長を中心として練習方法と研究してやっている。

ラグビー郎

借りられる練習場がなくもっぱらマラソン、キック、パスのみである。3月21日の新人戦、対城東との試合に20対0で惨敗している。木村部長は、「雨の翌日なのでグランドがすごかった。ファイトはあったが練習不足がたたった」と語っている。

スポーツハイライト 関東大会3位獲得 相撲部

さる13、14日、東京の早稲田実業高校で行なわれた我校の団休戦で我校相撲部は飯田CI―Ⅲ、木村C-Ⅱ、石井F-Ⅱ、飯島S-Ⅱ、安藤M-Ⅱのメンパーで3位に入った。その経過は予選リーグで安房水産高校、明治大学付属中野高校、木更津高校にそれぞれ3対2で連勝して決勝トーナメントヘ進んだ。決時卜―ナメントでは1回戦、帝京商高校を5対0、2回戦、日立工高校をも5対0で圧勝したが準決勝で大会優勝した帝京高校と当り2対3でおしくも勝をゆずり3位にとどまった。また個人戦では石井君、渡辺君、飯田君、飯島君、安藤君が4回戦まで進み、木村君は準決勝まで進出した。

「勝ってホットとした。相手は皆大きいし他校は応援団が活発に応援するのでたいへん取りにくかった。練習の時先輩が胸を貸してくれたのでたいへんたすかった。この成績も皆さんの応援のおかげです。また今月26、27、28日には金沢で行われる全国大会へ出るのでより一そう応援していただきたいと安藤部長は語った。

8連覇成らず 剣道部
小田原の相洋高校において、さる4月30日の午前9時より行なわれた「県下高校剣道春季大会兼関東大会予選」に本校の剣遊部か参加した。

本校の剣道部は関東大会始って以来、7回連続出場をしたが、今度は2回戦で新人戦でも敗れた宿敵日大高校と対戦し惜しくも敗れ8回連続出場の野望は果せなかった。部員の1人が「充分に練習をしたのだが残念だった。」と語っていた。

関東大会神奈川県予選

1回戦 対横浜一商 4-0(1引分け)2回戦 対日大高校 1-3(1引分け)
バトミントン部
4月9日、横須賀久里浜体育館において、関東高校バドミントン選手権予選大会が行なわれた。本校バドミントン部はこれに参加したが、1回戦で小田原高校と対戦し惜しくも破れた。

1回戦 神奈工 1-2 小田高

藤高に惜敗 排球部
4月30日、三ツ沢球技場バレーボールコートにおいて、高等学校体育連盟バレー大会が行われた。3回戦において惜しくも藤沢高校に敗れた。

部室完成は3年後 生徒会で具体化へ
かねてからクラブの間から(特に部室を持たないクラブ)叫ばれてきた部室の建設は、今年度予算に”部室基金”として3万円が計上されてまがりなりにも具体化へと一歩進んだ。

生徒会の構想では200万円位いの総工費で2階建ブロック作りで中央に生徒会室を置き下に運動部、2階に文化部が入るようになる。また、建設の時期としては、いますぐというのが一番良いが200万円もの金は生徒会だけではとても一度には出せないので、P・T・Aや学校側から相当多額な援助を仰がなければならなく、援助を頼むにしても、生徒側の意向を表明するためにある程度の支度金を用意しなければならないので、ここ2、3年部室基金として積み立てて、学校側に願い出るというようになるので、出来上るのは早くて2、3年後になるそうである。

山崎生徒会長談

クラブが部室に困っているのは明らかで、各吉良部の活発化を促すためにも部室を作りたい。今年度予算でももっと出したかったか今年は”足場”を作る段階で、今後の計画の促進には後輩に期待したい。

某運動部長談

部室が出来るのはありがたい、1日でも早くして欲しい。

某文化部長談

部室を作ることは良いが、現在の部室で満足しているし、あまり有有難くは思ってはいない。出来るならば今のままでも良いと思っている。

記者の眼 細くなったズボン

文化祭が盛大に行なわれた。ここで感じたことは、数年前から比べるとズホンがみちがえる程細くなったことだ。4年前までは9インチが標準だったのか、今では8インチ半をすぎて、8インチぐらいが標準と業者は言っている。先輩、神工生を問わず、足にピタッとつくかのように思われるズボンがあちこちにみられた。先生方にはたいへん御不満はあるとは思われるが、ある程度細いズボンは現代の若さの象徴ではないかと思われる。かといって先程のようなモモヒキと勘違いさせるようなのは無論、みっともないからやめるべきだ。そして、このように用いズポンを求めるのも10代のうちで家庭を持つころには、標準型に戻ることはまずまちがいないことだし、場所と年齢とを考えれば、細いズボンも程度問題だが許されても良いだろう。

見本市見学記 各国の優秀な機器 機械2年1組 石井稔

4月17日より5月7日まで約3週間にわたって、東京晴海埠頭で第4回東京国際見木市が開催され、機械科2、3年生は5月4日朝より、見学した。この見本市というのは、世界各国の優秀な工業に関する製品、機械を一堂に集めて、国内はもとより外国の商社と取引の場になっている。そのために航空機の発達によって、各バイヤーは各国の工場等をあちこちまわる必要がなく、この見本市によって工業交流ができるわけである。こんどの見本市の参加国はアメリカ、ドイツ、フランス、スイスなど世界28ケ国が参加し出品展数は10万点に及んだ。

場内に入ると21万m平方メートルと言う広い会場に22の展示館が設けられ、その全長距離は25キロにも達するという。一つ一つくまなく見ていたらとうてい短い見学時間内で見きれない。やはり機械に関係する工作機械、工具、精密機械等により多くの時間をかけた。外国の工作機械は最初に展示されている。会場内所せましとばかりに、まだ僕たちの見たこともない機械、想像もつかなかった程大きい機械などどれも興味を起こさせずにはいられない機械が展示されていた。人間の手をいっさいかりずに製品を切削加工する自動盤、あまりに機械本体が大きいために操作がリモート・コントロールロになっている物、その反面わずか全長30センチ位しかないかわいい旋盤、どれも各国のすいを集めたものである。僕たちにとっては、どの機械がどういう所に使われ、どの機械がどういう特長があるなどといったことは全然わからなかった。

電気機械ではカラーテレピの実験放送、卜ランジスタテレビ、電話等これからどんどんと一般化されようとしている製品である。展示館のうち各国政府の特設館の中でアメリ力のエアーカーは世間で大変評判だったが、これもまだまだ実験段階で期待はずれだった。閉場が5時ということで時間はすぐにたってしまった。帰りがけに、あと10年もして、りっぱなエンジニアに成長して後、今日とは違った見方がでもう一度この見本市を見たいと思った。

閑寂な山歩き紹介 上越吾妻那山と武相国境

今回は春秋に静を求めるハイキングコースを紹介することにしました.

吾妻那山 大峰沼コースこのコースは、これから山へ行き始めようとする人や、女子や子供を連れ、谷川連峰の展望を楽しんで下山、どこを下っても温泉が待っているという快適なコースである。上野を23時五55分の夜行で出発する。著者は5月末に行ったのだが、谷川岳へ向う人々で満員、市内はにぎやかでなかなか眠むれない夜がしらじら明けるころ上牧につく。

登出者は少なく、10数人が駅前に降り立つ。低山であるが、キャラバンシューズぐらいは用意して欲しい。身なりを整え里経を行く、利根川を渡りゆるく登って行くと小和知部落につく、一登りすると右手に小さな小川が流れており、朝食を取るのに都合が良い。ここから草山の山腹をやや急な登りとなる。振り返ると利根川の流れ、遠望は武尊の山が勇壮なる姿をみせている。やがて道は樹林帯に入り、水分け不動といった水場にたどりつく。冷たい水は我々のノドをうるおしてくれる。20分程で大峰沼に着く。

ここは小尾瀬ともいわれ、泥炭層からなる湿原帯で、中央には浮島があり、かなり荒らされたが、尾願と同様な湿地植物が目につく。この沼を一周しても20分しかかからず、結構たのしめる。一休み後、大菩薩を思わせるなだらかな山腹を、草原そしてから松林の中を通りぬけ、海抜1000mを示す石のとりいが立っている。

これより登りは急になり、ちょっとしたアルバィトの後吾妻那山頂上に達する。海抜1323mはあるが、その展望は上越一という折紙付きである。南方から関東平野、東方に武尊そして圧巻は北方に遠らなる浅雪の谷川連峰である。

谷川岳から万太郎を経て平原までその全容を見せている。周望を充分楽しんだら、下山する。コースは仏岩を経るものが晋通であるが著者は、登って来た道をちょっと引き返して赤谷越峠へ達し、いまや廃道同様になった赤谷に抜けるコースを取る。樹林帯をすぎ快適に下ると、小樹が横切り、道は開け、広いお花畑となる。名も知らぬ小さな花から、あやめまで咲き乱れ、休まずにはいられない。一休みの後、このお花畑を縦断して、赤谷川の林道に達する。指道標に沿って猿ケ京温泉に着く。ここは昨年、相模ダムが完成して赤谷湖を作り上げている。水はあくまでも青く、吊り橋から見る湖にボートが静かにすべっているのは全くおとぎの国のようである。

湖上の温泉で汗を流す。野天風呂もあり150円でけっこう楽しめるから立ち寄るとよい。ここよりバスで後閑に行き、準急も止るからこれを利用すると都合がよい。

峰の薬師コース

これは、クラス会や、グループのハィキンクに適当なコースとして推奨したい。費用は280円で時間にもゆとりがある。東神奈川駅より8時21分発が都合がよい。摘浜線を八王子(終点)で中央線へ乗り換え、高尾(旧浅川)で下車、駅前より高尾山登山者にまじって、バス道路をしばらく進むと列をなしていた登山者はいつしか消え梅大平の石の道標に従い小川にそってゆっくり登る。樹林帯を登り切ると、西山峠で、この辺の屋根は、野生の芝生でおおわれており、クループでサークルを作るにはことかかない。軽装で快適な林間ブロムナードで峰の薬師へ向う。西側は展望はよく開け、眼下の津久井渓谷の蛇行、遠望の丹沢富士は全容を見せている。標高500m以下の山々であるが展望が開けているのにはおどろく。峰の荼師は、実生の松が高々とそびえ、日本風のさびを感じさせる。ここから限下の津久井渓谷に向ってシグザグの下りとなり30分程で荒川橋につく。ここより橋本まではバスで15分の行程である。

他校訪問 私立 横浜女子商業学園

元町で市電を降りるといつの間にかが雨が降っている。遅刻をしてかけるときは大変だろうなと思いなから石段をちょうど200段上ると静かな丘の上に今回の訪問校、横浜女子商業学園があった。植木なで玄関は神工の近代的なそれとくらべて大谷石を組み合わせたなかなか風情あるもので、丘の上だけにとにかく眺めが良い。校舎は新旧2つあって新校舎は去年、休育館と一諸に出来たもの。旧校舎は瓦屋根で一見旅館のような外観をしており帝国ホテルと同じ方式の建て方であるといっていた。

校舎は段々畑式に連結されていて下からまで案内してもらった時はずいぶん複雑怪奇桓と思った。横浜女子商業学園は創立54年、生徒数は中、高台わせて1300人、先生は50人くらいで生徒との関係はあまり密接でないそうだ。学期制は三期制で科目は専門科目と普通科目が半々ぐらい、その他に実務教室というのが生徒の中の希望者と学園外から募集した人達によって夜開かれ、タイプ、簿記、珠算などを教えている。現在クラスは中3が3クラス、その他は4クラスで、1クラス60人の国電並みの混雑。教室には冬はガスストープが入るそうで、冬は冷房、夏は暖房が完備の神工と比べうらやましく思った。

クラスの組変えは毎年行われるがそれにはあまり関係なく生徒達は仲の良いグループを単位として行動するそうで、担任は学年に4人というように決まっており、1月交代で違うクラスを受持つ。就職率は100%で就職先は東京・神奈川の一流会社であり、進学する人はやはり少なく今年は11人程であったそうだ。運動場は狭いので(バスケットコート2面ぐらい)昼食後は主に雑談をしたり図書館で過ごす。又上履きは黒か紺に統一されている。

いろいろ話していると高3の生徒が1週8名づつ、交代で構成している週番というのがやってきで何か注意ようなものをして行ったクラブについて聞いてみると、現在体育部は8つ、文化部は14ありその他に生徒会総部直結のクラブ(新聞、図書など)があるそうで、これらのクラプのうち神工にないものとしてはソフトボール体操、英語、経理、華道、書道、時事問題研究、茶道、速記、バイブル、文芸などがある。強いクラブはと聞くと、「みんな弱いんです」といってから「でもパスットが、ちょっと強い」と付け加えた。生徒会活動は活発で生徒会会費は50円、生徒集会を毎曜日に中・高に分れて一週間交代で開き、討議会、レコードコンサートなどを行う。主な行事は運動会と文化祭で毎年行われる。

又、修学旅行は春で中学は東北へ、高校は四国、関西方面へ行くそうだ。大体話のタネも出つくしたので校舎を案内してもらうことになった。最初に体育館に入った。明かるいきれいな部屋いっぱいに気持ちの良いかけ声が響いて、ちょっと強いというパスケット部が元気に練習していた。正面のステージでは演劇部が熱心に稽古をしている。バスケットの部長さんにいろいろとお話をしてもらい、建物が古いせいか歩くとミシリミシリという一種異様な音がする。事務員のお話によると蔵書は約一万冊、利用率は相当良く、生徒に現しみやすくするために「サザエさん」なども置いてあるそうだ。次は卓球場、明かるい部屋には卓球台か4台や置いてあり、もう練習が終わったのか、部員が特別に練習をやってみせてくれた。正面には体操部がフォームを見るための大きな鏡があった。最後は実務教室ある。ここで我々はタイプを打つところを見せてもらい、スローではあったかとにかくABCをZまで無事に打たせてもらって神工の意気を大いに発揮した。

横浜女子商業学園の発展を心から祈り、校門を後にする。あたりはもう薄暗く、雨あがりの霧が立ち込めて下を見るとネオンサインや自動車のヘッドライトが水にクラキラと輝いていた。

随筆 カナリア M2-Ⅰ 辻 正明

私の家でカナリアを飼うようになったのは今から約7年前。

彼が生まれて3週問ぐらいのときある人からもらったのだ。カナリアを飼うことについて特に動機というものはなかったのだが、とにかく飼ってみようということになった。彼が小さかったせいか1週間もすると家の皆になついてしまった。何しろ小鳥を飼うということがはじめての経験なので小学校3年生にとって不思識なことが多くあった。一本足で立っているカナリアを見て驚き、鳥が水あびをしているのや鳴いている様子を見て面白がったりと言った具合だった。僕が指を竹製のカゴの間に入れる、すると彼は短いが高音でピィピィと鳴く、いや鳴くというよりは怒るといった方が適している。事実彼は目をつり上げ羽をバタバタさせて、中指氏に向かって飛びかかり、猛然とつっつきにかかる。彼がいつごろから指をつっつくようになったかははっりき憶えていない。それになぜそうするからさもわかっていない。が、とにかく指を見ると目の色を変えて(事実ほんの少し茶色になる)怒る。(彼のツキは案外威力があり非常に痛いことがある)そのくせ同じ中指の先にご飯粒をつけて出すと今つっついていた指からもさも遠慮深そうに食べている。

このカナリアの性質は内弁慶であり小心であることだ。いつだったかある人からメスのカナリアをもらった。2羽の結婚はうまくいくように見えた。ところがこのカナリア人間様をまねしたらしく彼は少なからず男性としての威厳を見せはじめた。エサをついばむ時は必ず彼が先、もし彼女が食べていると持前の短気から顔を赤くしておっぱらい彼1人だけで食べた。ところが結婚2日目になると彼女、彼の心を見抜いたらしく反撃に出た。つまり彼がおいはらおうとすると逆に彼をつっつき見事知りにしいたのである。そんなだらしのない彼にも父親になった時の子供に対する愛情には少しばかりホロリとさせるものがあった。というのは母親が巣から出てエサを食べることがあった。

彼はピョンと力ゴの隅にとまった瞬間、母親は危険を感じてか、すぐさま彼に飛びかかろうとした。しかし彼はいともやさしく目のあかないひな鳥をいたわるような仕草をしていた。無論この位の事はごく普通の事かもしれないが、その日の朝刊に人間界のいやな記事が載っていた事を思い、なんとはなしにホッとしたのだった。僕と彼とは約7年間つき合っている。だから彼の顔付き、仕草、鳴き方によって大体彼の考えている事がわかる。

それと彼の頭の良さに感心する事があった。(彼はヒエやアワよりも飯つぶの方が好きあのである)。すぐそばまで来たがなにせ敵はカゴの中だ。少々とどかない。あっちにやったりこっちにやったりしていたら、とうとう彼は例のごとく怒り始めた、がそんな事で大事な御馳走はやれない。とうとう彼はオアズケされている事を悟ったらしく、わざと変な方向を向いて知らん顔。いつもなら15秒ぐらいで、又すぐ飯つぶを追いかけにかかるのだが、その日は方針を変えたらしい。不審に思って飯粒をとまり木の端につけて様子を見ていた。すると1秒も経たず、彼は身を翻して見事ご飯粒を取ってしまった。うまくやられてしまった分だ。今日も彼の爪が伸び過ぎたのを気にしながらも、この愛すべき我が親友達をして、そして長く、かくあらんことを願っているのである。

私の青春時代 虚無・錯乱の連続 社会料 岩富 徹

理想に燃えたつ、緑の丘に 建児の意気、たからかに…

この校歌の一節の気分を満喫しながら、旧制5年間中学の洋々たる学校生活を、実に弱々しい心地でスタートを切った。

時の上級生は、全くの肉親の兄のように、勉強に、クラブ活動に、下級生の面倒をみてくれたものだった。弓道部の道場で指導をうけたあと、わからなかった因数分解を暗くなるまで一緒にやってくれたその上級生、厳格できびしかった反面には、心から共につきあってくれた人が、やがて陸軍士官学校にその方向を定めたと同時に、僕の青春も戦争の渦中に完全な虜になってしまった。

英語週8時間、国語同7時間は、学期毎に教練に転じあげくの果ては、皇国2086工場という軍統制経済の一貫名称のいかめしい軍需工場に勤労動員となったのが、4年生の一学期6月上旬授業は2ケ月1日、それも午前中だけという話に、はじめは喜んだ。更に、当時は動員手当が1ケ月50円(現在だと約1万6、7千円見当)、そのうち25円強制貯金9円授業料の払い込み、16円が手取りの小遣い銭という初めての所得。金に不自由はなかったが、殆んどが配給制度のため金はもっていても買えるものがなかった。そのため大部分は1枚1円70銭のレコードと新本がないため、文学の古本に消費していたようだ。又7才にして席を同じくすることができなかった、女性がその工場に動員女学生を含め20倍の比率で同席した事は異国にきたような感じだった。

ところが数ケ月とたつうちに自分の気持の中に予想できない変化がおこった。もちろん戦争の進展については、大本営発表以外を耳にしなかったので、勝つのだという自信をうえつけられていたが、年若くして学窓ははなれ教科書から縁を切られてしまうと、たとえ学生の制服(当時はは国防色服に脚絆をつけていた)に、身を固めていても実生活は全く違う環境に身を投じたことから、虎無感と錯乱の処理方法を見つけることができなくなっていた。その後の絶えまない空襲と食糧事情の悪化にもセンチな軍歌のメロデーを口ずさんでまぎらわしていたようで、頭の機能は日毎に退化の一途をたどっていた。こんなことは現在だからこのように批判できるのであって当時はそのようには気づいていなかった。

空襲で交通機関がだめになると、トボトボと長い道のりを家路にむかって歩き続け、満月の月光さえも美しいと思う心は消え去った。やがて日曜もやすめなくなると、惰性のように工場にむかい、日が暮れると家へたどりつく。ただ工場内で昼食後みんなで話すくつろいだ気分はたのしみの一つであった。そしてその中で、どんな人が本当にいい人で、どんな人が悪い人かを区別する、感受性強い年頃の感覚はもっていた。女学生でも女子工員でも心のきれいな人はその環境のわりあいに多かったし、個人本位の追求にあくせくしている人は少なかった。

一方青年の頃にありがちな興味はやはり航空機であった。隼からはじまって、飛龍、新司偵、鐘軌…といった新鋭機、そして液冷戦闘機の雲間からあらわれる姿には、やはり胸を躍らせてながめていた。現在自動車についての話題のあれやこれやをにぎわすように、その頃、学友達と多くの話の中心でもあった。

太平洋戦争は多大の犠牲を国民に与えたが、そのため平和なそして正しい社会のありかたを国民が知ったことは一つの収穫であり、それだけに過去の姿を知らない人々でも、その高価な犠牲の存在を忘れないでほしい。われわれの時代にはすべてのことを知らされず、一部のことだけを本当のことだと信じこまされた、世の動きをくり返してはならない。ゆがめられた青春を次代にも再現しないよう、みんなでみつめて歩こう。(おわり)

時事批評 科学の進歩に伴わない精神

1957年10月4日、ソ連が世界に先きがけ人工衛星スプートニク1号を打ちあげてから3年半、人間の宇宙飛行が成功するに至り入類史は画期的な進歩を示し、ついに宇宙時代に突入したことが実証された。

ソ連は4月12日午前9時7分(日本時間午後3時7分)初の宇宙パイロット、ユーリー・アレクセービッチ・ガガーリン少佐を乗せた宇宙船「ウォストーク(東万)号」を打ち上げ、地球を回る軌道に乗せることに成功、一周の後、これを回収、ガガーリン少佐は無事生還した。この宇宙船は、かつて動物回収に成功している衛星船の改造型であって、重量4.725トンの船体を強力な推力を有する多段式の巨大ロケットで打ち上げたことが予想される。公表された写真によっても、その機密保持の関係上ロケット本体は大幅に修正されており、詳細は全く明らかにされていない。

さて、初の宇宙飛行士ガガーリン少佐だが、ソ連首脳をはじめ全国民にかってない熱狂的な歓迎を受け、フ首相は、人類への奉仕のための勇気と果断とヒロイズムの模範として氷遠に記憶されるだろうとガガーリン少佐に祝辞を送った。ではその偉大なる功績はどこにあったのだろうか、その一つは重力加速度と無重力状態にどう対処するかである。この場合には、ガガーガン少佐は快適だった無重力状態としてその苦は全くなかったようだ。

しかし、重力加速度さけられない難関で、この飛行には地球上の重力加速度の13倍もの重力加速度を示したそうだ。地球の引力を脱出する時、そして大気圏へ突入する時の猛スピードが出す結果だ。我々普通の人間であったら、地上の5倍の加速度で全くその機能を奪われてしまうということだ。しかし、ガガーリン少佐の英雄的価値は、精神面にあったと言える。末知の世界に向う時の恐怖感、試練では征服出来得るものではない。ここに登場するのが20世紀の力、科学の力である。彼はソ連、科学アカデミーの科学の力を深く信頼していたからこそ、あの画期的な宇宙飛行を成功させたのだ。20世紀に入るや、科学は長足の進歩をした。いや加速度的にその進歩の跡が見られている。

さて、この偉大な科学の成果から関連させて東西両陣営の関係に目を向けてみよう。アメリカでは遅れてはなるまじとぱかり、5月5日午前9時34分、マーキュリー計画によるレッドストーンロケットに、第2の宇宙旅行家、7m旅行恢、アレン・B・シェパード中佐を乗せ、15分後の宇宙飛行後、無事大西洋へ着水した。とかく沈滞気味だった米国民も、宇宙競争の仲間入りが出来たとばかり歓喜の声と拍手を送った。

先のソ連の軌道飛行108分間と、米の弾道飛行15分とは比べものもない程の規模だが、米ソがこのような科学の宇宙競争をやりあっていくことはその発展と人類の平和への意義から言っても望ましい姿と言える。そし忘れてはならないことはその科学の進歩を特定の一国で代麦してはならないことである。また今後の米の人間ロケット成功の二ュースに対して、ソ連は比べものにならぬちゃちなもの」として全く平静を保っていたが、心からの祝福の気持が出て来るようならば、平和共存も夢ではないはず。宇宙競争は追う方は全く不利である。

今度の米の打ち上げも、科学的価値というよりも一日でも早く宇宙飛行を…という国民感情に走っていたものといえる。それが証拠に、マーキュリー計画はアトラス(推力11万8000キロ)を予定していたが、これが不安のため最も安全度の高いレッドストン(推力3万4000キロ)を利用したことがいえる。米は、「ソ連のように秘密のうちに計画は立てない。全人類共通の目的のために、すべてを公表して実験を行なっている利点があるのだ」と言っている。しかし、機密については賛否はいえない。自由主義陣営から、ソ連を見れば、「ガガーリンの宇宙旅行は一人目ではない。

失敗者か必ずある」というような誤解を受けても、釈明は出来ないわけだがいずれにせよ、東西の代表団が、その科学の総力を尽し、宇宙開発の記念すべき第一歩を印したことは、中世探検家における新大陸、新航路の発見と同様の偉大な一発見であり、いまさらながらにその科学の進歩に目を見はらせるだけでは、近くに目を向けて、日本の宇宙開発にちょっと触れることにする。戦後、米軍により、飛び道具一切を禁止されていたが、昭和29年、文部省より60万の予算により糸川教授(東大)によって長さ23センチ、直径1.8センチのベビーペンシル型ロケットを打ち上げた。

そして、32年から始まった国際地球観測年がこれに大なる推進力を与え、後半にはカッバー6型ロケットが出来、数10キロ上空に打ち上げた。ごして34年、科学技術庁長官中曽根氏によって計画は大型化され、カッパー8型が100キロのカベを破り、今年4月に9L型を350キロに達しせしめた。そして3年以内には、1000キロに到達せしめるラムダロケットを計画しており、人工衛星も3、4年後には打ち上げられる見通しである。日本ロケット史、わずか7年で、このような一大進歩をとけたことは米ソ両国からは比べものにはならないが、脅威の目を世界からあびている。しかし、ロケットの国家予算はカッパーより、防衛庁のミサイル計画に重点がおかれ、業者もミサイル製作に動いているため、健全な発展には課題な努カが必要である。

冷戦止まず

宇宙旅行を終えて、熱狂的なガガーリン騒ぎの興奮がやっと静まった時、キューパのカストロ政府に対して、ニューヨークに本部をおく反カストロ派「キューバ革命評議会(議長、ホセ・ミロ・カルドナ氏)」から反乱の火の手があがった。去る4月15日、突然、ハバナ郊外の基地を空襲し、8人の死者を出した。

これらの反乱はカストロ首相の圧政に耐えかねアメリカ等へ亡命した避難民が中心となっている。そしてこの米国連代表は亡命者の中には、キューバの初代大統領、初代首相が入っていると弁明した。これらの亡命者がカストロ独裁制に対してここ数ケ月あらゆるところでその前哨戦が行なわれていた。

亡命者たちは、1月よりガテマラやマイアミ(共に米国本土)において攻撃訓練を受けており、いつしか紛争の起り得ることはある程度予期出来ていたが、そのための防止対策は何一つともとられていなかった。ここで15日“圧政者に抗して立ち上ったキューバ人の至高の目的はキューバの自由を最終的に回復すること”として反乱軍は立ち上がり17日ついに反乱軍はキューバに上陸、緒戦ははなばなしく勝利をおさめて行った。

しかし18日になるとカストロ首相は俄然反撃に転じ、民兵を指揮すると同時に、ソ連製戦車ミグ戦闘機燃を操り出し、翌19日には、反乱軍に悲劇的損失を与え事実上壊滅させた。最初のうち、低姿勢に出て、機をみてゆだんしている反乱軍を一挙に打ち破ったカストロの戦法はあっぱれであり、この反乱も最少限の損出に止め、わすか72時間にて反乱分子を粉砕してしまった。

この問題に対し、早速カストロ政府とン連政府は、国連総会政治委員会で「米の明らかな侵略行為でありただちに停止すべきである」と声明を発表したが、米代表は、「侵略の意図はない、しかし、独裁主義に対して、自由と民主々義をかち取ろうとする国民に対しては同情する」と反論した。しかし米ソどちらにもキューバに対する考え方には裏があり、ここに冷戦の吹き返しを感ぜずにはいられない。

たしかに米国にすればキューパの共産化は、目の上のコブよりもずっとうっとうしいものでありガン症状である。またソ連にしても、この土地は、他の共産主義諸国よりもずっと都合が良い場所にあり、その上共産主義銀英の拡充化をはかれるのだから、手放しで賛成であるし、助長するわけだ。しかし、米国はあせりが先に出た感じだ。ニラミ合っている2人がどちらかで手を出して相手をこずけば、手を出した方が不利になるのはいがめない。この点で米国は国際上に、はっきりとソ連の非難を受けなければならなくなったしまった攻撃の的となってしまった。

ラオス問題、核兵器禁止問題とこのところ緩和政策を続けて来たケネディ大統煩も、ことキューバに対してはその自制もなく、ア前大統領同様“キューバを共産主義の手に渡さぬ”と積極政策を取った。幸いにもこのボヤは大火にならずすみ、反乱は失敗に終ったが、これによって、大きな損害を受けたのはキューバではなく、米国であったようだ。キューバは、雨降って地固まるのたとえどおり、その結束を強め、アメリカの侵賂主義を攻撃した。そして、アメリ力は今後もソ連に一歩先をこされ、いつも受け身にまわされる可能性も強く、ソ連のフ首相の強硬声明もあって、冷戦いまださめやらずの感が深い。

人間衛星が上がり、宇宙時代の現在に、まだこのようなせまい心と精神が宿っていることは何とも理解しがたい事実だ。人類はもはや、国境の問題を超越した世界連邦の時代に入り、大いなる科学の進歩をうながすべきではなかろうか。(H)

正副会長 新任のあいさつ 井上(正)・川崎(副)・高木(副)の三氏

50周年を期に前進 新会長 井上 正一(機械2回)

先日、母校の創立50周年と復興完成の祝典が同時に極めて盛大に行われた事は誠に御同慶の至りと存じます。特に講堂及体育館につきましては県に同窓会並びPTAも協力致しまして、学校創立以来の大事業でありまして学校長初め当事者の御骨折りは申すまでもなく同窓会におきましても渡辺前会長、漆原前副会長並びに各役員の献身的な御努力につきましては皆様の御功績の多大であります事に頭の下がる思いを致す次第であります。殊に渡辺氏の如き名会長を頂き熱烈なる会員諸君の協力も偉大なるこの事業の達成を得られた事と存じますが、渡辺氏はこのため特に二期会長を務め本月末には再び欧米の旅に立たねばならぬ程に御多用で今回の役員改選の機会に私が引き受ける事になりましたが、もとよりその器でもなく、ただ幸いに新進気鋭の川崎及高木の両氏から副会長御就任の御承諾を得ましたので会役員及在校役員並びに会員の皆様の御努力を頂くものと信じましてここに神奈川工業会の発展のため御受けした次第でありまず。微力のいたらぬ点は何卒皆様の御支援によりまして心強い活動を致したいと存じます。

戦争中による学校の焼失で我会の集会も甚だ不便であったため既に戦後18年の才月を経て、今や戦前にも増す世の中は想像も及ばざる変化と進歩をここに持ち来たした如くに、又この立派な学校が完成し、世紀の祝典を摘会に同窓会に於いても亦新しい理念と構想のもとに今こそ前進せねばならぬと思う次第であります。今や神奈川工業会は万を数える会員を有する様になりました。此等の会員は大正の初期以来の日本産業の大きな発展にそれぞれその分を尽し貢献したものであります。万の人の団結は誠に大きい、この人達が母校を愛する共通の心で相互の交流を計り、共に会い共に力して人格の向上を計り、さらに新しい日本の産業人として我国工業のために真に御役に立ち得る会と致したい希望をもつものであります。

この盛大なる記念大会の集まりの如き将来、いつもかくありたいものであります。さらに考えられますのは、戦後はとかく後援会的な感があったがこの機械にますます同窓会の本来の使命を見定めて最も親しみある会とする事が私共の願いであり、これを実行し実現致したいと考える次第であります。要すれば市内の便利な所に集会所の設置もよい、又関西あるいは名古屋等の会員の多い所に支部開設もまた必要ではないかと思う次第であります。今後の発展を念じて就任の挨拶と致します。

アンバランス的就任 新副会長 川崎 武雄(図案14回)

私は、昭和3年図案科(当時の科名)第14回の卒業生である。卒業といえばきこえがよいが、野球なら満塁、フルベース、押し出しの1点である。

同窓会の会長とか、副会長という役柄は、その学校を優秀な成績で卒業し、社会にあっては、地位人格の高い人が役につくことが当然であり、こうした人を選出することが常道であると、私は過去の実例から見てこう思っていた。世間もこう思っているであろう。ところが私の副会長は、まるで逆である。

世の中は180度に転回したようだ。巻きゲートルの恰好で登校し、1週間に一度の服装検査、女性なら母、姉妹の他は近寄るべからずの鉄則のあった神奈川工高も時の流れには勝てずとあって、男女机をならべて勉強が出来るとは隔世の感がある。

美の世界も同じようだ。均整の美、安定の美が、至上の美しさと解された時も移って、今は、自由の中にアンパラスの美を探究している。

こんなことから見て見ると、私を副会長に選出した理由も、わからないわけでもない。

私は卒業して以来30余年、株式会社松坂屋に奉職し、百貨店の宣伝事業にたずさわって来たのみで、副会長と云う大任をになう才能も地位もないサラリーマンである。こんな私が、アンバランス的存在価値から役員として選出された以上その存在的立場のこの目から見た同窓会今後の発展のために会長を補佐しつつ全力をつくしたいと思う。

どうぞ、先輩、後輩の皆々様、一層の御支援をお願い致します。

校舎完成を誇りに 新副会長 高木 盛家(電気18回)

神奈川県立神奈川工業高等学校の創立50周年お目出度う御座います。

副島校長始め、各職員方々の弛まぬ長年月のご熱意と、PTA、同窓会の役員各位のなみなみならぬご支援、県庁諸外部関係方々の御支援でかくも立派な校舎が創立50周年を迎えるを期に完成しましたことは、同窓生の一員として、誠に誇りとするとともに、覚醒の隔をいだく次第であります 。

木造2階建校舎で教えを受け、桜の木のあるバスケットコートであばれた時代の私としては、夢にも考えなかったことであります。 昭和7年(電気科18回)卒業以来、29年間、丁度その半数を現東芝に勤務し、戦後独立、工場を自営してまいりましたが、東芝在勤中の大半は戦争で、独立後は混乱した世相の中で、現在の主製品サーミス計測器の製造販売を時始め、社会に認められる迄の長い間、物、神、両面苦労し続けた私としては、言訳がましくなりますが母校に御伺いしたことも数える程しかなく誠に申訳なく思って居ります。

今度創立50周年記念と、難事とされた校舎復興に御努力なされた前役員の後任として副会長の栄をうけました。幸にして大先輩であり、ファートのある井上新会長の下でありますので、何かとお指図に従って受けた万分の一の御礼報に、微力ながら努めさせて頂きますれば、諸先生方及び、一万の同窓生皆様御教示をおお願い申し上げる次第でございます。

在校生の皆さんも、此の新しい校舎でよき諸先生の教えにより、新説の設備を充分活用して、伝統ある神工の名に恥じない有為な青年となり、年一年、此の神奈川エ業会に加わって戴き、共に手を握り希望と夢をもって、産業界に貢献しようではありませんか。

創立50周年を迎えて、今日までにならしめた同窓会前役員方々の労を深謝すると共に、今後も一層の御力添えを願って御挨拶の代りと致しします。

5ケ年の大役を終って 離任あいさつ 渡辺 常正(機械7回)

昭和31年度会長就任以来5ケ年母校復興と本会の充実を目標として微力ながら努力してきましたが、先年発行の会員名簿によってかなりのところまで諸兄の消息をキッチし、特に今回の母校創立50周年記念式典も立派な講堂で極大に挙行できたことを衷心より喜んでおります。

母校々舎および諸設備等がここに到るまでの間、県当局を始め御関係各位の格別な御理解と御後援に対して衷心より感銘をもって御礼を甲上げるとともに会員諸氏、役員諸氏に深甚なる謝意を表ずる次第です。

同窓会が母校を愛することは誰もが当然とすることでありますが然しわれわれの神奈川工業会発足以来自他ともにゆるす熱烈たる思慕をこめて母校の発展に協力して歩んできました。

更にここにかがやかしい母校50年の歴史をかえりみ、創立以来母校の発展に寄与せられた歴代校長先生をはじめ諸先生並に御関係の方々、あわせて故会員諸氏をも偲び感慨を深くするものであります。

今春さらに483名の新会員を迎え、今や1万に達せんとする大組織をもち、躍進一途にあるわが国産業界に貢献する態度をもつ状況になり、得たことはまことに御同慶に堪えないところであります。たまたまこの時に当り会長として前副会長井上正一氏、副会長として川崎武雄、高木盛家氏の就任を見ましたことは将に本会の欣倖この上もなきことで必ず更に一段の充実せる発展を遂げらることと信じます。

記念・事業募金には諸兄より甚大なる御協力を得ました(別掲)が在任中所期目標には遺憾ながら達し得ませんでした。母校の希求する諸々はなお今後記念会の継読事業として残されることになっております。募金に関しても現在なお御協力下さる方が多数ありますので本会の募金は一応今年7月末日まで延期することに5月2日の評議会で議決されましたので、今後ともよろしく御陥力下さるようお願いします。

任期中本会運営の種円なる面で漆原、井上両副会長並びに小川本成金子吉之助両相談役から非常な御支援を得たことを多謝し、離任の御挨拶とします。

城南神交会紹介 経営の研鑽を目標に

このたびの母校創立50周年と威容新たな施設再建の完成を我々一同心からお祝い申し上げます。

記念号の本誌紙上をかりて一言我が城南神交会を紹介させて頂きます。大工場地化する京浜工業地帯の間隙を縫って私達はそれぞれ過去の化事経験をもとにしでささやかな事業をはじめ菲才に鞭うち辛苦経営に当り今日に及んで居ります。

偶々仕事を通じ或る図らざる機会より同窓を相知りお互いに学窓を同じくすることが何ともいえない懐かしさを呼び起し肉親以上の親近感を以て誼みを深めて参りました。そしてお互いに仕事の違いこそあれ同じ道での苦労を、又希望を語り合い、励まし合い、仕事の上での便宜を計り合うことの甚だ大きな力なることより、東京城南地区(現在のの所、主として大田区、品川区)での立場を同じくする同窓有志が発起して、本家の名前と一字違へて組織されたのが城南神交会であります。

本舎の発足及び運営に最も御尽力頂きました塚田匡高氏のほか下段別掲の如き各氏以下現在15名に加へ新たに参加会員数名が居られます。このうち従来神奈川工業会の監事を塚田氏が委嘱就任されて居りました所、今回の役員改選に当り副会長に高木盛家の新任を見ましたことは、我々も大いに喜びとする所であります。

我が会は館員の親睦から一歩を進んで仕事の上での情報交換、相互協力から新しいマネージメントの研鑽を目標に掲げて活動中ですがこれ等を具体的に行なってゆくに必要な機関と基金の設定をも将来の課題として居ります。諸賢の御協力を改めてお願い申し上げる次第であります。

終りに母校、並びに神奈川工業会のますますの御発展あらんことを祈り上げます。 

専門教育の徹底の外国へ

アメリカは同行8人、34日、ヨーロッバは一人ぼっち331日。

サンフランシスコに着いたのは一睡もしない朝の5時。出迎えの米人マネージャーと通訳に連れられ直ちにバスでサクラメントに時速90キロ以上で飛ばす。途中朝霧の中で4、5台の自動車が一緒に追突しているのを3つも見た。

ロサンゼルスの学校、機会科(機械工作だけ)、金属(メロウと聞こえる。溶接板金)、印刷科(モノタメプ製版・写真版等)、エレクトロニクス(ラジオ)、タイピング等、みな手の技能に精出している。きれいな静かなお嬢さんの校内新聞部長が記事を取りに来る。3人の男子の写真班や助手をつれてテキパキと。科との話、半分ぐらい通じたかナ。この新聞は横浜に送ってくれた。

1月というのにロスは初夏の候、花ざかり。シカゴ・デトロイト、一ペんに零下10何度、高校・大学のほかベルテレンォンやフォードモーター。フォードは週4日で操短。ヘンリーフォードが集めた。電気や機械、工作機械や汽車の古い時代からのコレクションした博物館に、大雪のしかも街から20キロも離れた所に、少年少女が層と見に来ている。

大陸横断の急行、一等寝台1室1人又は2人。室ごとに0.6平米くらいの洗面所に便所化粧台等がステンレスで折畳みに作られている。4つのスイッチで、温度・通風等を好みのように自動調節する。アメリ力の鉄道は斜陽企業で大都市の駅もガランとして、客車も日に数本しか出ない。

ヘガースタウン(マリーランド州)有線テレビで48校をつなぎ、郡教育委員会にテレピビ放送局専任教師が20数人を置いている。放送局スタジオと小学校のフランス語、音楽のテレピ授業を見る。テレビの先生、教室の先生、生徒の三者よく呼吸が合った的な授業。高校の数学などもやっているが成果は疑問。

家庭訪問。アメリカでは弁護士の家庭、医局の化学者の家庭、小学校の校長さん、ドイツでは下宿のオパサン、機会技術者。大がい近所の友人夫婦2組ぐらいも来て夜11時頃まで賑やかに楽しく過ごす。下手な英語や単語だけのようなドイツでみんなでよく引立ててくれて、多少議論めいたことも率直に言い合ってたいくつさせない。多くは地下室、地上2階位の一戸建住宅、地下に工作室、重油パーナーの金体暖房の装置。寝室、湯殿(便所)奥さんの着物の戸棚まで案内して見せてくれる。ドイツでは日本にこんな電気掃除器があるかと聞いたオバサンもいた。

ニューヨーク・ワシントン・大雪。道路の中央だけはたちまちブルトーザで雪をかき、岩塩をまいて減らぬようにする。おかげで靴に白く塩をふく。

ロンドン。トランクを下げて初めて一人ポカンと飛行場に降りたときは、一寸心細い。お金の両替をして、イギリスの2シル半の銀貨、1ペンスの銅貨の大きいの、しかも1913年など昔からのものなのに驚く。空港から市内までの車の両側にディケンスの物語に出てくるような小さ煙突を56本一つにまとめて屋根から突出した旧い家並。ホテルに着いてすぐ近くの床屋に行ったら、横浜に2ケ月居たというおやじさん。

英国は工場に通っていつ青年を必ず学校に出さなくてはならない3ケ月工場、3ケ月学校というダンドウイッチ方式に大変力こぶを入れて技術者養成につとめている。美術館とオペラにはよく行った。ワシントンの美術館・大英博物館、パリのルーブル、ニューヨークのグッケンハイム近代技術館が楽しかった。ワシントンでは各室の説明を電波で放送し、小さな受信機を借りてイヤホンで聞きながら歩くこともできる。国立の所ではツーア(案内付小団体)の世話をもしてくれる。

ドイツのエッセンの工業学校・校長フイシャ博士がいちい実験装置を聡さんして熱心に案内。セラミック科(やき物から出て、半導体まで)原子核科など。アメリカの工高には機会電気と並んで食物・タイプ等もあるが、ドイツでは機械・電気の学校と建築、工芸の学校はハッキリ別の学校。ここも工場に勤めながら上級の勉強するのが本筋。

ベルリン、シーメンスシュウカート工場の迎えの車で歓待される。シェーン博士、ウェーバー博士(女)などドイツの科学と技術、国民性についての烈にたる抱負と自信。ドイツ語の勉強をずーっとなまけていたことを残念に思う。ほかの人が英語で助けてはくれるが。

スイス、チューリヒ近くのスルーツアー内燃機工場ではドクタ・コンテスの好意で英語のできる技師が付いてくれて、彼のフォルクスワーゲンで、方々案内してもらった。ここでも大事な鋳造部分の材料は大変なギンミをして他にまかせない。

ユンクフラウ頂上、前日の雪でこの日は快晴。登山鉄道で二度乗り換えを教えて上げたフランス人夫婦と仲良くなったが、フランス語の耳と口は一年生。スキーの客が大部分。4、50才の奥さん連れでスキーをかついでいる人も多い。紺色の空を突く白峰と風、氷河の巾と長さ。頂上では普通の靴と服で苦労しながらも2時間余雪の上で激しい日照を楽しんだ。山の食堂で2組のスイス人とスイスワインを飲みながら、むこうが猪谷千春のことを思い出したので、こちらはトニーザイラーのことを話して乾杯した。

スイスでは旅行者にうるさい感じを与えず、静かに離れて肛いながら、心から親切に、困らないように気を使っている。その事が宿でも駅でも汽車の中でも感じられる。