神奈川工業高等学校(旧県立工業学校)校歌

校歌

作詞 浦井喜久造 作曲 岡野貞一

一、駅樹声なく 郵亭古りて

金港遠く 船寄せ来れば

文化漂う 我が日の本の

枢路にたてる 学びの園生

二、開け行く世の 幸多かれど

この工業に 勝るあらめや

ジュースの神の 秘めてし槌を

執りてかためん 御国の基

三、天与の使命 我らぞ担う

青雲高く たなびく所

二渓の花の かがよう見ずや

至誠溢るる 健児の意気を

校歌由来

大正11年(1911年)、本校教諭 浦井喜久造先生(国語科)作詞また、「故郷「おぼろ月夜]など後生に残る、日本のうたを作曲した岡野貞一氏が、神奈川県立工業学校の校歌を作曲し校歌がうまれた。

校歌といえば二拍子の曲が多いなか、わが校歌は三拍子で、とてもめずらしく気品あふれる優雅な校歌といえる。

「駅樹声なく:…」講

(一)駅樹声なく…

1500年前の日本人が律令国家に成長した時から江戸幕府の終わるまでをこの一行で表す。

天智、弘文、天武、持統、文武天皇(671~701)の約30年の間に、近江令から大宝律令まで、つまり原始日本が律令国家として態勢が整うまでになった。それで中央から七道の大動脈路(国の生命線を通じて政府から各国府への役人の往復、命令の伝達に大量に馬が必要になりある距離毎に常時多くの乗り次ぎ用馬を常備する「駅亭」があって宿舎にもなり、また書簡物品を逓送する「郵亭」が置かれた。

近世では東海道五十三次のような宿場本陣等があり、大名の参勤交替などの宿舎人足や馬匹や物資の調達をした。

一番の第一行、第二行は国の生命線を譲った駅亭も郵亭も泰平の夢の中に古びてきたその祈りも折り、神奈川のはるか沖に黒船に目を覚まされて、にわかに西欧の文化の波に浴する日本、中でも重要なこの横浜の地に建ったわが学園。

(二)開けゆく世の…

「ジュースの神」はデウスの神、最高天地万能の神、ローマのジュピターと同じ。

(三)天与の使命…

「青雲高く」はかっては「青雲の志」を抱いて地方の青年が都に上った。将来、身を立てて青空の者の如く高く超えた大人物に成りたいと、その青雲。

「二渓の花」渓は谷、学校の辺りは東と西の二つの山にはさまれた谷になっている。この谷を「二ツ谷」と昔から言っていた。今は平川町通りの名。東西の丘も、その間の渓も桜の花でいっぱいだった。もちろん校庭も校舎工場の回りもみな花でおおわれでいた。

岡野 貞一(作曲)

明治 1年 現、鳥取市に生まれる
明治33年 年東京音楽学校(現、東京芸術大学)卒業
明治39年 同校 助教授
文部省尋常小学校唱歌の作曲委員「故郷」「おぼろ月夜」「日の丸」「もみじ」「春の小川」
大正12年 同校教授
昭和 7年 高等官四等叙正六位で退官
昭和16年 日大付属病院で逝去
享年63歳
本校二代目校長秋山岩吉先生が文部省に精通しており、岡野貞一氏に作曲を依頼したと思われる

浦井 喜久造(作詞)

明治 9年 足柄上郡大井町に生まれる
明治41年 神奈川県師範学校(現、横浜国立大学)卒業
明治43年 横浜市立木町尋常高等小学校訓導(現在の教諭)
大正 9年 本校教諭となる(国語および漢文担当)
大正11年 校歌作詞発表
大正13年 埼玉県立久喜高等女学校へ転任
昭和 6年 現富士見丘高等学校 後に教頭となる
横浜貿易新報(現神奈川新聞)の俳壇の選者を長年務める
古事記研究家
昭和21年 現、県立足柄上病院で逝去
享年61歳